2015年1月5日月曜日

慰霊

平成26年(2014)、テキサス親父ことトニー・マラーノ氏の動画で、特に印象に残つたものがあります。



昭和20年、群馬県のある町に空襲の為に飛来した2機のB29が衝突し墜落、乗組員全員が亡くなつたさうです。当時の住民の方々は、その遺体を火葬して仮安置し、終戦後米軍に引き渡し、遺骨は故郷へと帰還したのださうです。

そして近年、地元の方々が亡くなつた兵士達の為に追悼碑を建立。追悼碑除幕式には日本駐留米軍と亡くなつた兵士のご遺族も参加したさうです。

驚いたのは、かういふ事、つまり敵兵でも手厚く取り扱ふといふ事は我が国ではそれほど珍しい事ではないにも拘らず、マラーノ氏が痛く感激された様子だつた事です。この動画を見た別の米国人も同じ様に感激し、非常に驚き感動した旨を自身の動画の中で語つてゐました。

下の動画はその追悼碑除幕式の様子です。



この中で、墜落現場の写真を永い間地元の方が保管され、それによつて亡くなつた兵士の身元が判明、式典へのご遺族の招待が実現した経緯が語られてゐます。

確かに言はれてみれば、当時の日本と米国は敵同士、さつきまで日本の街を爆撃してゐた敵兵の遺体を供養し、戦後帰国させたといふ事例は、世界の中で珍しいのかも知れません。

しかし、それでもあの戦争とは無縁の現代の米国人があれほど驚きをもつといふ事は、逆に言へば、日本や日本人に対していまだに或る種特殊な感情を持つてゐたといふ事を顕してゐるのだと、改めて戦争の傷の深さに驚き、さういふ視点で米国人の気持ちなど考へた事がなかつたのだと感じさせられました。(まあ、お互ひ様だとも思ひますが)

更に裏を返せば、あの戦争終結から70年近く経つても、日本人の側からかういふ慰霊行事を提案するといふ事は、我々も心の片隅では何となく、まだ本当の信頼構築を果たしてゐなかつたのではないか、といふ疑問の念があるのかも知れません。(特に最近は米国における日本バッシングが激しさを増してゐますし)

因みに日本各地には同じやうな話が幾つもある様で、上の例と同様に近年は慰霊の行事が活発化してゐる様に思へます。

かういふ行事に、横田駐留の米軍は積極的に協力してくれてゐる様です。米国政府や議会と、陸海空軍等とは、靖國神社問題も含めた過去の両国間の戦争に関する態度がどうも異なる様に思へます。太平洋諸島や硫黄島等での合同慰霊祭の例もありますし、政治家と軍人とは別けて考へた方がいゝのかも知れません。




これに因んで思ひ出したのは、第一次大戦中に日本の俘虜収容所で亡くなつた独逸兵の墓地に関する話でした。昨年は第一次大戦勃発100周年でもありました。

第一次大戦時(1914~)、日本は連合国軍として支那青島の独逸軍と交戦しましたが、投降した独逸将兵約4600人は日本各地の12の俘虜収容所へ送られました。当初は急ごしらへの収容所だつた為、環境や処遇に俘虜の不満が絶えず、後に12の収容所を6つに集約し改善されたさうです。下の記事には、俘虜には外出も認められ、なんと給料まで支払はれてゐた事が載つてゐます。


この6つの収容所の中で現在特に有名なのが坂東収容所です。ベートーベンの『第九』の日本発祥の地と言はれてゐます。各地の収容所でも、俘虜によつて音楽のみならず、様々な独逸文化が伝へられたさうです。

第一次大戦後、殆どの将兵が無事帰国できた一方で、坂東収容所では不幸にも収容中に亡くなつた11人の俘虜の墓が遺されました。時は流れて、第二次大戦後、朝鮮から引き揚げて来た高橋春枝さんといふご婦人が、偶然にも雑草に蔽われた墓を見附け、その後十数年にも亘り清掃を続けられたさうです。1960年(昭和35)に新聞がこの善行を報じたのがキッカケで、その年のうちに、西ドイツ駐日大使ウィルヘルム・ハース夫妻とベーグナー神戸領事夫妻がこの地を訪れました。
町をあげての歓迎の中で、ハース大使は春枝に感謝状を手渡した。ハースは背をかがめ、春枝の小さな手をギュっと握ると、「アリガト……」と日本語で言ったきり絶句した。ひとりの日本人女性がひっそりと続けてきた無償の行為に対し、ドイツ国民を代表してできるだけ丁寧に礼を述べるつもりだったが、表しきれない感動がこみあげて言葉を失ったのである。(四條たか子『世界が愛した日本』、竹書房、p.216)
お墓を発見した当時、この高橋春枝さんのご主人はウズベキスタンに抑留されてをられ、異国の地に遺された独逸兵の墓は、春枝さんにとつても他人事とは思へなかつたさうです。ご主人は、ナボイ劇場を造つた方のお一人なのでせうか。幸ひ、ご主人は無事帰国されたさうです。

かういふ、敵兵を悼み末永く慰霊を続ける伝統は、実は元寇の昔からあるものです。九州北部には敵兵(蒙古兵と高麗兵)を葬つた塚が各所にあり、昔から供養されて来ました。(蒙古塚

日本は第一次大戦で戦勝した結果、それまで独逸が支配してゐた南洋諸島を委任統治といふ形で統治することになりました。パラオもその委任統治領の一つで、次の大戦で敗れるまで日本が統治し、日米激戦の地となつたのでした。

そのパラオでは、多くの日本軍将兵のご遺体が帰還できずにをられます。パラオの人は「島に眠る日本兵は私たちが守ります」と仰つてくれてゐますが(時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵)、日本国内では米兵の慰霊をしながら、一方で海外の同胞の遺骨は放たらかしといふのはどうにもマズい。今年からは、遺骨収集で米国との協力にも取り組むやうなので、是非一日も早いご帰還が叶ふやうお祈りします。(安倍首相、遺骨帰還の日米共同作業に意欲 「国の責務として取り組む」

本年元日に天皇陛下が発せられた「ご感想」から、
本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。

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