2019年11月13日水曜日

大嘗祭(和田英松)――四、大嘗祭の儀式③

三、大嘗祭の儀式③


(11)卯日祭 それから御儀式の当日のことをお話致します。卯の日が御祭の日で、大嘗宮にて行はれます。辰、巳の両日が悠紀主基の節会で即ち宴会日です。午の日が豊明節会です。いづれも豊楽院で行はせられるのである。新嘗祭の時には、辰の日に豊明節会を行ふ。そこで前にお話致しました、神御の料物、祭祀の調度等を調理致します斎場所の者は、当日まで其処に居りましていよいよ当日には、大嘗宮に神饌供物等を運ぶのですが、其の路筋を図にて説明致します。


斎場は宮城の北にありますから、宮城の裏門からなれば、路も近いけれど、さうでなく、態々迂廻して斎場から出て、悠紀主基が左右に分れて、宮城の東西なる大宮の通に出で、南に向ひて七条まで下がるのです。七条から悠紀は右に折れ、主基は左に折れて、朱雀大路に出る。朱雀大路と云ふのは廿八丈あるから非常に広い。其の広い朱雀大路へ出ると北に向いて上つて来る。一方は悠紀一方は主基で、朱雀通を併行して上り、朱雀門に這入るのです。

其の行列には、悠紀主基の行事両国の国郡司以下のものが、悉く加はるので、是れが亦非常な壮観であります。殊に神饌供物と云ふやうなものばかりを運ぶのでなく、悠紀主基の標の山〇〇〇と云ふものが附くのです。これは悠紀主基の標木をたてゝ、唯其の目じるしとしたものであるが、非常な素晴らしいものとなつたのであります。中には高さ二丈幾尺と云ふやうな高いのがあつて、三丈程もある小屋をかけて其の内で造るのですが、つまり一つの造り物です。山を造つて山の上に標を建てゝ、それに「悠紀近江」とか「主基丹波」とか云ふやうなことを書いて、其の上に又造り物をする。

其の一例を申しますと、仁明天皇の御時ですが、悠紀は、山の上に梧桐を植ゑて鳳凰が二匹留まつて居る。梧桐の木から五色の雲が起こつて、雲の上に「悠紀近江」と云ふ四字を表はした標がある。其の標の上に太陽の形を造り、太陽の上に半月の形を造る。また山の前には天老てんらう麟児りんじを描き、其の背ろに連理れんりの呉竹がある。主基もそれに負けないやうに、或は崑崙を造るとか、蓬萊を造るとか、目出度い尽しの飾物を拵へる。是れはみな画師が意匠を凝らすのです。宰領二人之を曳く、人夫は二十人ですが、後には百人の時もあつたのであります。今で云へば山車です。山車の起原と言つても宜い。さう云ふものを拵へて練歩くのですから、非常な壮観であります。物見車が多く、上皇も御見物になつた時もある。物見車と衝突して車軸が折れ、山を破壊したと云ふやうな話もある。此の標の山に就いては、いろいろな事があります。

大嘗宮に到着致しますと、神饌供物などをば、悠紀主基ともに膳屋に収め、そこで酒造童女が御飯稲を舂き、伴造が火をり、安曇宿禰が之を吹き、伴造が御飯を炊き、内膳司が御膳を料理する。此の稲を舂く時は歌を謡ふので之れを稲舂歌〇〇〇と称して、当時の歌仙儒林が詠進するのであります。

次に御祭典の御儀式の次第を申しますと、先づ酉の刻(午後六時)には、浄めた所の火で、庭火なり燈火なりを悠紀主基の御殿の側に点じ、戌の刻(午後八時)から、御祭典が始まるのです。先づ昭訓門から御入りになつて、廻立殿に行幸になる、其処で御湯をお遣ひになる。御湯を御遣ひになるにもいろいろ鄭重な御儀式がある。それから祭服と御召替へになつて、愈々大嘗宮に行幸になるのです。

初には悠紀の御殿に行幸になる。江次第によりますと、主上は御履をもめさず、徒跣とせんでゐらせられたのであります。其の御行列が餘程古式です。御通路には、布毯ふたんを敷く、前の方に二人、後の方に二人居りまして、陛下の御進みになるに随つて、前の二人が敷いて行き、後の二人が巻いて行く、陛下より外に誰も履まぬやうにする。さうして大臣が一人、中臣、忌部、御巫、猿女さるめが御供をする。猿女が御供をするのは、餘程古式であります。天照大神が天石窟あまのいはやに御こもりになつた時に、石窟の前で鈿女命うずめのみことが作俳優をしたと云ふことゝ、天孫降臨の際に、鈿女命の子孫の猿女が、先導し奉つたと云ふ意味から来て居るのであります。夜分であるから、主殿官人が両方より紙燭を燈して行く、車持朝臣と云ふのが菅笠を取つて差掛けます。其の外には笠取直かさとりのあたひ子部こべの宿禰とが、膝行して笠の綱を持つて行く、斯様にして廻立殿から大嘗宮に行幸になつて、先づ悠紀の正殿に入御になります。

