2015年5月16日土曜日

日英同盟――(1)日清戦争と英国

日清戦争と英国


日英条約改正談判中であつた。日清間に於ける朝鮮問題は益々緊迫して風雲たゞならず、何時火蓋は切つて放たるゝか計り知るべからざるに至り、談判は此問題に推進せられ、俄かに活気を加へて来た。而して日清問題の本体につき、冷然と白眼を以て視てゐたのは英国と露国であつた。

日清戦争の結果若し日本が勝利を得たならば、多年南下政策を行ひ、不凍港を獲得せんとの機会を失ふであらう、是れ露国の憂ふる所である。南京条約以来孜々しゝ汲々支那に扶植した優越権に、何等かの脅威を与へらるゝであらう、是れ英国のおそれる所である。日清国交の危機を告ぐるや、露国から三回、英国から二回の干渉あり、米、仏、独からも微弱な干渉があつた。最初英国の仲裁案を持出した時、支那側の不誠意により画餅に帰し、第二回目に至つては、最早時局が切迫して、外国の仲裁を容るゝ餘地なき迄になつてゐた。何れにしても露国と英国とは、日本の勢力が大陸に拡延せんことを怖れたのは同一で、日本の進出を阻止しようと試みたのだが、共に能く最後の目的を達成することは出来なかつた。そこで英国は経済的本拠たる上海けなりとも、戦争の惨禍より免れしめんと、上海の中立案を提議して来た。陸奥外相は再三英国の仲裁案を退け、尚ほ此上にも英国の感情を害せんことを慮り同意した。所が戦時に入ると支那は中立地帯を利用して策源地としたのである。何の事はない。支那の為め不可侵の安全地帯を提供した様な結果となつたので、英国へ抗議を申込むと、中立地帯を承諾しながらと反撃し来るので、日本も断乎たる決意を示すに至つたが、其のうちに戦争は日本の有利に発展したので、英国も大に覚醒する所があつた。

宣戦布告前即ち七月二十五日朝鮮豊島沖で、日清軍艦始て砲火相見えた。我が軍艦は英国旗を掲げた運送船高陞号を撃沈したので、日英間の国際問題となつたが、清国の将兵は英国人船長の自由を拘束し、且つ日清開戦に至らば直ちに清国に帰属すと云ふ条件になつてゐたので、幸ひ無事解決したが、一時英国に於ける輿論は日本に対し非常に激烈なるものであつた。

二名の米国人が桑港サンフランシスコから英船ゲーリック号に搭乗して出帆した。此二米人は清国の軍事幇助の嫌疑者たりとの報告があつたので、十一月五日同号が横濱入港の際、我が海軍武官が臨検すると、既に彼等は其の前日仏船シドニー号に転乗して神戸に向ひ出帆してゐた。然るに此臨検が問題になり、英国公使から臨検した理由の辯明を求めて来た。日本政府は彼等は日本に敵対する行為を目的として清国に赴くもので、交戦国の権利なりと主張したが、英国公使は容易に認諾せず、尚ほ数回交渉を続けられ、結局有耶無耶のうちに立消えになつてしまつた。是れ治外法権と戦時国際法との相剋である。然るに仏船の神戸へ入港するやまた臨検を受け、一転して日仏間の問題となつたが、之も戦時国際法を破ることは出来なかつた。兎角彼等は治外法権に重きを置き、何事でも之により処理せんと云ふ錯覚に出でたのである。

英国東洋艦隊司令長官フリーマントルの率ゆる艦隊が洋上に於て我が艦隊に邂逅した時、彼はわざと轟々祝砲を放つて、清国側に我が艦隊の所在を知らしめたり、また我が伊東司令長官に書を送つて、英国の商船は我が保護の下にあるを以て、若し日本軍艦の臨検捜査ある時は、不測の変を招くことあるべしなどと、日本の交戦権に拘束を加へんと謀るなど、其の言動不穏なるを以て、我が国は英国政府に交渉すると、是はフリーマントルの誤解なりと、彼に訓戒する所あり、日清戦争の初期に於て、英人の対日感情は面白くなかつた。

戦局が進むと清国は漸々悲観に陥り、列国に愁訴して干渉を求むるのだ。英国政府は動かされたのか、十月八日駐日公使トレンチは、本国政府の訓令なりと称し、戦争終熄に関する調停案を持出したが、政府は未だ其の時期にあらずと拒絶した。

斯くて清国の敗北は愈々確実となり、首都北京のまもりも危くなつて来たので、清国は遂に屈して講和を求め、明治二十八年三月二十日我が全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章との間に初会見となり、四月十七日に至り講和条約成立調印ををはつて、日清間はこゝに全く平和克復した。

元来欧米諸国は日本が欧洲流の軍事施設を模倣し得るも、文明的規律節制の下に運用し得るか否かを危ぶんでゐた。然るに日本軍隊の規律厳粛なること、戦争に関する総ての行動が敏活整備せること、衛生救護の行届けること、公法を厳守して中立国の権益を尊重すること等、欧米文明国と伍して少しも遜色なきを知るに及び、日清開戦の当初日本の態度を疑懼ぎくし、冷眼視してゐた英国も、平壌及び黄海に於て我が軍の大勝するや、漸次認識を改めて来た。倫敦ロンドン駐剳内田臨時公使の報告に曰く、『本官は英国上流社会の人々より、我が国の戦勝に対し祝辞を受けたり、当国の各新聞は大概日本の戦勝を祝し、又之に満足の意を表してゐる』と、其の論調を引用してゐる。
日本の軍功は勝者たるの賞誉を受くるに足る、吾曹ごさうは爾後日本国を以て東方一個の活勢力と認めざるを得ず、苟も英国人にあつては彼此の利害大に同じく、且つ早晩相密接すべき此新に勃興せる島国人民に対し、毫も嫉妬の心を挟むべからず。(タイムス) 
甞て英国人は日本を教導したが、今は日本は英国を教導すべき時期到来せり。(ガゼット)
由来西人は日本を支那の属国くらゐに考へ、日清戦争も内乱程度に思つてゐたのだが、こゝに至つて日本なるものゝ実体を見直したのである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

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