2015年12月30日水曜日

近代戦と思想宣伝戦――(4)我国の採る可き思想戦と国民の覚悟

四、我国の採る可き思想戦と国民の覚悟


以上三項目に於て述べた事は単に事実の紹介を行はんが為ではない。現在、我国民自体が自己の問題として直面してゐる事を簡略に述べ、注意を喚起せんとしたに過ぎないのである。否、最早時局は右の事態に就いて徒労の論議を行つたり、対策の遂行に対して逡巡してゐる事を許さないのである。

たゞ、時局はひたすらに国民の確固不抜の精神に依る実践を要求してゐるのである。

こゝに於て国民に注意を促したい事は、思想宣伝戦とは単なるビラやポスターやラヂオの放送の如き、耳に聴き、目に映ずる、目まぐるしくも亦耳やかましい感情の動員を終局の目的とするものでは断じてないといふ事である。如何なる思想宣伝も、行為、実践を伴なはぬものは単なる遊戯に過ぎず、お祭り騒でしかないのである。

思想宣伝戦の目的とは即ち、尽忠報国の精神を基調とし、国民の、社会的行動を国家の目的に向つて統一運行するものであつて、之が為には個人的欲望や利害を超越し、或は進んで労苦、忍従の挙に出づる事を必要とするものである。思想宣伝もこの点を一度はき違へると、感情に走つて実践を忘れ、反つて思はざる行為に出でて事を破壊するに至るものである。

我国は幸にして欧米各国の如く直接自国内に戦場をもたなかつた。然し科学の進歩は如何に距離の上で戦場と後方が離れてゐやうとも、最早後方の逸楽を許さなくなつたのである。されば、将来我国が相当大規模の戦争の遂行止むなきに至る時には、我が国民は世界大戦時に於ける西欧の国民以上に、戦争の渦中にあつて労苦を共にし耐忍の生活、意志の生活を持続せねばならぬのである。

世界大戦時に於ける諸国民が、日常の一切の業務に至る迄統制に従ひ、銃後の任を果した様に、今後我国民はより強固の意志を以て統制指導に従ひ、実行を以てその成果を挙げねばならぬのである。

我国が思想宣伝戦に於て充分の試練を経てゐない事は事実であるが、然しこの理由は思想宣伝戦に当り得ぬといふ事では断じてない。我国には万邦無二の國體と、之に発するところの大理想大精神が儼存し、我国民総ては大和魂と尽忠報国の赤誠とを保有してゐる。之を以てすれば何物も恐るゝものなき現状ではあるが、たゞ訓練の機会を与へられなかつたのである。

されば、国民は速かに思想戦の何物たるかをよく理解し、政府並に民間を通じ、挙国的の宣伝教化の組織を確立し、一糸乱れず政府の意図が国民全般の末梢に迄徹底し、直に実践以て時艱を克服するに遺漏、齟齬なきを期せねばならぬのである。

爾来我国は肇国以来正義を以て国是となし、共存共栄を以て国家の理想としてゐる。而して此の大精神を具現せんとして、不言実行を誇として以て今日に至り、「言挙げせず」てふ伝統思想を生むに至つたのである。

然しながら、時代は我国の伝統の維持を許さず、進んで我国の理想大精神を万邦に宣布し陰険邪悪なる思想謀略を克服し、以て真の人類の平和を確立す可く、堂々たる正義の大旆たいはいを進め、人類を光被す可く、進んで世界に我国是を宣布せねばならぬのである。

されど我国の採る可き思想戦は歪曲せる宣伝に非ず、暴力の代辯に非ず、俯仰天地に恥ぢざるところの正々堂々の陣である。正々堂々万人をして肯かしむるところの万古不易の大思想であり道義的世界観である。

我国の進む可き大道は決してゐる。さればこそ茲に我國體観念を国民に徹底し、総ての施設悉くこゝに朝宗し、真に皇道国家たるの実を挙げ、祖国日本をして磐石の如く揺るぎなく、遺憾なきを期することは我国々民の当面の義務であり責務である。

(『近代戦と思想宣伝戦』、内閣情報局、昭和12年)

近代戦と思想宣伝戦――(3)現時に於ける日本を繞る思想宣伝戦

三、現時に於ける日本を繞る思想宣伝戦


(イ)、支那に於けるコミンテルンの策動

一九一四年世界大戦の勃発に際して、第二インターナショナルに属する各国社会党が愛国主義に転向したのに憤慨したレーニン一派が之を脱退し、一九一七年終に露西亜革命に成功するや、世界革命を目指して第三インターナショナル即ちコミンテルンを創設して、世界赤化宣伝を開始した事は衆知である。

第三インターナショナルは公然たる大衆煽動の本拠であり赤化宣伝の本部である。此の国際的革命宣伝本部はモスコーに本部を置き、各国の共産党を其の支部とし、二年に一回開かれる世界大会を最高機関とし、其の下に執行委員会、事務局、機関紙等の組織を整へて、成立以来十八年、各国共産党に指令して共産主義の宣伝及政治社会秩序の攪乱の陰謀工作を執拗に続けて来た。

この本拠こそ実にソ聯邦の実体であり、偽装せられたソ聯邦そのものなのである。ソ聯邦は内に強大なる言論統制の組織、機関を有して其の国民を制圧駕御し、出版、放送、言論報道機関を国営として完全なる言論の統制を実施し、外には諸外国の一切の宣伝を遮断し、一方タス通信を以て情報宣伝を一途に統御し、各国通信員の報道に対しても極度の制限を加へ、あらゆる海外のソ聯機関をして情報蒐集機関として宣伝戦に備へてゐる。

然しながら最近に於ける独逸及伊太利に於けるファシズムの全盛、独国の積極的東方政策及極東に於ける日本の積極的政策等のソ聯邦に対する脅威が各方面に増大するや、ソ聯邦はファシズム反対の民主々義国家と提携し、又第二インターナショナルに手を差延べ、所謂帝国主義及ファシズムに対抗する統一戦線を張る可く、人民戦線運動なる前衛宣伝組織を結成し、仏国に於いてはブルム内閣を成立せしめ、西班牙スペインに於ては悲惨なる内乱を誘発せしめ、更に極東に対しては支那にその魔手を延ばして茲に中国共産党及紅軍と国民政府を妥協せしめ、中国人民戦線派を結成せしめて抗日、挑戦の実践に着手したのである。

右のコミンテルンの対支赤化活動の中心指導機関即ち極東局は上海或は、哈府ハバロフスクに設置されてゐるのであるが、この中心機関はソ聯邦外交機関のみならず各種の通商機関をもその赤化機関とし、直接モスコーのコミンテルン本部より、或は沿海州方面より有力な工作員を派して、直接人民戦線派及各種抗日団体をも指導してゐるのである。コミンテルンの公然たる対支赤化及抗日宣伝機関は次の如きものである。

㋑中ソ文化協会(会長孫科、名誉会長顔恵慶、ボゴモロフ大使)

表面文化団体を標榜するものゝ、支那朝野の親ソ分子を多数吸収し、巧妙な親ソ抗日宣伝を行つてゐる。例へばソ聯邦の各種記念日を初め其他機会ある毎に盛大なる会合を催し、機関紙「中ソ文化」を発行し赤化抗日宣伝を行つてゐる。

上海ソ聯邦居留民俱楽部
一九三七年三月上海ソ聯邦領事スピルワネークを名誉会長として創設されたもので、赤色宣伝員の集会所、陰謀本部として警戒されてゐる。
全ソ聯邦輸出組合聯合支部(共同租界北京路二号、支部長エムシン)
ソ聯邦の対支貿易機関であつて、上海、漢口、天津に支部を有し、諜報及び赤化抗日宣伝の支部として利用されてゐる疑ひ充分である。
天津インヴェストメント・コーポレイション
一九三五年末、旧北鉄ソ聯従業員等に依りて設置されたソ聯人銀行であつて、北支方面の赤化資金の供給機関として活動してゐる。上海にその支店開設の計画がある。
福祥公司
従来貿易会社としてソ聯邦の諜報機関たる役目を勤めて居たが最近は米国々籍の下に業務継続し、上海、天津、張家口等に支店を有し、ソ聯邦の諜報機関として活躍してゐる。
ソ聯指導の抗日宣伝の言論通信機関として、タス支局を始めチャイナ・デーリー・ヘラルド(支那名「中国報道」、社長ハーレル、主任記者デューツフ)等は共産党御用紙の役目を勤め、其の他上海イヴニング・ポストチャイナ・プレス時事新報等は何れも其の背後関係及資金をソ聯より得てゐる疑のあるもので、其の他「中国呼声」を始めとする各種抗日雑誌、定期印刷物等が夥しく出版されてゐる。
右の他、ソ聯邦国営極東商船隊上海代理店(共同租界広東路五一号に在り、社長ソレヴィッチ、助手イロース・ランド)、全ソ聯邦石油トラスト上海出張所(共同租界広東路廿号に在り所長フリードマン、助手上海総領事スピルワネック夫人)、ソ聯国際図書株式会社上海代理店(共同租界群安寺路、店主カーツ)、モスクワ人民銀行上海支店(共同租界江西路・支店長イワノフ)、等の諸機関は抗日人民戦線と密接なる聯繫のもとに、平津民族解放先鋒隊、各都市抗日救国会、各省学生救国会、各工人救国会等の赤色抗日諸団体の活動を支援し、一方在上海のG・P・Uグー ペー ウーの密偵網と連絡しつゝ、「支那の赤化は世界赤化の鍵である」とのレーニンの信条を奉じて日支事変の真只中に於て暗躍してゐるのである。
(ロ)、中国共産党及紅軍

更にコミンテルンは、中国共産党及紅軍をして国民政府との合作に依る抗日宣伝を展開せしめてゐるが、其の動向に就いて大要を述べれば次の如くである。

本年三月上旬コミンテルンはボロツキー、コルスキー及中国共産党秘書長李幕飛、同政治部長石仏遵を代表として南京に派し、孫科を通じて要談せしめた。之に対し三月中旬には南京政府より賀衷寒、張中、戴笠等を派し綿服十万著を贈り毛沢東と会見せしめ、四月十四日西安に於て南京代表顧祝同と共産軍代表周恩来との間に、抗日宣伝及抗日挑戦に関する正式調印を終つたのである。

されば北支事変勃発するや、コミンテルンは共産党駐ソ代表王明をしてソ聯と陝西省膚施に在る中国共産党本部とを往復せしめ、抗日挑戦の宣伝、煽動を指導狂奔せしめたのである。其後事変が上海に拡大するやコミンテルンの策動は更に熾烈となり、一方に於て国民政府を煽動して入獄中の共産党指導者を釈放せしめ、終に支那事変最高潮の中にソ支不可侵条約を締結し、他面に於て本国より優秀なる煽動員、飛行機、戦車、機関銃等を多数輸送する事を約したと伝へられてゐる。

(ハ)、満洲に於ける策動

支那に於けるコミンテルンの煽動宣伝工作に付ては以上に止めて、次に満洲に対する活動に就いて述べねばならない。

満洲の赤化に対してもコミンテルンは早くから之に著目し、北鉄沿線一帯を根拠として全満赤化に努め、殊に満洲に移住せる朝鮮人に対して宣伝を集中した結果、忽ち強固な赤化組織の扶植を見、中国共産党の満洲支部として満洲省委員会を始め各種の機関が組織され、都市に於ける赤化細胞組織及各地共産匪賊の遊撃運動に狂奔して来たが、最近に於ける抗日人民戦線運動の一環として、東北抗日救国政府の樹立及抗日救国聯合軍の組織を目標とし、満洲共産党はコミンテルンから多量の武器及軍費の支給を得て、各地共匪をして武装蜂起せしめ遊撃運動を開始し、組織拡大運動を計り、朝鮮革命軍、反満抗日匪と連合し、一般の思想的背景なき純匪を煽動懐柔して抗日人民戦線に合流せしめんと苦心してゐる。

コミンテルンは之が為にソ聯邦内で教育せる満、支、鮮人等の工作員を多数国境線突破其他の方法に依り入満せしめてゐるのである。

満洲共産党の最高指導機関は最近では哈爾濱ハルビン東方へ移動した如く、彼等の所在は全く隠蔽されてゐる。満洲共産党に対するコミンテルンの指導は主として沿海州方面の諸機関、就中コミンテルン中国代表団分派機関を通じ、東部満ソ国境方面から満洲国内の下級機関を経て之を行ひ、或は無電を以て連絡してゐるとも謂はれてゐる。

過般北鉄譲渡の結果、満洲に於ける共産党の公然たる機関は一掃されたものゝ依然として共産匪の出没あり、軍事諜報者の蠢動あり、反満抗日テロ工作員の活動ありで、その活動は益々地下潜行的となりつゝある事は注目に価するものである。