それから小忌大忌の群臣がそれぞれに着席する。伴、佐伯が、大嘗宮の南門を開き、衛門府が朝堂院の南門を開く、吉野国栖くず十二人、楢笛工十二人が朝堂院南左掖門で、古風の楽を奏す。次に悠紀国司が歌人を率ゐて国風の歌を奏す。それから、語部が十五人神代の故事を語る。隼人は隼人の風俗の歌を奏す。語部は美濃、丹波、丹後、但馬、因幡、出雲、淡路から廿八人出るのです。昔は文字がないので、口々に語ると云ふ処から起つたものであります。北山抄に、「其声似祝、又渉歌声、[1]」とありますから、定めて、古雅のもので、且つ上代の事を研究するには、大切なる資料でありませう。これは称光天皇の頃まではありましたが、其の次の後花園天皇の御代には、語部の古詞明ならずして、行はれなかつた事が、康富記に見えて居ります。されば、貞享御再興以来にも、復興されなかつたのであります。国栖の古風を奏する事も、後花園天皇の御代より伝はらない。それから、皇太子が御着席になつて、八開手やひらでを御うちになり、五位以下、六位以下が順次に拍手するのです。

1 読み下し。「その声は祝に似る、また歌声に渉る、」
廻立殿に於て、陛下が御湯を御遣ひになつてから、悠紀の御殿に御入りになり、御親祭になるまでには、餘程時間の掛かることであります。愈々御親祭の始まるのは、亥の一刻(午後十時)であります。それが御済みになつて、また、子の一刻から廻立殿に御して、更に御湯を御遣ひになり、今度は主基の御殿に入御になる。斯う云ふ訳ですから、殆ど徹夜です。夕刻から夜明の頃まで、御祭典に御与かりになるのです。

御代々々の中には、御幼帝も居らせられ、女帝も居らせられますが、此の大嘗祭の御儀式は、不思議にも、滞りなく御済ませになると云ふことであります。四条天皇は、まだ五歳の御年であらせられたけれど、いさゝかも御作法等に御手落もなく、御睡眠の御催しもなく、滞りなく御式を御済ませになつたと云ふ事です。藤原定家は、「実是天之令然歟、[2]」と日記に記して感歎して居ります。鳥羽天皇も御年が六歳でゐらせられましたが、御親祭のみでなく、連夜の御儀式にも出御なされたので、「我君雖有年少之恐、毎夜出御已及暁更、進退有度、次第不誤、天之授大位、器量相叶給也、群臣皆驚上下歎服、[3]」と中御門宗忠が日記に書いて居ります。

2 読み下し。「実に是れ天の然らしむるか、」
3 読み下し。「我が君、年少の恐あると雖も、毎夜出御すでに暁更に及んで、進退に度あり、次第誤らず、天の授くる大位、器量相叶ひ給ふなり、群臣皆驚き上下歎服す、」
それで、この御親祭の御様子の詳しいことは分りませぬが、新嘗祭の御式と少しも変はりはない。また前に申しました神今食とも変りはない。唯〻神今食は新穀を奉るのではなくして、先づ陛下が火を改めて、新たに炊いた所の御飯を神に御供になり、親らもきこすのでありますが、其の御式は少しも変はらないのであります。つまり此の大嘗宮には、陛下が御先祖の天照大神を始め天神地祇を御招待になりまして、天祖の御授けになりました斎場の穂にて、新嘗を聞しめすのであります。

悠紀主基ともに内院と外院とありまして、北の方が内院で、南の方が外院でありますが、其の内院に賓座を設ける。賓座には一丈二尺の畳を敷いて、其の上に又九尺の畳を四枚敷いて、其の上に八重畳やえだゝみと云ふのを敷く、其の畳の上に坂枕さかまくらと云ふ枕をする。つまり神様の御寝床です。さうして、南の方の側には、神様の御召物を置き、其の足の方には御靴を置く。其の外御帯、御髪なども皆取揃へてある。全く神様を御迎へ申す訳です。其の側に陛下の御座があつて少し斜めになつて居る。其処で親ら御祭りになり、陛下も聞食きこしめすと云ふ次第であります。是れは大嘗祭、新嘗祭、神今食、皆同じであらうと拝察するのであります。

