2019年11月8日金曜日

大嘗祭(和田英松)――二、新嘗祭の起原

二、新嘗祭の起原


大嘗祭、新嘗祭は、いつの頃から行はれたものであるか、まづ新嘗祭に就いて調べて見ますると、天照大神が始めて、天狭田あまのさなだ、及び長田ながたを植ゑ給ひて、新嘗聞食きこしめし、また天孫降臨の際には、吾高天原に聞食す斎庭ゆにはを吾児にまかせまつると仰せられました事が、日本紀に見えて居ります[1]

1 『日本書紀』巻第二の天孫降臨のくだりの一書あるふみ第二に、《又みことのりしてのたまはく、「吾が高天原たかまのはら所御きこしめ斎庭ゆにはいなのほを以て、亦我がみこまかせまつるべし」とのたまふ。》とある。

ゆにはの穂とは、清浄なる御田にて作り給ひし稲穂であります。即ち天照大神が親ら天狭田長田にて耕種し給ひて、新嘗聞食した稲穂を天孫に御授けになつたのであります。之れは天孫供御の料とせられたのでありますが、また天孫の治め給ふべき国民の食料としても授けられたものでありませう。

それで天孫が之れを植ゑて、初めて新穀を聞食したので、之が新嘗祭の起原であります。それから景行天皇の御代に新嘗祭を行はれた事が、高橋氏文に見え、仁徳天皇、履中天皇以後行はせられた例が日本紀、古事記などに見えて居ります。

新嘗は朝廷ばかりでなく、臣民一般に行うたもので、天稚彦あめのわかひこや、吾田あた鹿葦津姫かしつひめが新嘗をした事が、日本紀神代巻に見え、常陸風土記、万葉集などによると、常陸、下総などに、新嘗のあつた事が見えて居ります。尚ほ皇極天皇元年十一月には、天皇新嘗を聞し召し、皇太子、大臣もまた各自新嘗した事が見えて居りますが、これによつても、上下とも一般に行はれた有様が推し測られます。


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

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