て以上を大観するに、現在日本を包囲的に攻撃しつゝある思想宣伝戦の主体は、明確に共産党及びその亜流の執拗なる活動である事を知るのである。而してその一端は支那事変を契機として、現実に曝露されたのである。

かく考ふる時我国としては、対内対外に思想宣伝戦に対する対策の整備強化を遂行し、国防を完備する事は当面の急務であり、一日も準備をゆるがせにする事が出来ない情勢に在るのである。

(『近代戦と思想宣伝戦』、内閣情報局、昭和12年)

近代戦と思想宣伝戦――(2)世界大戦に於ける宣伝謀略戦

二、世界大戦に於ける宣伝謀略戦


近代戦に於ける思想宣伝戦は、武器に依らざる戦争と呼ばれ、毒ペン、紙の毒瓦斯と別名され、その威力は優に数ヶ軍団の力にも匹敵するものと謂はれてゐるが、世界大戦中に行はれた軍事的宣伝謀略の分野は、(一)対敵宣伝謀略と、(二)対内宣伝、(三)対外宣伝謀略の三分野に分ける事が出来るのである。

対敵宣伝謀略は、(イ)直接敵軍を目標とする場合と、(ロ)敵の後方国内を目標にするのと、(ハ)敵の同盟国及同情国に対する場合の三者に分れてゐる。

対内宣伝とは自国軍隊の戦線及自国後方国内に対する工作の二大分野に分ける事が出来る。

対外宣伝謀略は中立国及第三国に対する宣伝工作である。

(イ)、対敵宣伝謀略

直接敵国に対する思想宣伝戦は、先づ敵国軍の志気を沮喪せしめ之を潰乱に陥れ、又は敵軍の判断を誤らせて指揮を攪乱し、其の作戦を阻害し或は敵軍内に反乱、暴動、革命を起させ、その虚に乗じて自国の勝利を誘導し、或は降服、退却を煽動して、戦はずして勝つといふ目的の為に遂行されるものである。

敵国の後方に対する目的は、敵国民の銃後の統一を破壊して戦線との連絡を遮断し、戦争遂行の能力を低下或は破壊するもので、敵国後方に革命、暴動、一揆を起したり、流言を発して不安と混乱を助成し、或は虚報を以て戦意を失はしめ、反軍思想反戦思想を流布して国家総動員の妨害、軍需工業従業員のストライキ、怠業の煽動及徴兵拒否の助長をなし、或は亦敵国要人の暗殺、勢力失墜の煽動、政治家の反政府運動の助長、敵国新聞の買収、通信機関の阻害、破壊等を行ふものである。

(ロ)、対内宣伝

積極的方面と消極的方面とに分たれてゐる。積極的方面は、戦線兵士及銃後国民に対して攻撃精神、犠牲愛国精神を強化し、挙国一致戦争を遂行して以て戦勝を確保せんとするものであり、消極的方面の工作は、出征軍及後方国民に対する悪宣伝及煽動の防衛、克服、排撃を目的とするものである。

(ハ)、対外宣伝謀略

敵国に対する自国の開戦の正当なる事、正義に立脚したる事等を認識せしむると同時に、敵国に対する悪感情を起さしめ、自国の優勢を示し、自国に対して好感を持たしめ、成し得れば中立国を味方として戦争に参与せしめるか、或は亦我に有利な好意的条件の下に中立国たらしめる為に工作するのである。

以上は戦時に於ける宣伝戦の要目であるが、次に世界大戦時に於ける著名なる事例を挙げて参考に供する事にする。

(二)、戦線攪乱崩壊に成功した宣伝の様式

(a)大戦中、特に聯合軍は独軍に対し、ビラ、リーフレット、新聞等の印刷物を、飛行機に依り或は特殊装置の軽気球によつて直接戦線又は国内に撒布し、又は中立国を経由して密送した。右はリーフレットのみでも数千万部に達したもので、同文書中には独軍の敗北と国内の暴動、混乱、飢餓の通告、捕虜として投降せば聯合国側に於て優遇すべき事、独逸皇帝に対する罵詈讒謗、独逸政府の攻撃、革命に就いての煽動等が載せられてゐた。

(b)中立国から輸入する各種の食糧品の包紙、戦地軍人に対する餞別品の包紙、又は慰問袋等の中に降服誘導、戦争停止、革命煽動の宣伝文が記入され又は封入されてゐた。

(c)戦線兵士及軍需工場の労働者に秘密印刷物を伝播し、或は手紙を捏造して戦線の兵士及其の家族に対し革命、逃亡の煽動を行つた。

(d)停車場、料理店、酒場等の兵卒或は労働者に、平和及革命に関する宣伝ビラを撒布したりスローガンを掲げた。

(ホ)、第三国離反の宣伝

大戦中主として独逸側の工作に観られるもので

(a)英国アイルランドに暴動を起し、アメリカ内のアイルランド系の米人の同情を喚起して、英米を離間せしめんとして失敗した。

(b)印度、アフガニスタン等に暴動を起し、英国から離反せしめやうとして失敗した。

(c)大戦前期に於て米国内に反戦平和運動を起して一時成功を観たが、ルシタニア号撃沈事件を機として失敗した。

(へ)、国内に衝動を与へた宣伝

(a)一九一八年の秋頃からロシア革命の餘波がドイツ国内に侵入しロシア大使ヨッフェの資金供給、多数煽動者のドイツ潜入に依つて一斉にドイツ国内に革命宣伝が展開され独立社会党、スパルタクス団、及左翼労働組合による政治的示威運動、軍需工場のストライキ、暴動が続出した。

(b)伊太利イタリア其他中立国が相次いで聯合軍側に参戦した事を空中から独逸国内に宣伝した為、独逸国民の戦意が急激に低下した。米国参戦の報道も永く独逸政府の手に依つて秘められてゐたが聯合軍の宣伝工作に依り異常な衝激を独逸国民に与へた。

(ト)、大戦中の革命誘導の宣伝

(a)一九一七年三月以降の露西亜革命の煽動

此は独逸側が工作して成功したもので、封印列車を仕立てゝレーニン等を独逸からロシアに送つた事は周知である。

(b)一九一七年五月の仏国々民及軍隊の叛乱

此は露西亜革命の影響と独逸側の工作によるもので、エイヌ会戦に仏軍が大敗北を来した時、独逸側の宣伝に乗ぜられて仏軍帰休兵達が反乱を起し、戦線へ向ふ可き軍隊は巴里に向はんとして一時十数ヶ師団が之に合流し、フランスは危機に陥つた。此の事件は当時のフランス陸軍大臣パンルヴェをして、「当時ソアッソンと巴里の間に全然信頼するに足る軍隊といつては、僅かに二個師団に過ぎなかつた。若し独軍が此の瞬間に大攻撃を開始したならば、事態は極めて危険となつたに違ひない。」と嘆息せしめたものである。

(c)一九一八年八月以降の独逸革命の煽動

八月に於けるフリードリッヒ・デア・グローセ号及ウエストファレン号の水兵暴動、十月キール軍港に於ける水兵の反乱、チューリング号の反乱と降服事件、十一月五日ハンブルグの革命、暴動、同八日のベルリン革命、暴動は終にカイゼルをして亡命せしむるに至つたのである。

(チ)、大戦中に於ける列国の宣伝組織体

(a)英国は世界大戦勃発直後、一九一四年八月、平時から準備されてゐた宣伝機関を拡大して新聞局を設置したが、更に一九一七年一月には別に情報局を増設し、各種宣伝事業を一括して活動強化した。次でノースクリッフ卿外三名を以て成る顧問委員が組織され、卿は自ら宣伝及政略関係の使命を帯びて米国に渡り、大いに活動するところがあつたが、一九一八年の二月に至り情報省が設置せられ、ビーバーブルック氏が情報大臣の椅子を占め、ノースクリッフ卿は対敵宣伝部長の職に就いた。其の後曲折を経てノースクリッフ卿が宣伝政策委員会の全指導を行ふ事になり、大々的宣伝工作の結果終に独逸を内部的に崩壊せしめ、戦勝に一大役割を果したのである。

(b)米国は一九一七年四月世界大戦に参加後、大統領ウィルソンに依り公報委員会が組織せられた。この組織は国務長官、陸、海軍大臣ならびにジョージ・クリール氏を以て編成せられ、クリール氏が公報委員会の議長となつて、対内、対外宣伝事業の一切を統轄したのである。

(c)仏国では外務、陸軍、海軍の各省が夫々それぞれ宣伝機関を持つて、互に協調しつゝ宣伝を実施したが、一九一五年四月には早くも空中宣伝班を設け、一九一七年には新聞局を設置し、同年対外宣伝委員会が結成され、一九一八年には情報宣伝委員会が全力を挙げて対敵宣伝に従事した事が知られてゐる。

(d)独逸側に在つては大戦間の宣伝は、最初不統一のまゝ一つの宣伝用機関紙を利用するに過ぎなかつたが、軍事当局と各省間に幾多の紆餘曲折が繰り返された後、ルーデンドルフ将軍の提唱に依り、一九一八年八月に至り、漸く宣伝組織を設置する事になつたが、時既に遅く、遂に聯合国側の猛烈なる宣伝には対抗する事が出来ず、敗北の一因となつたのである。

以上の如く世界大戦に於ては史上曾て観ざるところの宣伝戦を展開したのであるが、その手段とされたものは、新聞、雑誌、パンフレット、其の他の言論報道機関及飛行機、軽気球の利用、ビラの撒布、ポスターの貼付、電報の利用、活動写真、幻燈器の利用、情報の編緝、演説、示威運動、口伝宣伝、流言の散布等々汎ゆる利用し得る限りのものを採用したものである。その内容も善美なるものから極悪なるものに至る迄、人間のあらゆる知識と感情とを動員したのである。
(註)宣伝で特に注意すべきは、虚偽の宣伝は何時かは必ず曝露するものであつて、常に正しきことを正しく伝へることに留意せねばならぬことである。満洲事変及今次事変に於ける支那側の虚構宣伝が如何に悪結果を齎らしつゝあるかを思へば、此点が十分諒解せられるのである。
世界大戦に於ける思想宣伝戦の展開は、一面戦局の終末を早めたといはれてゐるものゝ、一面恐る可き結果を将来に残したものであつた。それは大戦間に於て思想宣伝の為に利用された革命運動であつて、一は帝制露国を一挙にして革命動乱の巷と化し、一は最近ヒットラー総統の出現に至る迄続けられたドイツ革命運動を扶植した事である。而して右の大戦を機として一斉に擡頭した共産主義革命運動は、昔日の帝政ロシアを覆滅したソヴィエート勢力を中心にして、爾来世界赤化運動となつて現はれ、世界の癌となり益々その陰謀は深められつゝあるのである。

(『近代戦と思想宣伝戦』、内閣情報局、昭和12年)

近代戦と思想宣伝戦――(1)近代戦の特性と思想宣伝戦

一、近代戦の特性と思想宣伝戦


昔の戦争は宣戦布告によつて開始せられたもので、武力戦が殆んど其の全部を占めて居り、しかも其の態様も比較的に小規模であり又単純であつた。

然しながら近代に至るや、平時戦時の明確なる区別は全く失はれ、戦争状態は既に平時より始まり、経済、外交、思想等各方面に亘る広汎にして深刻且執拗な抗争、葛藤となつて現はるゝに至つたのである。

されば如何なる局部的な国際間の事情も、極度に発達した交通、通信機関に依つて全世界人の目に映じ、耳に達する事になり、国民は深刻且迅速に国際間の政治、経済、外交、思想戦の渦中に投ぜらるゝに至つたのである。

彼の世界大戦に於ける聯合国側及同盟国側の宣伝謀略戦は、既に人の知る通りであるが、最近のスペイン内乱に於ては、思想宣伝戦の偉力が単に同国を左右両翼に分裂交争せしめたばかりでなく、コミンテルンの宣伝謀略によつて、事態は遂に人民戦線対国民戦線の交戦となり、勢の赴く所第二世界大戦勃発の危機をすら孕むに至つてゐる。

以上は近代戦の特性たる思想宣伝戦の登場を特記したのであるが、宣伝戦は単に思想戦のみならず各種各様の分野に於て戦はれつゝある事を知らねばならない。

(イ)、外交戦と宣伝戦

近時各国に於ける生産工業及一般産業の発展は国家間の相互依存関係を著しく密接化すると共に、世界に於ける産業経済上の競争ならびに排他的な動向は国際紛争を直ちに戦争にまで拡大する原因となつてゐる。従つて、かゝる複雑微妙な関係にある国際情勢に処し、戦争を未然に防ぎ或は戦争の拡大を防止し、より多くの同盟国、友邦を保有する事が今後に於ては一層必要となつて来た。即ち外交戦としての宣伝作業が重要になつて来たのである。