(12)辰日節会 それで卯の日の御祭典が済みますと、この大嘗宮をば、直様すぐさま悉くとりこはしてしまふ。北野の斎場も間もなくとりこはしになるのであります。その翌日、辰の日には、豊楽殿で宴会がある。御膳及び白黒酒を聞食し、臣下にも饗饌を賜はる儀で、之れを辰日節会とも申します。豊楽殿は斯う云ふ風になつて居ります。


中央に高御座がありまして、両方に悠紀の帳主基の帳と云ふ御帳台がある。此処へ陛下が出御になります。出御の時刻は、辰二刻とありますから、今の午前八時三十分で、先づ清暑堂に御して、次に悠紀御帳に着御あらせられるのであります。皇太子、親王以下、五位以上参入して前庭に着席す。六位以下も相次いで参入する。そこで神祇官の中臣が賢木さかきを捧げて参入し、跪いて天神の〇〇〇寿詞〇〇を奏す。この時は群臣共に跪く。次に忌部が神璽の鏡剣を奉る。天神の寿詞は即ち中臣寿詞で、全文が台記に載せてあります。この神璽の鏡剣を奉る事は、即位礼の時に述べました如く、もとは、御即位式の中にあつたものでありますが、嵯峨天皇の弘仁儀式には、即位式は別に制定して、この儀を大嘗祭に入れられたものであります。ところが後には、神璽鏡剣を奉る事もなくなつて、寿詞を奏する事のみが伝はつたのであります。

それから悠紀主基両国の多米都物ためつもの(両国の献上物)の目録を奏聞する。巳一刻(今の十時)御膳を供し、五位以上にも酒饌を賜ふ。酒は即ち白黒酒でありまして、黒酒は久佐木灰くさきばひを入れて造るのであります。次に多米都物を諸司に御分ちになる。それから悠紀が当時の鮮味を献じ、国司が風俗〇〇歌舞〇〇を奏し、御挿頭花、和琴等を献ずるのです。挿頭花と云ふのは造花です。天皇は桜其の他は梅とか云ふやうに、いろいろあります。また天皇の冠の左に御挿しになり、臣下は右に挿す。つまり皆楽しく遊ぶと云ふ意味です。悠紀御帳の儀がすむと、一応清暑堂に渡御あらせられて、更に主基御帳に入らせられるのであるが、其の儀は前と同じ様であります。此の日は例の標の山を舞台の前に立てるのであります。

(13)巳日節会 巳の日は主基の節会で悠紀の節会と大体同じでありますが、寿詞奏、黒酒白酒儀はないけれども、舞楽は違つて居ります。悠紀御帳に御す時は、大和舞〇〇〇風俗舞を奏しますが、主基の方では、田舞を奏します。大和舞も和歌に合せて舞ふもので、神代の風俗であります。田舞〇〇は田植にかたどつた舞である。歌が主で多治比氏の内舎人うどねりを舞人とす。後には大和舞田舞は略したものであります。其の後清暑堂の〇〇〇〇神楽〇〇と云うて、清暑堂で、いろいろ音楽の遊びがあつたり、催馬楽さいばらなどを謡うて遊ぶのであります。後世、豊楽院が荒廃して、清暑堂の建物がなくなつて、他の殿舎で神楽をする時も、やはり清暑堂神楽と称したのであります。

(14)豊明節会 次の日午の日が、いよいよ豊明節会であります。豊明とは宴会の事で、古くは宴会、豊楽の字を直ちに「トヨノアカリ」とよんだので、大嘗新嘗の後には、必ず此の宴会があつたのです。但し辰巳両日にも宴会があるけれども、これは大嘗祭の中であるから、更に此の宴会を行はせらるゝのであります。此の節会は、一層華やかで、悠紀主基の国司、及び群臣を会して宴を賜ひ、兼ねて両国司、其の他の叙位式を行ふ儀であります。

此の日は悠紀主基の御帳を徹し、殿前に舞台を構へるのである。先づ清暑堂より高御座に渡御あらせられて、叙位を行はる。次に吉野国栖が歌笛を奏して御贄を献じ、伴佐伯両氏の人が、久米舞を奏する。久米舞は神武天皇が中州を平定せられた時に、大和の宇陀と云ふ処で、兄猾えうかしを征伐なされた。其の時に陛下は非常に御満悦で、長篇の歌を御詠みになつた。其御製に依つて舞が出来て居る。それを久米舞といふ。二十人二列になつて御製を奏するのです。

次が吉志舞きしまひである。神功皇后が三韓征伐をなされて、凱旋せられた時が、丁度新嘗祭に当る。そこで、安部氏の先祖が吉例に依つて舞楽を奏した。それを吉志舞〇〇〇と云ふ。是れは舞人二十人、楽人二十人で行ふのです。次に両国司が舞人、舞女を率ゐて風俗舞〇〇〇を奏す。それから五節〇〇の舞〇〇があるのです。五節の舞は、年々行はせられる新嘗祭の時にもあります。五節とは、左伝に見えて居る語で、遅速本末中声の五つであります。これをば天武天皇が、吉野で琴を弾じてゐらせられた時、神女が曲に応じて舞ひ、袖を挙ぐる事が五変であつたから五節といふとの説があります。五人の舞姫が、五たび袖を翻して舞ふだけのことでありますが、其の支度が華美である。華美であるばかりでなく、舞姫に附いて居る者が非常にやかましいのです。

舞姫は、親王大臣以下国司などからも出すのでありまして、其れに介添がある。舞姫一人に傅人かしづきびとが八人、童女が二人、それから下仕しもづかへが四人、樋洗ひすまし一人、上雑仕うへざふし二人、其のほかまだいろいろ附きます。それであるから非常に華美を競ひます。是れは卯の日の御祭りの前から、ちやんと仕度が出来て、前々日丑の日に、宮中に御召になつて、豫め其の舞を御覧になるのです。其の次の日には、殿上の淵酔えんすいというて、殿上人などが酒を飲んで、乱舞して愉快に楽しむのである。さうして御祭の当日、即ち卯の日の昼の中に童女下仕を清涼殿に召して、其の服装を御覧になる。これを童御覧〇〇〇と申します。

此五節の舞が済みまして後は、治部ぢぶ雅楽の楽人が楽を奏するとか、或は神服女四人が大和舞を奏するといふ風で、此の日には勅語があります。大嘗祭の勅語は此の時だけです。つまり御祭のあとで御下がりを頂戴する。それを直会〇〇と云ふ。楽しく聞召したと云ふことの勅語であつて、公卿以上にそれぞれ賜はり物がある。それから十一月の晦に更に又朱雀門で解斎〇〇大祓〇〇をする。是れで大嘗祭の大体が完結するのであります。

(15)明治の大嘗祭 それで明治天皇の即位礼は、従前のとかはつて居りますから、大嘗祭の方はどうであるかといふに、あまり大なる相違はないのであります。其の要点をあげて見ますと、先刻も御話した役員も、名前などが違ふだけであつて、たゞ大嘗祭は従来京都で行はせられたのであるのを、明治には、特に東京で行はせられたのであります。されば悠紀主基が従前と違つて京都附近でない。悠紀は安房の国、主基は甲斐国である。又東京で行はせらるゝに就いては、孝明天皇の月輪陵に特に御奉告なされたのであります。氷川神社、八神殿皇霊殿にも御奉告になり、官国弊社にも奉幣せられたのである。さう云ふ点が少し違つて居るだけであります。

それで外国の公使に宴を賜はつたので、それは白酒黒酒の日本流の御馳走であります。尤も奏楽もあつたのだが、これは日本風でなく洋風の楽でありました。其の時には、副島外務卿が大嘗祭の御趣意を外国人に向つて演説した。伊太利イタリアから特に派遣された公使が祝辞を述べた。日本に来て居る各国の公使では、和蘭オランダの公使が祝辞を述べる。または元の開成学校、即ち大学に於いて、雇教師となつて居る外国人にも宴を賜はつたのであります。兎に角、明治天皇の大嘗祭は、さう云ふ点が餘程違つて居ります。

此の大嘗祭の意義に就いては、前にも述べました如く、天孫降臨の際、天照大神が、天孫に供饌の料とし、国民の食料として、御授けになりました斎場の稲穂の成熟した初穂を以て、吉例により御代始に当りて、天照大神、及び天神地祇を御招請になつて、御親ら御饗応になり、御自分にも御相伴なさるのであります。即ち御先祖から賜はつた稲を播種して得た初穂で、先祖を饗するといふ意でありますから、報本はうほん反始はんしで、祖先を敬する意であります。これは、朝廷の上ばかりではない。国民の食料としても賜はつたものですから、前にも述べた如く、古代にては、民間にても各自新嘗をしたものであります。それが後には民間の新嘗はすたつて、朝廷の新嘗のみとなり、殊に御代の始に盛大なる大嘗祭を御執行になるのは、国民に代はりて、御親らなさるのであらうかと考へられます。