(ロ)、戦時経済と宣伝戦

更にまた、一国内の産業経済も複雑を加へ、高度に発展して来た為、戦時に於て国力の最大限度の動員を行ひ戦争を維持強化する為には、之等これら産業経済組織及能力を有機的に統制し、同時に国民の生活維持を確立しなければならぬ事になつたのである。かくの如き工作を遂行する為に世界大戦に於ては、各国政府が戦時経済促進の為の宣伝工作を行ひ、国民が能く之に順応した事は衆知の事実であらう。

(ハ)、国民精神と宣伝戦

更に近代戦は国運を賭して遂行される国力戦であるから、戦線、後方の区別なく一般国民は戦争に直接、或は間接に参与し、戦線兵士とは別個な労苦、困難に直面することゝなつた。さればかゝる国難を克服し苦痛に打ち勝つて戦争を遂行する為には、平時から強力な精神的訓練が必要である事は自明の理である。従つて国民精神の統一強化を行ひ、国民自らがその目的に向つて積極的に働きかける様にならねばならぬのである。

特に、輓近ばんきんに至り、自由主義、個人主義、物質主義の思想が国民の間に侵入し、就中なかんづく、共産主義及その亜流の破壊的革命思想は、戦時に於ける国民の精神動揺を好機として、反軍思想、反戦主義、革命運動、暴動、ストライキ等凡ゆる悪辣な手段を弄して道義心を破壊し、階級闘争意識の激発に努め、遂に之を内乱に導き、戦争半ばにして脆くも戦敗の悲運を満喫せしめんとする策動を行ふので、之に対する防衛の工作が必要となり、国民全般が一致協力して之等の悪思想、反逆行為、破壊運動を根絶し、教化善導の為に尽力しなければならぬ事になつたのである。

以上を考察すると、近代戦は大規模であると同時に複雑且機微な特性を有し、武力戦自体が昔日とは全くその内容を異にしたのみでなく、之を中心とする国際的な経済戦、外交戦及思想宣伝戦が平時は固より戦時には更に決定的な役割を演ずる一部門として展開せらるゝに至つた事を知るのである。

就中なかんづく思想宣伝戦に関して世界大戦当時遂行された主要点は次の如き分野を有してゐた。

(二)、世界大戦時に於て経済戦に協力した思想宣伝戦

(a)自国内経済をして戦時に備ふく、之が動員、統制(労働力の整備、物価調節、食糧調達、配給等)の為に活動した(特に独、仏、英に於て工作した)。

(b)最大限度の金融、資源を得る為にあらゆる方法に依り工作した(金、銀、宝石、鉄、銅、アルミニウム、鉛等を各家庭から寄附を仰ぐ為にも宣伝工作を行つたのである)(特に独逸が行つた)。

(c)他国から充分に資材、原料、食糧、軍需品を輸入し得る様に他国に於て工作をした(特に独逸)。

(d)自国商品の市場、投資地域の確保、拡大、安定化を計る為に活動した(特に独逸)。

(e)他国に於ける自国公債の応募、借款を最大限度に効果的ならしむる為努力した(特に米国に対する英仏の工作)。

(f)敵国内に於ける経済の統制、動員を妨害し、敵国の戦時経済を破壊するため、又は金融の遮断、恐怖の誘導を行ひ、敵国民の経済生活にも不安を与へる為に策動した(特に独逸)。

(g)敵国の同盟国及同情国に対しては、極力之を自国側に引き入れる工作を行ひ、軍需資源を敵国へ供給する事を防止し、或は之を自国に供給せしめる為努力した(特に独逸が工作す)。

(h)敵国市場の攪乱、奪取の為、経済的工作を行ふと共に宣伝作業を遂行した(特に独逸)。

(ホ)、世界大戦時に於ける外交政策上其の他の思想宣伝工作

(a)戦前及戦時に於て、軍事上有形無形の利益を保証する同盟国を得る為に工作した(英、仏、独共に行ふ)。

(b)戦時に於ける軍需品、食糧、生活必需品の供給を可能ならしむる協商国を得る事に努力した(特に英、仏)。

(c)敵国の同盟国、協商国、密約国をして敵国と離反せしめる工作を行つた(特に独逸)。

(d)敵国及その同盟国内に内乱、革命、暴動を煽動し、政治、経済機関の破壊、混乱化を計つた(特に聯合軍側が独逸に対して行つた)。

(e)敵国の軍事的機密を探知する為に、敵国内の反政府分子、不平分子等を操縦した(交戦国何れも行ふ)。

以上は軍事的工作を除いた二方面の活動に就いて略説したのであるが、近代戦に於てはかゝる大規模の工作が見えざる力として作用するのである。これは堂々勝負を争ふ武力工作に対し搦手からめてよりする政略工作であつて、其巧妙なる指導が相手国に如何に痛痒を与ふるかは想像に難くない。

世界大戦に於ては、以上の工作の為にも官民総ての機関を動員して、国民全体の力を以て戦争に参加したのである。

例へば、米国内に於いては思想宣伝戦の為に、七万五千人の義勇奉仕者が五千二百の団体を動かして七十五万五千五百九十回の講演会を開き、七百人の翻訳者が米国内に在る外人に読ませる新聞の記事を書き、三十種を超えるパンフレットを七ヶ国語に印刷して七千五百万冊の複写物を国内に散布し、ポスター、ウインドウカードの如きものも一千四百三十八ヶ所で印刷され、毎月十万部の宣伝用新聞を印刷配布し、二十万の幻燈器を製造して毎月七百種の軍事写真を上映した。国内宣伝の為に動員された人員及器材、所要製作所等は無数に及んだのである。

特に大戦時に於ける食糧問題に就いて、米国の主婦達が、自発的に食糧節約運動を起して其の主旨を徹底させ、銃後の任を全うせるが如きは特筆す可きものであつた。銃後の婦人達があらゆる男子の職業戦線に立つて活動した事は勿論である。かくの如く、大戦に於ては老若男女こぞつて或は思想戦に或は経済戦に何等かの役割を負つて活動し悉く戦争の労苦を共にし、国家の為犠牲的に奉仕したのである。

(『近代戦と思想宣伝戦』、内閣情報局、昭和12年)

2015年11月6日金曜日

明治天皇 御遺製

いにしへの(ふみ)みるたびにおもふかな
      おのが治むる國はいかにと


葦原の瑞穗の國のよろづ世も
      亂れぬ道は神ぞひらきし


さしのぼる朝日のごとくさはやかに
      もたまほしきは心なりけり

よきをとりあしきを捨てゝくに

      おとらぬ國となすよしもかな

うけつぎし國の柱の(ゆる)きなく
      さかえゆく世を尙いのるかな


あしはらの國富まさんとおもふにも

      あをひとぐさ民草たからなりける

ひらけゆくときにいよいよあふがれぬ
      ひじりの()よのたかき敎へは


鬼神(おにがみ)も泣かするものは世の中の
      人の心のまことなりけり


いかならむことにあひても(たは)まぬは
      わが敷島の大和だましひ


國の爲仇なす仇はくだくとも

      いつくしむべきことな忘れそ

國民(くにたみ)のちからのかぎり盡すこそ
      わが日の本のかためなりけれ

世の中の人におくれをとりぬべし
      進まむときに進まざりせば

(ひら)けゆくみちにいでゝも心せよ
      つまづくことのある世なりけり

2015年5月27日水曜日

東郷元帥と日本海海戦(安保清種)

東郷長官の心算


回顧すれば、二十九年前の昨日から今日に掛けて戦はれたる日本海々戦は、真に我が日本の国運を賭けての一大決戦であつて、聯合艦隊の将兵は全く必死の覚悟を以て奮戦いたしたのであり、当時を追想すればまことに血湧き肉躍るの思ひが致すのであります。実際「皇国の興廃此の一戦に在り」で、艦隊司令長官としての東郷さんに於かれては、固より深く心に期する所があり、随分と思ひ切つた必勝的決戦を企図せられたのであります。時も時、東郷老元帥の重態が伝へられまして、吾々国民として邦家の為に誠に痛心の至りに堪へません。何卒一日も早く元帥の御本復に相成る様皆様と共に衷心より御祈りする次第であります。――(満堂粛然)

さて、その東郷さんの計画と申すのは、五島列島の沖から浦塩ウラジオの沖に掛けて六百かいりに亘る海面を、所謂七段備への戦法で、四日三晩ぶつ通しで敵に息をもつかせず、昼戦夜戦と連続交互に戦ひぬいて、一艦一艇も餘さず、敵の艦隊を全滅してしまはうと云ふのが、東郷長官の心算であり計画であつたのであります。

て愈々敵と相まみえての実戦舞台となりますると、之は又お膳立に一段とよりを掛けての猛烈さで、全く眼の覚めるやうな合戦ぶり、水も漏らさぬ七段構への戦法は悉く壺に嵌まつて、かも第三段、第四段、第五段の三段だけで見事に所期の目的を達成したのであります。即ち戦さは第三段から始まつたのであつて、其の第三段である対馬沖の昼戦は廿七日の午後二時を以て開始せられ、激戦実に五時間餘に亘り、さしも頑強の敵艦隊を散々に撃破して、敵の旗艦スワロフを初め七隻を撃沈し、日のまさに西に没せんとする午後七時半、敵の戦艦ボロヂノが我が砲弾の為に爆沈したのを最後として戦場を夜戦部隊に譲り、戦闘艦と巡洋艦の各戦隊は茲に其の合戦を切上げ、何れも翌朝の豫定戦場たる鬱陵島うつりようたうの南方に向つて急いだのであります。

そこで戦さは第四段の夜の戦に移り、我が駆逐隊及水雷艇隊四十餘隻は北方、東方、南方より三面包囲の姿勢を以て、所謂意気衝天の勢で飽く迄敵に肉薄し、昼の戦ひにきずついて疲労困憊せる敵艦隊を縦横無尽に駈け悩まし、遂に其の四隻を撃沈したのであります。

明くれば第五段の鬱陵島南方二十八日の昼戦である。即ち二十九年前の今日、これは又前日と違つて誠に天気の好い、追撃には以て来いの展望百パーセントの戦さ日和で、日本海の此処彼処こゝかしこには忽ち劇烈なる総追撃戦が開始せられた。戦場の広袤くわうぼう実に二百浬に亘り、大小の合戦無慮八場面に及んだのでありますが、中に就いてその最も目覚しかつたのは、我が主力艦以下各戦隊の二十八隻が八方よりネボカドフ艦隊を包囲し、遂に之を降伏せしめた壮絶無比の第四合戦と、敵の司令長官ロジェストウエンスキー中将が旗艦スウオーロフの沈没前に駆逐艦ベドウイに移乗し、浦塩目指して逃走を急ぎつゝあるとも知らず、我が駆逐艦漣が之を発見追撃して遂にロジェストウエンスキー長官諸共もろとも其の駆逐艦を捕獲した、いとも花々しい第九合戦とであつて、絶大の収獲を以て此の海戦の幕を閉ぢたのであります。――(拍手)

東郷長官の深慮


丁度このネボカドフ艦隊降伏の場面に、三笠の艦橋では一つの記憶すべき……歴史劇的のと幕が演ぜられたのであります。当日は、三笠では七千メートルから戦闘を開始したのであるが、戦闘を開始して未だ幾何いくらも経たぬ午前十時四十五分頃であつたが、秋山中佐参謀は敵の艦隊の檣頭しやうとうに翻つた「我れ降伏す」と云ふ万国信号を逸早く認めて、東郷さんに向つて
『長官! 敵は降伏しました。我が艦隊の砲火を中止いたしませうか?』
と伺つたが、東郷さんは例の通り左手にかと長剣の柄を握り締め、右手に持つた双眼鏡を胸の辺に置き、ジッと敵方を見詰めたまゝ、黙然として一向許さうともされない。秋山参謀は艦橋の甲板を地団太踏まんばかりに声も鋭く、
『長官! 武士の情であります。発砲をやめて下さい。』
と息をはづませて詰め寄つて居るが、東郷さんは愈々冷然として
『本当に降伏するとなら、その艦の進行を止めんけりやならん、現に敵はまだ前進して居るではないか』
と言つて頑として聴き容れられない。これには流石の秋山参謀も一言もなかつた。実際、敵の艦隊は微速力ながら行進を続けて居るのみならず、その艦隊幾十門の大砲はズラッと並んで、発砲こそしないが其の砲口は何れも日本艦隊の方に向いてる。或は我が艦隊に近づいて不意に魚雷攻撃を加へないとも限らない。殊に軽巡洋艦のイズムルードは独り列を離れて脱兎の如く前方に抜け懸けして居る。その行動は魚雷発射に対し頗る疑ふべきものがあるので、我が艦隊は一時之を避けて非敵側の方向に舵を取つた程であつて此の場合東郷さんが軽々しく戦闘中止を許されなかつたのも実は尤もの次第であつたのである。あとから分つたことであるが、降伏したネボカドフ司令官の日誌の一節にも、
『露国の艦隊が降伏の信号を掲げたけれども日本の艦隊は毫も発砲を中止しない。そこで降伏信号のほかに更に日本の国旗を檣頭に掲げ且つ機関を停止せしめたところ初めて日本艦隊の発砲が止まつた』
と記して居るのである。