それ程の目出度い御儀式でありますから、新穀を作つて、御供物を献上した所の国司を初め、一同面白く楽しむと云ふやうな訳で、費用も構はずに、所謂御祭騒ぎをしたのでございます。それであるから朝廷でも、悠紀主基の国に対しては、餘程御手厚いことでありまして、殊に斎田にあてられました土地に対しては、つまり新穀に対する料として、其時分の租税を以て代償を御支辨になるのみならず、所謂庸調を御免じになる。元明天皇の御代にては、悠紀主基の郡司以下国人男女千八百五十二人に対して、位階を賜はつたと云ふ事もありますし、兎に角卜定になつた所の郡は、非常な名誉としたのであります。又奈良朝にては、特に明経、明法、文章、音、算、医、針、陰陽、天文、暦等の博士及び精勤のもの、殖産家、工藝家、武人等あらゆる方面の優れた人々に、夫々それぞれ恩賜のあつた事が、続日本紀にも見えて居ります。

実に上下一致の御祭であつて、たゞ宮中のみの御祭でないと云ふことは、歴史を見ても分ります。又是れはたゞ新穀を神に供すると云ふばかりでなくして、一方では、産業の奨励と云ふ意味も多少含んで居ると思はれますが、これは、先刻も御話致しました様に、種卸しから定めるのではないのです。群と云ふものは定めるけれども、何処の田と云ふことは、初から定めるのではないから、卜定された郡の者は、競争で稲を作らなければならないのであります。つまり出来の良い所を択ぶと云ふことであるから、自然と競争になるのです。それが即ち産業奨励といふ意味に自然となることであらうと思ひます。

御即位礼大嘗祭の沿革は、これで終りまするが、何分太古以来、御代毎に必ず行はせらるゝ大礼でありますから、なかなか数時間の講演では尽くされない。これは其の大体に留まるのであります。要するに御即位の礼は、御登極あらせられた事を親しく天神地祇に御奉告になり、且つ親しく臣民に御告になる大礼で、仁政を施して天下を治めるといふ叡旨を御示しになるので、大嘗祭は、報本反始で、御祖先を崇敬なさる御主旨でありますが、一は産業奨励の意味もこもつて居るのであらうと思ひます。(大正三年三月講演同四年九月国学院雑誌廿一巻九号所載)


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

2019年11月12日火曜日

大嘗祭(和田英松)――四、大嘗祭の儀式②

四、大嘗祭の儀式②


(5)奉幣 次に諸社の奉幣は、八月下旬に伊勢に奉幣使を派遣する。五畿七道の祈年祭に与かる所の各神社へも奉幣する。更に十一月に至りまして、また伊勢には特別に由の〇〇奉幣〇〇と申して御奉告の奉幣があります。一条天皇以来は、石清水、賀茂にも由の奉幣があつたのです。

(6)大祓及荒見河祓 それから大祓をするのでありますが、最も重大なる御祭典を執行せられるのであるから穢があつてはならぬ。天下を浄めなければならない。昔は大祓と云ふことを非常に利用して、穢悪あいあく祓除ばつぢよしたのであります。今申した斎田なども、御決定になつてからは、必ず其の土地で大祓をするのである。それで一般に浄めると云ふので、大祓の使を左右京及び五畿七道に派遣せられるのです。地方は八月初旬に一度大祓するのみでありますが、左右京五畿内、近江、伊勢は、同月下旬にも大祓使を出すのである。殊に在京諸司は八九十の三箇月は、月末毎に大祓の式を行ふ。浄めた上に一層浄めると云ふ訳でございます。別して祭典に与かる所の人々検校行事以下の輩は、紙屋川に行つて御禊の祓をする。九月の晦にするので、これを荒見川〇〇〇の祓〇〇と申します。

(7)御禊 此の如くすでに諸国、京畿及び官省諸司の官吏は、式典に関係する人々まで祓をするのであるが、天皇もまた十月下旬、みづから河原に出でゝ、御禊の祓を行はせられるのであります。之れを豊御禊〇〇〇とも河原〇〇の禊〇〇とも云ひ、また御禊〇〇とも申します。淳和天皇の御代までは、葛野川、佐比川、及び大津などで場所が一定して居らぬが、仁明天皇以来、賀茂川に定まつたのであります。

其の時には皇太子以下百官悉く供奉するのであるから非常な御行列です。節旗〇〇と云ふ旗を押立てゝ行く。是れは大臣大将の人の旗です。之を大カシラ〇〇〇〇とも申しまして、それに八咫烏が附いて居る。形は今遺つて居りませぬが、其の旗も押立てゝ行く。行列の前後に供奉する者は騎馬でありますが、馬具でも装束でも非常に華美を競ふと云ふことであります。女官も多人数は車に乗つて御供をする。車の後の方に簾が下がつて居つて、其処へ袖口を出す。それが非常に綺麗である。後世の所謂十二単で、いろいろ其の季節に相当した色の袖口を出す。さう云ふ有様であるから、市民がみな拝観に出る。一つのお祭として此の御禊と云ふことを、京都市民は非常に楽みにして居る。道の傍らに桟敷を拵へたり、或は物見車に乗つて拝観する。

河原には百子帳〇〇〇と云ふものが出来ます。御帳の四方に帷子を懸けて、前後を開いて出入する様に出来て居ります。陛下が着御あらせられると、御手水を御遣ひになつて、其処で御禊を行はせられる。御禊の御式が済むと、其の附近の神社に奉幣がある。其の外いろいろな御式がありますが、大体だけに留めて置きます。

(8)斎戒 大祓御禊がすめば、清浄になつたのであるが、祭典の結了するまで清浄を持続する為に斎戒するのであります。十月の下旬から十一月の末まで一箇月の間は散斎あらいみと云ひまして、一般に最も謹慎する。それから三日の間、殊に大嘗祭の当日は、致斎まいみと云つて、是れは一層念を入れて身を浄める。物忌をする。

その忌むべき箇条が延喜式其の他の書に書いてありますが、それを見ると、餘程慎重を加へたことが分ります。例へば病室に行くことが出来ない。其の一箇月の間は、罪人を判決したり、処刑することはならぬ。音楽をすることは出来ぬ。それからいろいろの穢れに触れることは絶対に禁ずる、仏法の事を行うてはならぬ。忌服に掛かる者は一切遠慮する。其の他の穢れとか産の穢れに触れると云ふことを慎む。

言葉も慎まなければならぬ。譬へば、死ぬると云ふことを言つてはならぬ。或は病と云ふことを言つてはならぬ。病は「やすむ」と云ふ、泣くと云ふこともいはれぬ。血と言ふこともいつてはならぬ。血は「あせ」と言ふ。さう云ふ風に言葉までも替言葉を用ひる。坊主と言ふこともいつてはならぬ。それであるから、僧侶が宮中に出入すると云ふ事は勿論梵鐘を撃つ事も禁制である。殊に武家時代には、医者は皆坊主であつたけれど、医者の出入することをとゞめる事はむづかしいから、そこで附髪をしたかつらを被つて出入する。宮中の屛風なども、坊主の描いてあるのは、取除けてしまふか張紙する。

陛下は古今集以下の歌集を御覧なさらない。何となれば、歌集には坊主の詠んだ歌がある。或は哀傷の歌があると云ふので、さう云ふことも禁ずると云ふやうな次第でありまして、慎重に慎重を加へて、一点の穢れのない様にする。祭典の式場に与かる者でも、之を区別して大忌〇〇小忌〇〇としてある。小忌と云ふ方は最も慎むのです。是れは小忌衣と云つて肩衣の様なものを着る。大忌と云ふ方は、其れよりも少し軽い。小忌は大嘗宮までも入ることが出来るが、大忌は其処までは行かれない。

(9)習礼 神饌を供せらるゝ儀の御練習であります。此のほか御調度御覧は、御挿頭花かざしばな、和琴、屛風等の御調度を御座所に於いて、天覧に供する儀であります。

これで祭日前に於ける、いろいろの御儀式は終つたのであります。これから御儀式のことを述べる筈ですが、其の前に順序として、大嘗宮の事を述べて置きます。

(10)大嘗宮 祭典を御執行になります大嘗宮は、大極殿と紫宸殿とにては、各殿舎の配置が変つて居ります。先づ大極殿にては、南庭なる龍尾道の前に大嘗宮が出来るのでありますが、大凡う云ふ形(左の第一図)でございます。


廻立殿は、悠紀主基殿に渡御の際、御沐浴ありて、祭服を着御あらせらるゝ所であります。膳屋は神饌料理の所で、面積が東西廿一丈、南北十五丈で、外部は垣を繞らし、内の隔ては屛籬で、四方に小門があります。建物は皆丸木を用ひ、屋根は青草で葺き、黒葛を以て結び付けるので釘は用ひない。所謂古式で、全く神代の遺風に倣ふのです。用材も吟味して、八月上旬之れを卜定し、十月上旬伐木して京都に運ぶ。十一月上旬祭日より七日前に、鄭重なる地鎮祭を行ひ、直ちに起工して五日の内に竣成するのであります。

中世以降、大極殿焼亡して再造もなく、其の旧趾で行はれたのであるが、江戸時代に大嘗祭を復興せられた頃は、其の旧趾も畑になつて、肥料などをして不潔であるから、とても行ふことが出来なかつた。そこで、紫宸殿の南庭で行はせられたが、場処が狭い。紫宸殿の前には古式の通りに建て並べて造ることが出来ませぬ。そこで紫宸殿から廊下を造つて、廻立殿を東に、膳屋を西に移したのである。(右の第二図)殊に紫宸殿は節会にも使用せらるゝのであるから、親祭がすむと大急ぎで破壊し、たゞちに節会の儀を行はせられたのであります。