明治38年5月28日、兵員が整列し日本軍艦旗を掲揚した「アリヨール」号
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

斯くて東郷さんは、敵の艦隊が愈々停止し、四囲の状況其の降伏が確実となつたので、初めて全軍に戦闘中止を命令せられ、折よく附近に来合せて居つた雉と云ふ水雷艇を呼んで、秋山参謀を敵の旗艦ニコライ一世に差遣し、ネボカドフ司令官と会見せしめ之を三笠に招致し、茲に降伏が成立したのであります。白髪白髯のネボカドフ司令官が、頭に負傷して繃帯した将校も混つて居る六七人の幕僚を伴つて、三笠の外舷を綱梯子から悄然として這ひ登つて来る其の光景には、実際何とも言ひ知れぬ感慨に打たるゝのであつて、如何に戦ひに気の張つて居る我々も覚えず面を蔽ひ眼にはおのづから血涙が滲み出るのであつた。ても戦さは勝つか死ぬるか二つの外ないことが、切実に痛感されるではありませんか。

「朝日」に収容された「アリヨール」号の副長以下将校
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

何に致せ、前日来の戦闘は確実に我が艦隊の大勝に帰し、今や其の最後のと幕を結ばんとして堂々たる我が艦隊廿八隻を以て敗残の小敵ネボカドフ艦隊五隻を包囲して居ると云ふ実況で、実は鎧袖一触と云ふところであつた。

此の場面に処して東郷さんが事をなほざりにもせぬその慎密周到さ加減は全く別物であつて、之が前日大挙突進して来る敵全艦隊の直前に於て、彼の大角度の正面変換を断行した大胆不敵の司令長官と同一人であらうとは、どうしても思はれない位、此処が即ち、大敵と見ておそれず小敵と見て侮らず、愈々勝つて愈々兜の緒を締め、折角の此の九仭きうじんの功を一簣いつきいてはと云ふ、流石に東郷さんの細心深慮の存する所が見られるのであります。一方に於てはまた智謀神の如き秋山参謀が殺気漲る合戦場裡に示した血あり涙ある大和武士の真に優しき情の一面が窺はれるのであつて、両雄の面目躍如として今も尚ほ眼前に彷彿たるものがあるのであります。

安保清種『東郷元帥と日本海海戰』(昭和9年、軍人會館事業部)より

日本海海戦の回想(秋山眞之)

日本海の大海戦は、之れに参加したる対抗両艦隊の兵力が多大なりしと、其勝敗の差隔さかくが著しく懸絶して、露国艦隊の、殆んど全滅したるに対し我が日本艦隊の損害が過少なりし点より見て、空前の一大海戦であるが、又其の戦場の頗る広大なりしと、戦闘時間の甚だ長かりし点に就いても、古今未曾有と謂ふべきである。実に此海戦は、当年五月二十七日払暁の頃、哨艦信濃丸が二〇三地点に敵艦隊を発見したるに始まり、対馬海峡より鬱陵島うつりようたう(松島)附近に至る約三百マイルの大海里に於て、翌二十八日の黄昏過ぎ迄二日間に亘り、昼夜連続、各方面に戦はれたるもので、こゝに掲げたる海戦全図に示すが如く、其の間彼我艦艇の砲火を交はへたる合戦は、大小十ヶ所に散在して居る。(第一図)今其戦跡を此海戦図に拠り辿りて見ると、大要左の通りである。

日 時合 戦対 勢戦  果
二十七日
午 後
第一合戦彼我主力艦隊の大決戦敵艦七隻撃沈
内仮装巡洋艦三隻
同 日
第二合戦我全駆逐隊水雷艇隊の敵の敗残艦隊に対する強襲敵艦四隻撃沈
我水雷艇三隻沈没
二十八日
第三合戦我軍艦千歳の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 前
第四合戦我主力艦隊の敵敗残艦隊に対する包囲攻撃敵艦四隻捕獲
同 日
午 前
第五合戦我軍艦「音羽」「新高」の敵艦「スピエトラーチ」に対する追撃敵艦一隻撃沈
同 日
午 前
第六合戦我軍艦「新高」「叢雲」の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 前
第七合戦我駆逐「不知火」及「第三十六号」艇の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 前
第八合戦我軍艦「磐手」「八雲」の敵艦「ウレヤコツフ」に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 後
第九合戦我駆逐艦「漣」「陽炎」の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻捕獲
敵将生擒
同 日
第十合戦我第四戦隊及第二駆逐艦隊の敵艦「ドンスコイ」に対する追撃敵一隻撃沈

此一大海戦を組成せる十合戦の要領は、先づんなものであるが、尚ほ各合戦を比較して、其の対勢と戦果を計査して見ると、頗る興味あると考へる。此の海戦、大は大なりと雖も、彼我対等のとも認むべき合戦は、唯だ単に二十七日午後ののみで、第二合戦より第十合戦迄の九合戦は、何れも我が優勢を以て、敵の劣勢に当り、大抵其勝敗も、瞬く間に決して居る。而も其戦果に就て見ると、第一合戦では、僅に敵艦七隻(うち仮装巡洋艦三隻を含む)を撃沈し得たのみで、残餘の敵艦十隻撃沈、五隻捕獲の大仕事は、皆第二合戦以後に於ける敗残の敵艦隊に対する追撃戦を以て仕遂げられたのである。之を以て見ると、戦勝の正味の結果は、花々しき決戦の時よりは、決戦終りたる後の追撃戦にて獲得せらるゝことが分ると同時に、矢張り数字上の優勢を以て敵に対すれば、容易たやすく敵を圧倒することが出来るといふことも、証明せらるゝかと思ふ。然しながら、此当初の第一合戦に於ける対等の大決戦に、当日の勝敗を決し得たことが、此海戦の大眼目とも謂ふべきもので、若し此肝腎なる決戦に勝を制することが出来なかつたならば、第二合戦以後の大戦果も挙らぬのみか、却つて苦戦悪闘を続行して、我が損失を増大するの悪果を生じたのである。故に海戦に於ては、初めより優勢を以て敵に対するか、或は当初の決戦に勝を制すると云ふことが至極肝要である。

日本海の大海戦に於ける、我が軍の大捷たいせふは前述の如く、実に其第一合戦の決勝より生み出されたものである。然らば此第一合戦其物そのものは、如何に戦はれて、如何に勝敗が決したかを討究するのも、亦趣味あることゝ思はれる。此第一戦は、五月二十七日午後一時五十五分、我が聯合艦隊司令長官東郷大将が、の紀念すべき『』の訓令信号を掲げ、我が主力たる第一及第二戦隊を率ゐて、敵前に邁進された時に初まり、それより連続攻撃を続行し、日没に至りてみたる約五時間の合戦で、其戦場は対馬海峡沖の島の北方である。去りながら此第一合戦も、亦其過半は追撃戦で、其決戦の決戦たりし正味の部分は、僅かに当初の約に過ぎない。日本海々戦の勝敗が、僅々三十分間で沈着したと云へば、或は驚く人があるかも知れぬが、夫れが真正の事実に相違ないので、東郷大将の海戦々報にも、明白に其事が記載してある。今此戦報を取出して、其の初めの方を見ると、左の一節がある。
敵の先頭部隊は我第一戦隊の圧迫を受けて稍々やゝ其の右舷に転舵てんだし、午後二時八分彼より砲火を開始せしかば、我は暫く之れにこたえて、射距離六千米突メートルるに及び、猛烈に敵の両先頭艦に集弾せり。敵は之れが為め、益々東南に撃圧せらるゝものゝ如く、其の左右両列共に漸次東方に変針し、自然に不規則なる単縦陣を形成して、我と併航へいかうの姿勢を執り、其の左翼列の先頭艦たる『オスラービヤ』の如きは、須臾しゆゆにして撃破せられ、大火災を起して戦列より脱せり。此の時に当り、第二戦隊も既にことごとく第一戦隊の後方に列し、我が全線の掩撃砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦『クニヤージ、スウオーロフ』二番艦『アレクサンドル』三世も、大火災にかゝりて戦列を離れ、敵の陣形愈々乱れ、後続の諸艦亦火災に罹れるもの多く、其の騰煙とうえん西風にたなびきて、忽ち海上一面を蔽ひ、濛気もうきと共に全く敵影を包み、第一戦隊の如きは、為めに一時射撃を中止せるの状況なりし。又我軍に於ても各艦多少の損害を被り、『浅間』の如きは後部水線に近く三弾を受けて舵機だきを損じ、且つ浸水甚しく、一時止むを得ず列外に落伍せしが、いくばくもなく応急修理して、再び戦列にれり。之れに於ける彼我主力の戦況にして、
此の戦報の通りに、敵の艦隊が、初めて火蓋を切つて砲撃したのが、午後で、我が第一戦隊が、暫く之にこたえて、応戦したのが三四分おくれて、頃であつたと記憶して居る。此の三四分に飛んで来た敵弾の数は、少くとも三百発以上で、夫れが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打出さぬ内に、多少の損害も死傷もあつたのだが、幸に距離が遠かつた為め、大怪我はなかつたのである。是より後の戦況は、口筆こうひつを弄するよりも、左に掲げたる第一合戦の二対勢図を見るのが、最も早く分かる。即ち一は午後二時十二分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾したる刹那で、又他の一つは午後二時四十五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分れた時の対勢である。其の間実にで、正味のところに過ぎない。然し未だ此の時には、敵艦隊一隻も沈没して居らぬのだ。(第二図、第三図参照)此の対戦に於ける彼我主力の艦数は、双方共に十二隻であつて、我は戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻。彼は戦艦八隻、装甲巡洋艦一隻と、装甲海防艦三より成り、其勢力は、ぼ対等であつたが、唯や我軍の戦術と砲術が優れて居つた為めに、此決勝をち得たので、は、実に此三十分間の決戦に由つて定まつたのである。然し、戦術とか、砲術とか、或は勇気とか、胆力とか云ふものゝ、矢張り形而下の数字的勢力は争はれぬもので、若し此対戦に於て、我海軍が十二隻の主力戦隊を戦線に出すことが出来なかつたなれば、此の勝敗は未だいづれとも云へないのである。実に此戦線に参加したる我が装甲巡洋艦『日進』『春日』の如きは、海戦間際に伊太利より購入せられ、開戦後に我が国に到着したのであるが、若し此二艦が無かつたなればと想ふと、吾人は今日も尚ほ戦慄せざるを得ない。独り『日進』『春日』のみならず、『三笠』にあれ、『敷島』『朝日』『富士』にあれ、我は『出雲』『磐手』『浅間』『常磐』の如き、何れも我海軍の当局が、多年の惨憺たる経営に依りて製艦せいかんされたもので、而も之を用ふるは、主として僅々三十分の決戦であつた。吾人が十年一日の如く、武術を攻究練磨しつゝあるものは、亦此三十分間の御用に立つ為めである。さればこそ、決戦は僅かに三十分であるが、之に至らしむるには、十年の戦備を要するので、即ち取りも直さず、連綿十年の戦争である。吾人は素より至尊しそんの御威徳が、直接間接に戦勝の大主因を成し、皇軍には常に天祐神助あるを確信するものであるが、さりとて、吾々臣民が、人事を尽さずして、神霊の加護を仰ぎ得らるべきではないと考へる。

過去の大海戦は、斯くして皇軍の大捷に帰したが、未来の海戦は、如何なる結果を呈するであらうか。今や『三笠』『敷島』の如き当時の戦艦は、既に全盛を過ぎて、旧式と化し去り、所謂『ドレツドノート』級、若しくは超弩級ならざれば、軍艦にあらずと謂ふ時代となり、我が海軍には、現在『ド』型として、『河内』『摂津』の二隻、準『ド』型ともかぞふべき『安藝』『薩摩』の二艦あるのみである。之に在来の旧式戦艦を加へて、兎に角にも、戦列の第一戦を作りたいのだが、却つて速力などに差異があつて不利益である。吾人は勿論火縄銃でも、竹槍でも、与へられたる武器を以て極力奮闘し、唯たふれてのち已むのが本分であるから、敢て彼れ是れと道具えらみをする訳ではないが、過去の経験より将来を忖度すると、如何にしても、が気にかゝつて、やすんぜざる処がある。日本海々戦の決戦は、で片が付いたが、武器の進歩したる未来の海戦は、で勝敗が決するであらう。

(大正二年五月)