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)





2019年11月11日月曜日

大嘗祭(和田英松)――四、大嘗祭の儀式①

四、大嘗祭の儀式①


次に御儀式に就いてお話致しまするが、れは餘り込入こみいつて居りますから、大体を述べるのであります。さても大嘗祭を行はせられますには、祭日より数ヶ月も前から、それに附帯した儀式なり、準備なりで、種々の事がございます。先づ其の重なるものを掲げますれば、
国郡卜定
検校行事定
大祓使 五畿七道  八月上旬
由加物使 河内以下五ヶ国 八月上旬
奉幣使 伊勢神宮以下五畿七道諸社 八月下旬
抜穂使  八月下旬
神服使  九月上旬
荒見河祓  九月下旬
御禊  十月下旬
由奉幣  十一月上旬
習礼、御調度御覧
これをば、一々説明する積りですが、都合によつて合叙致すのもありますから、必ずしも此の順序を追うては居りません。

(1)祭日 大嘗祭を行はせらるゝ月日は、奈良朝以前より、十一月の中の卯の日、若くは下の卯の日に定まつて居たやうでありますが、中には称徳天皇の時は酉の日で、後桜町天皇の時は上の卯の日であつた。いづれも女帝の時であるから、何か止むを得ない御差支があつた故と思はれます。また後土御門天皇の時は、十二月に行はせられたのですから、最も異例であります。これは触穢のために十一月に挙行する事が出来なかつたのである。且つ其の頃両斯波両畠山の葛藤についで、細川山名が兵端を開かんとして、物情恟々きようきようで、翌年は所謂応仁元年で、大乱となつた程の有様であるから、延期する事が出来ないのであります。

そこで種々評議の上、十二月行うた例は、天武天皇の御代で、最も佳例であるといふ一条兼良かねら、日野勝光かつみつ等の意見によつて、十二月に行ふ事になつたのであります。併し天武天皇の大嘗祭を十二月としたのは、日本紀に「十二月丙戌、侍奉大嘗中臣忌部及神官人等、並播磨丹波二国郡司以下人夫等悉賜禄」とあるによつたものでありますが、これは大嘗祭、奉仕の人々に、禄物を下された事を書いたもので、大嘗祭のあつたのは、それより以前であります。日本紀には其の記事が缺けて居りますが、扶桑略記には十一月としてあります。之れを佳例として引証したのは、日本紀の文を読み誤つたものでありませう。

それで、祭日は十一月中下の卯の日に定まつて居るが、践祚のあつた年には必ず行はるゝかといふに、決してさうばかりではない。貞観儀式、延喜式などの規定によると、七月以前に即位式を行はれたならば、其の年の中に行はれる、八月以後ならば、翌年に至つて行ふといふことになつて居ります。奈良朝にても、大凡おほよそ此の範囲で、唯淳仁天皇が、八月御即位式を行はせられて、其の年に大嘗祭を行はせられたのみであります。平安朝にては、後白河天皇、後伏見天皇が、十月に即位して、十一月に大嘗祭を行はせられたのが、異例でありますが、これらは、皆事情のあつた事と思ひます。また諒闇ならば延期され、諒闇が続けば再延期になるのでありますが、其の他種々の事情によつて、延期になつた例もあります。

(2)国郡卜定 御祭典の趣意は前にも述べました如く、新穀を以て神を御祭りになると云ふことでありますから、兎に角主眼たるものは新穀である。それが為めに斎田さいでんと云ふものが必要でありますが、此の斎田の御決定と云ふ事が、昔と今日とは多少相違がある様でございます。これを国郡〇〇の卜定と云ひまして、大嘗祭の中では最も重要なもので、何よりも最初に執り行ふのであります。卜定の月は別に定まつて居りません。御即位の遅速にもよりますが、四月の例が多く、後には四月下旬以後、殊に廿八日が多いやうであります。また二月三月の例もあり、四月以後の例もあるが、鳥羽、後鳥羽、後伏見、東山、中御門の五代は八月で、後白河天皇の時は九月でありました。九月では、祭日までの間が僅に二ヶ月であります。

卜定とは、神祇官の人が立会で亀卜に依つて定めるのである。波々迦はゝかの木を燃やして亀の甲を灼く。亀は新しいのはいかぬさうです。古い亀の方が膏気あぶらけがなくつて宜いと云ふ。それを将棊の駒の形に切つて灼いて、其の裂目に依つて定めるのであります。うして先づ国郡を悠紀ゆき主基すきふたつに分けて定める。これは前申しました天照大神が、狭田さなだ長田ながたの両つの御田に稲を御作りになつたと云ふことが、其の起源のやうであります。