秋山眞之『軍談』(大正6年、実業之日本社)より

2015年5月25日月曜日

日本海海戦――(6)平和克復

6 平和克復


平和克復に関する経緯は外交史に譲るとして、日露の媾和条約は、明治三十八年九月五日、米国ポーツマスに於て両国全権委員により調印され、十月十五日露国政府と批准交換ををはり、両国間の平和は回復した。これによつて帝国は露国をして韓国における我が優位を認めしめ、旅順、大連の租借権及び南満洲鉄道を取得し、また北緯五十度以南の樺太島を割譲せしめ、尚日本海、オホーツク海、ベーリング海に臨む、露領沿岸の漁業権を獲得した。

東郷司令長官の東京凱旋を迎へる国民(新橋凱旋門附近)
『日露戰役海軍寫眞帖』第四巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)
十月二十三日、凱旋観艦式を横濱沖に挙行せられ、 明治天皇の行幸あり、式後勅語を賜ひ、東郷司令長官は聯合艦隊を代表して奉答した。この日の観艦式に、戦利艦相模(旧ペレスウェート)、丹後(旧ポルタワ)、壱岐(旧ニコライ一世)、見島(旧セニヤーウヰン)、沖島(旧アプラクシン)、駆逐艦皋月(旧ベドウイ)、同山彦(旧レシテリヌイ)その他合計十一隻が参列して異彩を放つた。

観艦式にて御召艦・浅間
『日露戰役海軍寫眞帖』第四巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

ついで十二月二十日をもつて聯合艦隊の編成を解かれたが、解散に際し東郷司令長官より麾下一般に与へられた訓示は、海軍軍人のみならず、帝国国民の熟読玩味すべき海国国防の要諦である。左にその全文を掲げる。
二十閲月の征戦すでに往事と過ぎ、我が聯合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散することとなれり。然れども我等海軍軍人の責務は決して之が為めに軽減せるものにあらず。此の戦役の収果を永遠に全くし、尚益〻国運の隆昌を扶持せんには、時の平戦を問はず、先づ外衝に立つべき海軍が常に其の武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。而して武力なるものは艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力に在り。百発百中の一砲く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざる可からず。近く我が海軍の勝利を得たる所以も 至尊の霊徳にる所多しと雖も、そもそも亦平素の練磨其の因を成し果を戦役に結びたるものにして、若し既往を以て将来を推すときは、征戦むと雖も安じて休憩す可らざるものあるを覚ゆ。おもふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦により其の責務に軽重あるの理無し、事あれば武力を発揮し、事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽さんのみ。過去の一年有半、彼の風濤と戦ひ寒暑に抗し、しばしば頑敵と対して死生の間に出入せしこと固より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして、之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比する物無し、あに之を征戦の労苦とするに足らんや。いやしくも武人にして治平に偸安とうあんせんか、兵備の外観巍然ぎぜんたるもあたかも砂上の楼閣の如く、暴風一過忽ち崩倒するに至らん、まことに戒むべきなり。
昔者むかし神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百餘年間我が統理の下にありしも、一たび海軍の廃頽するや忽ち之を失ひ、又近世に入り徳川幕府治平にれて兵備をおこたれば、挙国米艦数隻の応対に苦み、露艦亦千島樺太を覬覦きゆするも之と抗争することあたはざるに至れり。翻て之を西史に見るに、十九世紀の初めに当り「ナイル」及び「トラフアルガー」等に勝ちたる英国海軍は、祖国を泰山の安きに置きたるのみならず、爾来後進相襲て能く其の武力を保有し、世運の進歩におくれざりしかば、今に至る迄永く其の国利を擁護し国権を伸張するを得たり。けだし此の如き古今東西の殷鑑いんかんは、為政の然らしむるものありしと雖も、主として武人が治に居て乱を忘れざると否とに基ける自然の結果たらざるは無し。我等戦後の軍人は深く此等の実例に鑑み、既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以てし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に後れざるを期せざる可らず。若しれ常に 聖諭を奉体して孜々しし奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば、庶幾ねがはくは以て永遠に護国の大任を全うすることを得ん。神明は唯平素の鍛錬につとめ、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ちに之をうばふ。古人曰く勝て兜の緒を締めよと。
戦勝の夢に酔ふことを戒め、皇国国防の本義を説き、海軍軍人の本分を指示し、言々句々、至誠憂国の一念に徹したる聖将の面目、まことに躍如たるを覚えるではないか。

聯合艦隊各司令長官以下及大本営海軍将官以下幕僚
『日露戰役海軍寫眞帖』第四巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

爾来幾星霜、この聖将の遺訓は、わが海軍精神の伝統の中に、血となり肉となつて生きて来た。わが海軍は、ひたすらにこの遺訓を守り、孜々奮励、実力の満を持して放つべき時節に備へてゐたのである。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

日本海海戦――(5)二十八日の戦闘

5 二十八日の戦闘


夜闇の戦闘を駆逐隊艇隊に譲つて戦場を離れた東郷司令長官は、敵の残存艦隊が浦塩ウラジオに向ふことを豫想し、敵に先んじて北航し、天明を待つて再びこれを邀撃せんものと、鉄桶の陣を張つて待ちうけてゐた。

昼間は聯合艦隊の主力に猛撃をうけ、夜は夜で鮫のやうな水雷戦隊に喰ひさがられて支離滅裂となつたネボガトフ艦隊は、二十八日の黎明を迎へ、行手に東郷艦隊が昨日といささかも変らぬ姿で待ち構へてゐようとは知らず、漸く安堵の息をつき、浦塩に向つた。午前五時、第五戦隊は遥か東方にあたつてこの敵艦隊を発見、直ちに主力艦隊に報告した。第四、第六戦隊も亦敵を発見し、三隊協力して触接を保つた。第一、第二戦隊は直ちに敵の所在に向ひ、午前九時半頃これを発見した。敵は旗艦ニコライ一世を先頭に、アリヨール、アプラクシン、セニヤーウンが続航し、巡洋艦イズムルードも続いてゐた。十時三十四分、八千米の距離から、わが主力は砲撃を開始したが敵は応戦しない。間もなく各艦万国信号で降伏信号を掲げ、航進を停止した。そこで東郷司令長官は降伏を容れ、砲撃を中止し、ネボガトフ司令官を旗艦三笠に招致して捕獲処分に着手した。即ち、軍艦は現状のままわが軍に引渡すべきこと、乗員はすべて俘虜となすべきこと、士官以上は帯剣を許すべきこと等を指定した。

降伏し停船した「ニコライ一世」号
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

捕虜として「朝日」に収容された「アリヨール」号乗員
『日露戰役海軍寫眞集』第二緝(坪谷善四郎、明治38年、博文館)

敗残敵主力はこれで始末がついたが、他の諸艦はいまだに別れ別れになつて遁走を企ててゐるに違ひないので、これらの処分もしなければならぬ。そこで東郷司令長官は第一戦隊以外の各戦隊に索敵撃滅を命じた。二十八日に処分した他の敵艦は海防艦ウシヤコーフ(午後、磐手、八雲にて撃沈)、巡洋艦スウェトラーナ(午前、音羽、新高にて撃沈)、駆逐艦ベヅウブリョーチヌイ(午前、千歳、駆逐艦有明にて撃沈)、同ブイスツルイ(正午、新高、駆逐艦叢雲の攻撃に遭ひ、竹辺湾附近に擱坐破壊)、同グロムキー(午後、駆逐艦不知火、第二十三号水雷艇にて撃沈)、同ベドウイ(駆逐艦漣により捕獲、司令長官ロジェストウェンスキー中将を俘虜とす)等があつた。その他沈没したものは、戦艦シソイ・ウェリキー(二十八日午前沈没)、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒーモフ(二十八日午前、対馬東岸沖合にて沈没)、同ドミトリー・ドンスコイ(二十九日払暁、鬱陵島沿岸にて沈没)、同アドミラル・モノマフ(二十八日午前、対馬東岸沖合にて沈没)、駆逐艦ブイヌイ(二十八日午前、自沈)等であり、ネボガトフ提督降伏の際、快速を利用して逃走した巡洋艦イズムルードは、のち沿海州セント・ウラヂミル湾で擱坐破壊した。

擱坐した「イズムルード」号
『日露戰役海軍寫眞集』第一緝(坪谷善四郎、明治38年、博文館)

かくて、威風堂々対馬海峡に現はれた露国第二太平洋艦隊三十八隻(戦艦八隻、巡洋艦九隻、海防艦三隻、駆逐艦九隻、仮装巡洋艦一隻、特務艦六隻、病院船二隻)のうち、撃沈十九隻(戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、駆逐艦四隻、仮装巡洋艦一隻、特務艦三隻)、捕獲五隻(戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻)といふ大戦果で、抑留病院船を除けば、戦場から逃れたものは、巡洋艦五隻、駆逐艦四隻、特務船三隻に過ぎない。このうち、巡洋艦イズムルードは前述のごとく擱坐破壊し、駆逐艦ブレスチャーシチーは上海へ遁走途中浸水沈没した。エンクウスト司令官の率ゐた巡洋艦三隻はマニラ湾に遁入して米国政府に抑留せられ、または上海に逃れて武装解除された。かくてバルチック艦隊の最後目的地であつた浦塩斯徳ウラジウォストクに到達し得たものは、僅かに巡洋艦アルマーズ、駆逐艦二隻の合計三隻に過ぎないといふ惨憺たるものであつた。しかも、敵司令長官以下約六千名を俘虜とし、わが艦艇の犠牲は僅かに水雷艇三隻といふ、空前にしておそらくは絶後の一方的大勝利であつた。

五月三十日、東郷聯合艦隊司令長官は左の優渥なる勅語を拝した。
聯合艦隊ハ敵艦隊ヲ朝鮮海峡ニ邀撃シ奮戦数日遂ニ之ヲ殲滅シテ空前ノ偉功ヲ奏シタリ
朕ハ汝等ノ忠烈ニ依リ祖宗ノ神霊ニコタフルヲ得ルヲヨロコオモフニ前途ハ尚遼遠ナリ汝等イヨイヨ奮励シテ以テ戦果ヲ全フセヨ
東郷司令長官は同日左の奉答文を上つた。
日本海ノ戦捷ニ対シ特ニ優渥ナル
勅語ヲ賜ハリ等感激ノ至リニ堪ヘス此ノ海戦豫期以上ノ成果ヲ見ルニ至リタルハ一ニ
陛下御稜威ノ普及及ヒ歴代
神霊ノ加護ニ依ルモノニシテ固ヨリ人為ノ能クスヘキ所ニアラス等唯〻益〻奮励シテ犬馬ノ労ヲ尽シ以テ皇謨クワウボヲ翼成センコトヲ期ス
同日聯合艦隊に勅語を賜ると同時に海軍に勅語を下し賜うた。海軍大臣山本権兵衛、海軍軍令部長伊藤祐亨は、勅語に対し夫々奉答文を上つた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

2015年5月24日日曜日

日本海海戦――(4)二十七日夜の戦闘

4 二十七日夜の戦闘


昼間の戦闘により、敵艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将は、開戦後三十分にしてきずつき、沈没に瀕した旗艦スウォーロフから、駆逐艦ブイヌイに移されたが、ほとんど人事不省に陥つたので、艦隊の指揮をニコライ一世に坐乗せるネボガトフ司令官に譲つた。ネボガトフ司令官は敗残のニコライ一世、アリヨール、アプラクシン、シニヤーウン、ウシャーコフ、ナワリン、シソイ・ウェリキー、ナヒーモフ、モノマフ、イズムルードを率ゐ、ロジェストウェンスキーの最後の命令を奉じて、一意浦塩斯徳ウラジウォストクへと急いだ。

二十七日午後七時三十分頃、第一、第二駆逐隊は北方より、第三、第四、第五駆逐隊は東方より、第一、第十、第十五、第十七、第十八、第二十艇隊は南方より、ほとんど同時に敵の主力に襲ひかかり、三面より包囲攻撃の態勢をとつた。ネボガトフ司令官は、八時過ぎ、あたりをめた夜闇に乗じて遁走を企てたが、午後九時前後におけるわが魚雷襲撃は実に凄絶を極め、約四十隻の駆逐艦、水雷艇が八方より敵に肉薄したので、敵は全く混乱の極に達し各艦勝手に遁路を求めて逃走した。そのため、旗艦ニコライ一世に続航し得たものは僅かにアリヨール、セニヤーウン、アプラクシン、イズムルードの四隻のみ、戦艦ナワリンは沈没し、同シソイ・ウェリキー、巡洋艦ナヒーモフ、モノマフは大損傷を被つて、いづれも翌二十八日に沈没した。なほオレーグ、ジェムチウグ、アウロラは、エンクウィスト司令官に率ゐられて、二十八日未明西方に逃走した。

「アリヨール」号被弾の跡
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

日本海海戦――(3)二十七日の戦闘

3 二十七日の戦闘


明治三十八年五月二十七日午前二時四十五分、わが哨艦信濃丸は、五島白瀬の西方約四十かいりの地点で、東航する一汽船の燈火を発見した。これは敵の病院船アリヨールで、どうしたものか消燈してゐなかつたのである。これが敵艦隊発見の端緒であつた。この燈火を発見した信濃丸は、必ず他にも艦船がゐる筈だと、引続き厳重な見張りをしてゐたが、濃霧のため何ものも見えず、艦長はこの汽船を臨検するつもりで近寄らうとした瞬間、前方眼前に堂々たる大艦隊を発見し、しかも我はその艦列中にはいりこんでゐたのであつた。そこで直ちに「敵艦見ユ」の無電を発した。時に午前四時四十五分であつた。この無電に接した巡洋艦和泉は、勇敢に敵と接触しつつ刻々その陣形や速力方向を東郷司令長官に無電で報告した。この際和泉が触接を保ちつつ無電を発してゐるのを知りながら、敵艦隊が妨害しなかつたことは不思議といふ他はない。この日、東郷司令長官は旗艦三笠に坐乗して鎮海湾にあり、敵艦隊出現の報に接したのは午前五時五分頃であつた。直ちに全軍に出動を命じ、同時に大本営に向つて「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」といふ有名な第一報を打電した。普通ならば「邀撃」とでもいふところを「撃滅」といつたところに、東郷司令長官の並々ならぬ決意と自信とがうかがはれる。

5月27日早朝、日本海戦場へ向ふ聯合艦隊
『日露戰役海軍寫眞朝日の光』(關重忠、明治38年、博文館)

わが主力艦隊は、正午、沖ノ島北方十二浬に達し、片岡第三艦隊司令長官の報告により、敵は壱岐国若宮島の北方十二浬にあつて北東微東に航行しつつあるのを知り、適宜針路を向け、午後一時十三分、先づわが第三戦隊を見、つづいて第五第六戦隊を望み、つひに同三十九分はるかに敵艦隊の姿を認めた。この時敵の陣形は二列縦陣で、右翼列の先頭にボロヂノ級戦艦四隻よりなる一隊を置き、オスラビヤ、シソイ・ウェリキー、ナワリン、アドミラル・ナヒーモフの四隻よりなる一隊を左翼列の先頭に位せしめ、イムペラートル・ニコライ一世及び海防艦三隻よりなる一隊これに続き、ジェムチウグ、イズムルードの二巡洋艦前路を警戒し、なほ後方に巡洋艦、特務艦が続航してゐた。東郷司令長官は直ちに戦闘開始を命じた。旗艦三笠の檣頭には、あの歴史的な「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」との信号旗が掲げられた。時まさに午後一時五十五分、わが砲火を開く十五分前であつた。

旗艦「三笠」艦橋上の東郷平八郎聯合艦隊司令長官
左上に信号旗(Z旗)が翻る

この時、彼我の針路は反航の姿勢にあつた。このまま進めば、砲戦の時間が短く、再び反転して敵を追ふには時間を要し、八月十日の黄海海戦の轍を踏むであらう。東郷司令長官の戦法や如何にと全軍固唾をのむうち、二時五分、果然三笠は、世界海戦史上有名な敵前十六点転針の大冒険を敢行したのであつた。まさに大英断である。転針中は、われより精確なる照準が出来ないばかりでなく、後続各艦は同一点で転針するから、その地点を照準されれば、敵から正確な砲火を浴びせられる危険があるわけである。

これを見た敵艦隊は好機乗ずべしとばかり、まづ旗艦スウォーロフ火蓋を切り、つづいて各艦砲火を開いた。距離八千米。しかし、われは未だこれに応ぜず、二時十分、射距離六千米となるや、旗艦三笠はじめて応戦し、後続の諸艦これにならひ、まづ敵の左右両列の先頭艦スウォーロフ、オスラビアに猛砲火をあびせた。しかもなほ距離四千六百米にまで肉迫猛撃したので、オスラビア、スウォーロフ、アレクサンドル三世等、相ついで火災を起し、黒煙あたりを覆うて屢〻照準に困難を感ずるほどであつた。この間、わが方も多少の損害をうけ、第二艦隊の浅間は敵弾を受けて舵機に故障を起し、一時列外に出るのやむなきに至つた。やがて敵の旗艦スウォーロフは大損害を被つて列外に出で、オスラビヤは午後三時過ぎ沈没し、敵陣やうやく混乱の色が深くなつた。かくて戦闘の大勢は最初の一時間で決した。以後わが主力艦隊は、敵主力の運動に応じ、集合離散戦術の妙を尽し、敗残の敵を攻撃しつつ遂に日没に及んだ。この戦闘で、旗艦スウォーロフ、オスラビヤ、ボロヂノ、アレクサンドル三世等は、悉く撃沈された。

この間、第三、第四、第五、第六戦隊は敵の後尾を襲ひ、主として巡洋艦、運送船を攻撃し、敵を非常な混乱に陥らしめた。かくて東郷司令長官は、午後七時半、戦闘を中止し、鬱陵島うつりようとうに全艦の集結を命じ、明日の戦闘に備へた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

2015年5月23日土曜日

日本海海戦――(2)わが聯合艦隊の準備

2 わが聯合艦隊の準備


明治三十七年四月バルチック艦隊東洋派遣が決定し、十月十五日にはリバウ軍港を進発したとの情報は、いちはやくわが大本営にはいつた。その勢力は戦艦七隻、巡洋艦六隻、駆逐艦若干といふのであるから、これのみならば、敢て恐るるに足らない。しかし、これがもし旅順にある第一太平洋艦隊と合同することになると敵兵力はわれに倍する優勢となる。要するに、バルチック艦隊の来航が早いか、旅順艦隊全滅が早いかといふことが重大問題であつた。幸ひにして第三軍の猛攻により、三十八年一月、敵遠征艦隊の来航に先立つて旅順口が陥落したので、わが聯合艦隊の作戦は一段落を告げた。そこで諸艦は損傷箇所を急遽修理し、完成次第逐次朝鮮海峡方面に集合し、艦隊運動、艦砲射撃の猛訓練を励行した。ことに艦砲射撃訓練は猛烈を極めた。開戦以来これまでの海戦は常に欧露にあるバルチック艦隊の来航を考慮にいれておかなければならなかつたので、東郷司令長官の苦心は一通りでなかつたが、今度こそは互ひに後詰めなしの国運を賭した決戦である。要するに勝てばいいのである。乾坤一擲、敵艦隊を全滅させ得れば、味方の半分、いな三分の二を失ふことも許されるのである。ただ敵艦隊撃滅の一途をのみ念ずる将兵の技術は、つひに百発百中の域にまで達した。

相次いで大本営に入る情報により、敵は第三艦隊と合して、五月十四日カムラン湾を出発したことまではわかつたが、その後の消息はえうとして知るべくもない。旅順陥落の後であるから、敵がめざすは浦塩斯徳ウラジウォストクに違ひないが、それには対馬海峡を通るか、津軽海峡を通るか、問題は各人の観点が違へば判断も違ふ。わが参謀の間にも意見がわかれ、主力艦隊は能登半島沖に集結、両海峡いづれを敵が通過するも応じ得べき準備をなすべし、といふ意見が、一時は有力であつたほどであつた。東郷司令長官は、これらの意見を聞きながら、黙々として語らず、胸中ひそかに期するものがあるやうであつた。果然、五月二十六日朝、敵の運送船が上海に入つたといふ情報に接するや、司令長官は意を決し、主力を鎮海湾に集結し、一両日に迫つた決戦の海面を沖ノ島附近に想定したのであつた。露国艦隊司令長官も、駆逐艦、水雷艇による襲撃のおそれある日本沿岸は、日中に航過せんと欲し、五月二十七日正午の位置を対馬海峡東水道、即ち沖ノ島附近と定めて速力を調節しながら、二十七日の戦闘を期してゐたのであつた。

これをむかへ撃つ、わが聯合艦隊の陣容は左の通りであつた。


以上、戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、巡洋艦十二隻、装甲海防艦二隻、海防艦三隻、通報艦三隻、砲艦五隻、駆逐艦二十一隻、水雷艇四十一隻、合計九十九隻(戦闘に不参加の仮装巡洋艦を除く)、総排水量二十一万七千八百餘トン、これは文字通り当時の帝国海軍の全勢力であつた。

聯合艦隊旗艦・三笠
『日露戰役紀念帝國海軍寫眞帖』(市岡太次郎等、明治38年、富山房)

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

日本海海戦――(1)バルチック艦隊の遠征

1 バルチック艦隊の遠征


バルチック海より浦塩斯徳ウラジウォストクまで航程にして一万数千かいり、その間一箇の根拠地すらない。戦時国際法によれば中立国の港で燃料を補給することも出来ない。一旦故障が起きた艦は修理することも出来ない。四十隻一万人の乗員の糧食被服その他はどうするか。大洋中で暴風に遭つた場合、駆逐艦のごとき小艦は航海に耐へ得るか。以上のやうな難関を覚悟の上で決行されたのが、露国第二太平洋艦隊(俗称バルチック艦隊)東洋派遣の壮挙なのである。敵ながら天晴れとめていい。もし、この壮挙が露国の計画通り成功すれば、日露両国の海軍兵力は、ここに主客顚倒し、彼が絶対優勢の地位を占めることは疑ひない。満洲の野において連戦連敗してゐるクロパトキン軍を救ふには、実にこの一途あるのみである。かうした考へが露国朝野を圧倒し、つひに明治三十七年四月三十日、露国海軍省は増遣艦隊の編制を発表し、これに「第二太平洋艦隊」と命名し、ついで五月、海軍軍令部長心得侍従将官ロジェストウェンスキー少将を司令長官に補した。出発の時期は、はじめ七月と称したが、いろいろと遷延を重ね、つひに十月十五日、リバウ軍港を進発することになつた。

ロジェストウェンスキー少将

出発前より、日本軍は丁抹デンマーク海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艇隊が潜んでゐるとかと、いろいろ噂がとんでゐたので、悲愴な決意をもつて壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思ひであつた。果して北海航過の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲滅法めくらめつぽふに砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあひ、水線上に四弾をうけるといふ悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。

十一月初旬、艦隊はモロッコのタンジールに達し、喜望峰迂回部隊とスエズ運河通過部隊とにわかれた。これは吃水の深い艦がスエズ運河を通過するためには、弾薬石炭等をおろさなければならぬので、それを避けるためであつて両隊はマダガスカル島で会合することに定められ、スエズ通過枝隊は十二月末、喜望峰迂回の本隊は翌年一月九日、豫定の地点に達して両隊合同した。また艦隊が本国出発当時残留した巡洋艦二隻及び仮装巡洋艦、駆逐艦数隻も二月十八日に本隊に合した。これより先、本国では戦艦一隻、装甲巡洋艦一隻、海防艦三隻より成る第三艦隊が編成せられ、第二艦隊の後を追つて二月十五日リバウを出発したが、満洲における情勢が逼迫して来たので、本隊は第三艦隊を待たず、三月十六日マダガスカル発、四月五日マラッカ海峡を通過、十四日仏領カムラン湾に到着し、以後、五月九日に第三艦隊と合同するまで、二十餘日をこの附近で過した。第三艦隊の合同により、いよいよ最後の航程に上つたが、その編成は左表の通りであつた。

第一戦艦隊
(戦艦 四隻)
クニヤージ・スウォーロフ(司令長官旗艦)、イムペラートル・アレクサンドル三世、ボロヂノ、アリヨール
第二戦艦隊
(戦艦 三隻/装甲巡洋艦 一隻)
オスラビヤ(司令官旗艦)、シソイ・ウェリキー、ナワリン、アドミラル・ナヒーモフ(装巡)
第三戦艦隊
(戦艦 一隻/装甲海防艦 三隻)
イムペラートル・ニコライ一世(戦艦)、ゲネラル・アドミラル・アプラクシン、アドミラル・セニャーウヰン、アドミラル・ウシヤーコフ(以上第三艦隊の四隻)
第一巡洋艦隊
(装甲巡洋艦 二隻/巡洋艦 二隻)
オレーグ(後発隊、巡)、アウロラ(巡)、ドミトリー・ドンスコイ(装巡)、ウラヂーミル・モノマーフ(第三艦隊、装巡)
第二巡洋艦隊
(巡洋艦 四隻)
ウェストラーナ、アルマーズ、ジェムチウグ、イズムルード(後発隊)
駆逐隊駆逐艦九隻(内、後発隊二隻)
運送船隊仮装巡洋艦五隻、工作船二隻、病院船二隻、運送船十数隻

以上の勢力を要約すれば、戦艦八隻、装甲巡洋艦三隻、巡洋艦六隻、装甲海防艦三隻、駆逐艦九隻、合計二十九隻、総排水量十六万二百餘トン(運送船隊を除く)であつた。

第三艦隊と合同した露国艦隊は総数五十隻、朝鮮海峡に向つて北上した。途中運送船数隻を上海に放つたが、これは露艦隊としては大失敗であつた。それはカムラン湾出航後えうとして知れなかつた露国艦隊の所在を判断する絶好の資料をわが軍に与へたからであつた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

2015年5月17日日曜日

日英同盟――(3)日英同盟の締結

日英同盟の締結


日清戦争頃陸奥外務大臣は、今にして欧洲の一勢力と充分結ぶ所なければ、将来東洋の平和を保持し、我が権益を維持し難しと唱へてゐた。其の一勢力とは英国か露国の外はないが、陸奥は『英国は人の憂ひを憂へて之を援けんとするドン・キホーテではない。日英同盟論の如きは夢想である。虚栄である。画餅である』と排斥してゐたが、之に反して林次官は日英同盟論者で、其の意見を時事新報に載せ、また福沢諭吉も共鳴して社説を書いた程であつた。日清戦後伊藤、山県、井上など元老大官の多くは日露協約論者であつた。

一九〇〇年(明治三十三年)支那に於ける保守的排外思想の権化、義和団事件に於ける列国会議で、日英両国の感情は互に相融和して膠漆の如く、列国をして日英密約を思はしむる程になつてゐた。事変後露国は三国干渉により、日本に還附せしめた旅大を租借し、満洲に駐兵して攘奪の形勢を現はして来たので、日本たるもの無関心たるを得ない。臥薪嘗胆一戦を覚悟せしむるに至つた。

英国の宝庫印度に於ける一八五七年の叛乱は漸く鎮定したが、北方の白熊が爛々と目を光らしてうかゞつてゐた。露国の南下はピーター帝以来の大策で、印度へ密使を送り、またカタリナ女帝、パウロ帝も侵略計略を立てゝゐた。参謀本部ソボレフ将軍の印度侵入計画は、三十万の露軍を以てアフガニスタンの嶮道を乗越え、一挙して印度を衝かんとするものであつた。更に露国は波斯ペルシヤ湾に出口を求めてゐたのであるが、英国の為め成功し難しと見るや、防禦力薄弱なる極東に大転回した。

併し極東に於ても英露両国は衝突すべき宿縁を持つてゐた。露国は満洲より朝鮮半島へかけて、着々と魔手を伸ばして来たのみならず、更に支那本土までも入道雲の如く這ひかゝつて来たのである。英国は多年の精力を傾けて孜々しゝ営々と築いた権益を脅かされ、安閑としてはゐられない。臥榻ぐわたふの下既に露国の鼾声がかまびすしくなつたのだ。

英国はつとに露国の極東に於ける大望を看破してゐた。最初支那と提携して露国に当らんと思つてゐたが、日清戦争に於て支那の弱体が暴露せらるゝや、支那を見棄てゝ日本と握手せんとした。三国干渉の際英国が誘ひの手を払ひ除けたのも之が為めである。

英国に於て日英同盟論のやゝ表面化したのは、一八九八年(明治三十一年)植民大臣ジョセフ・チェンバレンが、我が駐英加藤公使に打明けた時である。英国は此時南阿に戦争の危険をひかへ、露国とは素より、仏国とはスーダンのファショダ事件でいがみ合ひ、独逸とは南阿クリューゲル電報事件の悪感情が残つて居り、米国とはヴェネズエラ国境事件で争つた後口あり、何れを向いても八方塞りであつた。然るに英国には『光栄ある孤立』なる伝統政策があつて、これを抛棄することには悩まぬでもなかつたが、大策の前には虚名を株守して居られぬまで事態は切迫してゐたのだ。

然るに一方日本には日露協約論を唱ふる者あり、こゝに対立状態を呈するに至つた。日英同盟論者は山県、桂の一派で、英国を背景とする日露戦争主義である。日露協約論者は伊藤、井上の一派で、露国の満洲における既成勢力を認め、朝鮮を保全すると云ふ協調主義である。既にして日英同盟は具体的に議熟し談判進行中、伊藤は正式委任状を携へて出発、米国を経て態と英国を敬遠し直路露都に入り、日露協約を締結せんとしたが、露国は伊藤を大に歓迎したが協約には乗つて来なかつたので、引返して伯林ベルリン淹留えんりう中、一方日英同盟談判は伊藤の入露に依つて推進せられ、ほゞ終結を告ぐる迄になつてゐた。伊藤は之を知るや同盟反対の意見を政府に発電した程だつたが、遂に日英同盟は成立し、一九〇二年(明治三十五年)一月三十日、我が林公使とランスダウンとの間に調印が了せられた。

同盟条約は清、韓の独立を保全すると共に、其の権益を尊重し、同盟国と他の別国と戦争の場合は厳正中立を守り、若し交戦別国に他の一国又は数国が加はる時は、同盟国は直ちに来つて戦争に参加すると云ふ規約である。此同盟成立後二年、明治三十七年(一九〇四年)日露開戦し、其の終期三十八年(一九〇五年)八月改訂して攻守同盟となり、更に鞏固なるものとなつた。

然るに日英同盟に一抹の陰翳が漂ふに至つた。それは米国加州カリフォルニアに於て日本人排斥問題が起つて形勢不穏となり、若し日米戦争が起つた場合、英国は米国と戦ふのは情に於て忍びない、また米国も日英同盟を目の敵として叫喚し、更に英領加奈陀カナダを説いて反対せしめたので、英国も遂に局面打開策を講ぜねばならなかつた。折柄英米仲裁々判条約につき談判中だつたので、英国は此条約を結び附け、万一の際日米戦争に参加を回避すると云ふ案を立て、駐英加藤大使との間に談判終結し、一九一一年(明治四十四年)七月十三日彼我全権調印を了した。

然るに英米仲裁々判条約は、皮肉にも米国上院で否決され、改訂条約第四条仲裁々判条約の文字を無効に帰せしめてしまつた。

この日英同盟は最初露国の南侵防禦の為めであつたが、日露戦争により、東洋に於ける露国の勢力が一掃されて、露国の脅威は殆んど消滅に帰したるを以て、第二次に於て印度の保全に及んで来た。是に於て英国は欧洲に事ある時、印度の保全を日本に托し、後顧の憂ひなくして戦争に従事し得るのだ。英国は近年独逸の擡頭、海軍拡張に鑑み、他日此事あるを豫期してゐたのである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

日英同盟――(2)三国干渉と英国

三国干渉と英国


日本全国民は有利な講和条件に歓喜抃舞べんぶして、万歳の声はとゞろきて山河にこだますると云ふ真つ只中へ、青天霹靂的に三国干渉の巨弾に見舞はれ、歓楽の天国から悲観の奈落へ突落された如く、暗然涙を吞む非運に沈んでしまつた。抑も日本が遼東半島を領有することは、露国に宿昔しゆくせき懐抱する南進策を封鎖するもので、到底彼の承認し得る所でない。同盟国たる仏国を誘ひ、豫て山東省に野心を持つ独逸を引入れ、三国干渉と出掛けたわけである。露国は英国も誘つたが、英国は此手に乗らなかつた。

露国が南岸に不凍港を獲得せんとするのは、ピーター帝以来の大策であつた。露国が先づ手を伸べたのは手近の土耳其トルコで、黒海よりダーダネルス海峡を経、地中海へ出づる線の領有である。ニコラス一世は土耳其に対し、其の領内の希臘教徒保護権を要求し、土耳其の拒絶するや直ちに砲火を以て向つた。英仏聯合軍は土耳其を援けて、クリミヤ半島セバストポールの要塞を抜くに及び、露国遂に屈して和を請ひ、一八五六年(安政三年)巴里パリ条約を締結して講和した。是れ有名なクリミヤ戦争である。

クリミヤ戦後土耳其は国政乱れ、耶蘇教徒が迫害を受けたので、一八七七年(明治十年)露国は土耳其国内の教徒保護を名として兵を進め開戦するに至つた。露軍は次第に土軍を圧し、アドリヤノープルを占領して、まさに首都コンスタンチノープルに迫る勢を示したので、土耳其は遂に屈服し、一八七八年(明治十一年)講和成立した。之より先、露軍のコンスタンチノープルに迫らんとするや、英国は大に驚き艦隊を黒海に入れて示威した。墺国も亦露国の南下を怖るゝものである。独逸の宰相ビスマークの調停により、伯林ベルリンで列国会議を開き、露国の土耳其から得た利益を削減してしまつた。

露国は当年の恨みを忘るゝことは出来ない。此手を其のまゝ持つて来て三国干渉を試みたのである。江戸の仇を長崎を伐つどころでない。欧洲の仇を極東で伐つたのだ。

露国は南の出口を二度とも英国の為めに抑へられた。更に東に廻つて小亜細亜のバグダッドから波斯ペルシヤ湾へ出ようとすると、此処でも英国が大手を挙げて押出さうとする。其東は印度、安南の鉄壁である。遂に大転回して極東に向はんと機会を狙つてゐる矢先、日本が遼東半島を領有するに於ては、露国積年の希望はもう絶望だ。

日本が折角取つた遼東半島を清国へ還附するのは、大陸へ伸びんとする意慾を粉砕され、戦勝の威厳を損する屈辱であるが、今我が艦隊は台湾占領の為め南遣中であり、且つ既に戦に疲れて、欧洲の三強国を向ふに廻し戦ふ気力はない。芝罘に三国艦隊が集中し、スワといはば何時でも発動する用意は整つてゐる。こゝに至つて血涙を吞んで干渉に応ずる外策なきも、一応英、米、伊諸国の後援を求めることにした。加藤駐英公使は我が政府の訓令により、英国外相を訪問して縷々苦境に立つ現状を説き、英国を動かさんとした。外相即ち曰く、
『此事件につき英国政府は一切干渉せざることに決定してゐる。日本に協力することは、是れ亦一種の干渉に外ならない。英国に取つては露、独、仏も、日本同様友国のことなれば、英国は此際彼是かれこれ酌量して、其の威厳上自己の決断と責任を以て行動すべきである。但し露、独、仏は果して何処まで其の主張を固持するか明かでないが、形勢頗る容易ならざるものあるに依り、日本は之に対して十二分の覚悟を要す』
と、英国の立場よりすれば公平な態度であらう。日本は英国の援助を得ることは出来なかつたが、英国の干渉に加はらざりしを寧ろ徳とした。三国干渉に先立ち駐支英国公使オコンナーは、露国公使の賛成を得て日本の大陸進出を阻む為め海軍威嚇政策を進言したが、英国政府は之を許さなかつた。蓋し英国は東洋の権益確守の為め、日本を利用せんと考へたのであらう。米国亦動かず、一旦伊太利は乗出さんとしたが、英米の静観せるを見て手を引き、日本は孤立無援の窮地に陥つた。

清国全権李鴻章は講和成立するや即日帰途に就き、船上から日本に向ひ赤い舌をペロリと吐き出し、皮肉な微少を面上に浮べたといふ伝説がある。真偽の程は保証の限りでないが、芝罘に於ける批准交換に先んじ、三国干渉の虎威を借り、其の延期を提言した事実がある。

日本は遼東半島還附の条件として、第三国に不割譲不租借を交渉したが、清国は之を拒絶して日本をへこました積りでゐたが、後日、露国に占領せられた。のみならず独、仏は素より、英国までが便乗して土地を租借し、尚ほ且つ鉄道敷設権、土地不割譲などの形式を以て、列国瓜分の形成を成し、其の桎梏に苦しまねばならなかつたのは、自業自得といふべきである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

2015年5月16日土曜日

日英同盟――(1)日清戦争と英国

日清戦争と英国


日英条約改正談判中であつた。日清間に於ける朝鮮問題は益々緊迫して風雲たゞならず、何時火蓋は切つて放たるゝか計り知るべからざるに至り、談判は此問題に推進せられ、俄かに活気を加へて来た。而して日清問題の本体につき、冷然と白眼を以て視てゐたのは英国と露国であつた。

日清戦争の結果若し日本が勝利を得たならば、多年南下政策を行ひ、不凍港を獲得せんとの機会を失ふであらう、是れ露国の憂ふる所である。南京条約以来孜々しゝ汲々支那に扶植した優越権に、何等かの脅威を与へらるゝであらう、是れ英国のおそれる所である。日清国交の危機を告ぐるや、露国から三回、英国から二回の干渉あり、米、仏、独からも微弱な干渉があつた。最初英国の仲裁案を持出した時、支那側の不誠意により画餅に帰し、第二回目に至つては、最早時局が切迫して、外国の仲裁を容るゝ餘地なき迄になつてゐた。何れにしても露国と英国とは、日本の勢力が大陸に拡延せんことを怖れたのは同一で、日本の進出を阻止しようと試みたのだが、共に能く最後の目的を達成することは出来なかつた。そこで英国は経済的本拠たる上海けなりとも、戦争の惨禍より免れしめんと、上海の中立案を提議して来た。陸奥外相は再三英国の仲裁案を退け、尚ほ此上にも英国の感情を害せんことを慮り同意した。所が戦時に入ると支那は中立地帯を利用して策源地としたのである。何の事はない。支那の為め不可侵の安全地帯を提供した様な結果となつたので、英国へ抗議を申込むと、中立地帯を承諾しながらと反撃し来るので、日本も断乎たる決意を示すに至つたが、其のうちに戦争は日本の有利に発展したので、英国も大に覚醒する所があつた。

宣戦布告前即ち七月二十五日朝鮮豊島沖で、日清軍艦始て砲火相見えた。我が軍艦は英国旗を掲げた運送船高陞号を撃沈したので、日英間の国際問題となつたが、清国の将兵は英国人船長の自由を拘束し、且つ日清開戦に至らば直ちに清国に帰属すと云ふ条件になつてゐたので、幸ひ無事解決したが、一時英国に於ける輿論は日本に対し非常に激烈なるものであつた。

二名の米国人が桑港サンフランシスコから英船ゲーリック号に搭乗して出帆した。此二米人は清国の軍事幇助の嫌疑者たりとの報告があつたので、十一月五日同号が横濱入港の際、我が海軍武官が臨検すると、既に彼等は其の前日仏船シドニー号に転乗して神戸に向ひ出帆してゐた。然るに此臨検が問題になり、英国公使から臨検した理由の辯明を求めて来た。日本政府は彼等は日本に敵対する行為を目的として清国に赴くもので、交戦国の権利なりと主張したが、英国公使は容易に認諾せず、尚ほ数回交渉を続けられ、結局有耶無耶のうちに立消えになつてしまつた。是れ治外法権と戦時国際法との相剋である。然るに仏船の神戸へ入港するやまた臨検を受け、一転して日仏間の問題となつたが、之も戦時国際法を破ることは出来なかつた。兎角彼等は治外法権に重きを置き、何事でも之により処理せんと云ふ錯覚に出でたのである。

英国東洋艦隊司令長官フリーマントルの率ゆる艦隊が洋上に於て我が艦隊に邂逅した時、彼はわざと轟々祝砲を放つて、清国側に我が艦隊の所在を知らしめたり、また我が伊東司令長官に書を送つて、英国の商船は我が保護の下にあるを以て、若し日本軍艦の臨検捜査ある時は、不測の変を招くことあるべしなどと、日本の交戦権に拘束を加へんと謀るなど、其の言動不穏なるを以て、我が国は英国政府に交渉すると、是はフリーマントルの誤解なりと、彼に訓戒する所あり、日清戦争の初期に於て、英人の対日感情は面白くなかつた。

戦局が進むと清国は漸々悲観に陥り、列国に愁訴して干渉を求むるのだ。英国政府は動かされたのか、十月八日駐日公使トレンチは、本国政府の訓令なりと称し、戦争終熄に関する調停案を持出したが、政府は未だ其の時期にあらずと拒絶した。

斯くて清国の敗北は愈々確実となり、首都北京のまもりも危くなつて来たので、清国は遂に屈して講和を求め、明治二十八年三月二十日我が全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章との間に初会見となり、四月十七日に至り講和条約成立調印ををはつて、日清間はこゝに全く平和克復した。

元来欧米諸国は日本が欧洲流の軍事施設を模倣し得るも、文明的規律節制の下に運用し得るか否かを危ぶんでゐた。然るに日本軍隊の規律厳粛なること、戦争に関する総ての行動が敏活整備せること、衛生救護の行届けること、公法を厳守して中立国の権益を尊重すること等、欧米文明国と伍して少しも遜色なきを知るに及び、日清開戦の当初日本の態度を疑懼ぎくし、冷眼視してゐた英国も、平壌及び黄海に於て我が軍の大勝するや、漸次認識を改めて来た。倫敦ロンドン駐剳内田臨時公使の報告に曰く、『本官は英国上流社会の人々より、我が国の戦勝に対し祝辞を受けたり、当国の各新聞は大概日本の戦勝を祝し、又之に満足の意を表してゐる』と、其の論調を引用してゐる。
日本の軍功は勝者たるの賞誉を受くるに足る、吾曹ごさうは爾後日本国を以て東方一個の活勢力と認めざるを得ず、苟も英国人にあつては彼此の利害大に同じく、且つ早晩相密接すべき此新に勃興せる島国人民に対し、毫も嫉妬の心を挟むべからず。(タイムス) 
甞て英国人は日本を教導したが、今は日本は英国を教導すべき時期到来せり。(ガゼット)
由来西人は日本を支那の属国くらゐに考へ、日清戦争も内乱程度に思つてゐたのだが、こゝに至つて日本なるものゝ実体を見直したのである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

拳匪の乱と北京議定書(石井菊次郎)

明治三十三年早春支那の山東省に義和団の騒動が起つたと聞いた時我輩は北京に在つて別に注意もしなかつたが、爾後拳匪は倍々ますます猖獗となり、而も北京を指して進軍するとの注進が続々来たから、北京外交団では各公使館から故参こさん通訳官を出して会議せしめた。其会議では満場一致で義和団の乱とは名が大に過ぎる、古来支那には祕密結社が幾つもあつて時に蠢動することはあるが固より大事を起し得るものではない、地方宣教師から悲観的報告が来るのは彼等の恐怖心に出でたので歯牙にかくるに足らないと云ふ結論に達した。外交団は此の会議の復命に接してから至極暢気に日を送つて居た。然るに加特力カトリックの牧師から仏国公使館に到達した内報に依ると事態はどうも重大性を帯ぶるの観ありて牧師の恐怖心より出でたる想像としては餘りに実情を穿つて居つたから、今度は公使会議が開かれた。其所で仏国公使ピシヨン氏だけはひとり悲観説を述べたが他の公使はさきの通訳官会議の報告が先入主となつて居るため相変らず重きを置かなかつた。斯くていよいよ事態の重大さを正解した時は、拳匪が業已すでに山東省境を越えて直隷に深く侵入し、其一部は北京の直近まで進むだ頃であつた。支那に長居したものは自然支那化せられて支那の事は却つて分らなくなると謂ふが支那通の訳官等はまさに其新証拠を提供したのであつた。手後れの外交団は今更に狼狽して太沽タークー碇泊の軍艦から陸戦隊を招致する事に決したが、各国軍艦は何れも千トン足らずの警備艦の事とて多数の陸戦隊を送ることあたはず、日英米露独仏墺伊八個国の士官下士以下合せて四百二十名に過ぎなかつた。北京に於ける外交団及在留外国人を数万に上る拳匪の重囲より救ひ出すはかゝる貧弱なる陸戦隊の企及し能はざること勿論であるから、列国は別に救援軍を急派することとなり、就中なかんづく我国は地理上の関係から逸早く有力なる軍隊を派遣した。北京籠城者をさに陥落せんとする間際に救助し得たのは主として我第五師団の活躍に帰すべきであつた。

斯くて聯合軍は在北京外交団及在留外国人救援の目的を首尾よく達したので、舞台は再び外交に戻つた。第一に起つた問題は支那政府の責任であつたが、それには異論がなかつた。北支那に在留したる外国人を攻撃しあまつさへ各国公使館を包囲していはゆる洋鬼を屠らんとしたのは単り義和団迷信の乱民ばかりでなく、董福祥の正兵は公然之に加はり、端郡王までが西太后を擁して采配を振つた証拠は歴然争ふべくもなかつた。然ればこそ西太后は朝廷を率いて西安に蒙塵した訳であれ。次の問題は清国政府に強要すべき各国政府及居留民の賠償であつた。これ亦列国の権利と支那の義務とは論点とはならずして問題は賠償金額であつた。茲に至つて会議は暫く停頓状態に陥つた。列国代表は相互に他の顔を見合はして誰も口を開くものはなかつた。政府の賠償として救援軍派遣の軍費実額、被害在留民の賠償としては直接損害に限るとの原則は立所に決定せられたるものの政府の軍費実額と云ひ、個人の直接損害と云ひ之を検査し取捨するものは各自国政府のみであるから、中に過分の申出を敢てする国があつても誰とて制限する者はなかつた。対手は抵抗力を失ひたる支那政府のみで、つまり賠償金額の餘りに不当なる膨脹を押へるものとては列国政府及代表の良心だけであつた。而も此時代の列国会議の代表に良心の発揮を望むは六ヶ敷むつかしき所であつた。

此時進むで良心を発揮したものは日本代表小村寿太郎氏であつた。彼は本国政府より受領せる調書に依つて日本の要求額を五千万円と切り出した。是より米英仏露独以下の諸国相次で掌中の骨牌こつぱいを示した。斯くて列国の対清要求額は
露国(日本貨換算)一八〇、〇〇〇、〇〇〇
独逸   〃 一三〇、〇〇〇、〇〇〇
仏国   〃 一〇〇、〇〇〇、〇〇〇
英国   〃 七〇、〇〇〇、〇〇〇
日本   〃 五〇、〇〇〇、〇〇〇
米国   〃 四五、〇〇〇、〇〇〇
伊国   〃 三八、〇〇〇、〇〇〇
白国   〃 一二、〇〇〇、〇〇〇
以下墺、蘭、西、瑞典スウェーデンポルトガル等合せて四億五千万両即ち六億三千万餘円の額に上つた。前述の始末だから此額は其まま清国政府に提出し、先方の承諾を取り付けたのであつた。転じて救援聯合軍の組織如何と言ふに我輩の記憶に依れば
日本一〇、〇〇〇五十四門
露国四、〇〇〇十六門
英国三、〇〇〇十二門
米国二、〇〇〇六門
仏国八〇〇十二門
独国二〇〇
墺国
伊国一〇〇
総計二万一百一百門
以上列国の対清賠償要求額と列国が提供したる救援軍隊の人数砲数とを対照すれば其所に顕著なる矛盾が見える。日本に次で比較的穏当に見ゆるは米英両国の要求額である。英米両国は其軍人に対する実際支給額が他国に比し遥かに多額なるがためヴェルサイユ条約に因る萊因ライン占領軍費に於ても独逸は少数の英米軍隊に対し、多数の仏白軍よりも却つて多額の支払を為さしめられたる位である。其事情を斟酌すれば上掲英米両国の要求額は無謀に多過ぎるとは思はれない。其他は日本に比し不当に多額であつたことは一見して分る。露国は満洲各要所に多数の軍隊を配置したが救援隊としては我国の半数にも達しない。而して満洲の配兵は露国の野心に基く行動に属すべきものだから其軍費は清国に要求すべからざるは勿論であつた。独逸は北京救援の目的が達せられたる後に至り無用の軍隊にヴァルデルズィイ元帥までも附けて送派し、北京着後餘りの無事に苦むで保定遠征と称して軍隊の遠足旅行を敢てしたる外、真に正当防衛の行動としては籠城前に送つた三四十名の陸戦隊と青島よりの追送を併せて二百人であつた。仏国は印度支那より千人足らずの安南兵を派遣したに過ぎない。斯る連中が救援事業の五割以上を負担したる日本に数倍するの賠償金額を受くることとなりたる結果は獅子の分け前と謂はん奇怪千万であつた。要するに無抵抗に陥つた支那を相手とする此賠償要求問題に於て支那に対し十二分の好意を表し謙抑心を発揮したのは日本一国で、米英之にぎ、其他は全然論外であつた。但し我輩は一概に如上他国要求額を不当過多と謂ふのではない。支那政府を懲罰する意味に於てならば其の要求額は不当に非ずとも謂へよう。而も北京公使会議が対清国政府要求を支那の支払能力を斟酌して軍費及損害の実際額に止むべきことを自制的に決定したる以上他国の要求は支那に対しては兎も角右決定に対して過多なりと謂はざるを得ない。

はじめ帝国政府は我要求最少限を五千万円と概算して之を小村公使の参考までに電示したのであつたが、北京会議は前述の如く誰とて口を開く者がなかつたから、小村公使は其裁量を以て正義及対支友情の模範を示したのであつた。然るに事は志と違ひ、他国の代表中米英の外には我誠実を感賞するものもなくて遠慮なく膨大なる巨額を申出でた。支那人は乞ふくわいより始めよと謂ふが斯る場合に列強に先んじて口を開くは考へ物である。日本には「物言へば唇寒し秋の風」といふ誡がある、外交には此誡の方が大事である様だ。欧洲列強は弱国に対する強要事件に幾度か経験をつて居たからんな始末となつたのである。若し一九一九年の仏蘭西が明治三十三年の日本であつたとすれば彼はヴェルサイユ条約に於けるが如くに対支要求全額の五割強即ち四億円位を申立てたでもあらう。何と言つても列国は古狸で単り当時の日本は未だ経験に乏かつた。政治問題に関し列国会議に加はつたのは之が初回であつた。此初舞台に於て日本の代表が五千万円の実費賠償を受けた上に我外交の正義一点張を発揮したことは満足と視られないこともない。

石井菊次郎『外交餘録』(昭和5年、岩波書店)より