そもそも悠紀主基とは如何なる意でありますか、いろいろ説がございまして一定して居りません。日本紀に悠紀を斎忌ゆき、主基をつぎと記してありますので、平安朝頃から、近世までの諸書はこれに従つて悠紀を神斎とし、主基を次と解説致しまして、殆ど異論がなかつたやうです。然るに、独り本居宣長が、次は借字で「すゝぎ」の意であると解釈せられたのであります。此の説は穏当のやうですから、普く用ひられて、私も一時は之れに従うて居りましたが、熟考致しまするに、日本紀の次をば字義によつたのではなく借字とせば、斎忌もまた、字義によつたのではなく、借字としなければならぬ。日本紀の文字を離れての解釈ならば格別ですが、日本紀によるとせば、いづれも同じやうに見なければ穏当でない。斎忌の借字でない事は明でありますから、主基も亦、旧説の如く、次と解釈しなければならぬ事と思ひます。

されど、悠紀といひ主基と申しましても、別に甲乙のあるのではなく、唯御儀式の順序を示すに止まるのみであらうと思ひます。この悠紀主基の卜定は今日新嘗祭にも矢張りあるさうです。昔も新嘗祭には、特に国郡を卜定したと云ふことであります。併し新嘗祭の方は歴史に詳しいことが載つて居りませぬから、明細なことは分りませぬ。

そこで国郡を卜定せられた事の、ものに見えて居りまするのは、天武天皇の御代からでありますが、之を調べて見ますると、大要京都を中心として、東西に定まつて居る様であります。東の方は、東海道では遠江まで、東山道では美濃あたりまで。西の方は、山陽道では備中まで、山陰道は因幡までの範囲らしい。でありますから、大凡の処は定まつて居るのです。

唯〻変はつて居るのは、北陸道の越前が這入つて居る。さうして必しも悠紀主基と云ふものが一定して居るのではない。或は此の御代には悠紀になり、次の御代には主基になつたものがあります。また文武天皇の如く、悠紀主基とも東方の美濃尾張であつたり、聖武天皇の如く、西方の播磨備前であつた例もありますが、大体に於て、悠紀に択ばれたのは東方が多く、主基に択ばれたのは西方が多いやうであります。

それが後には、大凡悠紀主基が定まつて、平安朝の宇多天皇以来と云ふものは、悠紀は近江と定まつて居つた。主基の方は村上天皇以外には丹波と備中と交替であつたこともあり、丹波が四代もしくは二代続いたこともあり、備中ばかり二三代も続いたこともあつた。然るに後花園天皇以来は、悠紀は近江、主基は丹波と云ふことに定まつたのである。それ故国郡の卜定と申しましても、後には郡だけの卜定になつたのであります。近江なり、丹波なりの国は定まつて居ますから、唯〻郡を択むことになつて居たのであります。なほ古来卜定された国々を列挙すれば、
悠紀  伊勢、尾張、三河、遠江、近江、美濃、越前、丹波、因幡、播磨、甲斐、
主基  美濃、越前、丹波、但馬、因幡、美作、備前、備中、安房、
等であります。

それから斎田の選定は、抜穂使〇〇〇と云ふのを派遣されて定まるのである。但し種おろしの前に決定するのではなく、穂の出るまで待つのです。けだし最も出来のよいのを選ばれたもので、これが大に農業の奨励となつたものと考へられます。抜穂使ぬきほしと云ふのは、稲の穂を取りに行くのでありまして、八月の下旬、若くは九月十月頃に神祇官の官吏を抜穂使に卜定して、其の地方に派遣する。れは悠紀と主基と別々に行つたのです。明治天皇の時には一人で両国へ行つたのです。さうして稲穂を持つて帰るのですから、兎に角一ヶ月ばかりは、其の地方に滞在しなければならない。

まづ抜穂使が斎郡に到着すると、国司郡司などが立会つて大祓をなし、御饌、及び斎院の土地などを卜定するのであります。其の土地には、榊に木綿をかけ之を四隅に建てゝ、其の中に八神殿はつしんでん稲実殿いなのみでん以下の屋舎を造るのである。八神殿には、御膳の事などに預り給ふ神八座を奉祀するのであります。稲実殿には御料の稲穂を置くのです。其の外新穀を穂から籾にし、それをいて神饌にする迄のことをするものゝ宿泊する処や、また白酒しろき黒酒くろきと云ふ二種の酒を造る者とか、いろいろ雑役人の宿泊する処や、其の外の屋舎を幾つも建てるのであります。其の神饌の事を奉仕するものや、酒を造る者は勿論、其の他の雑役人なども、凡て其の地方の人を択ぶのですが、殊に白酒黒酒を造る者は、郡司の女を択んだので、之れを酒造児さかつこと申します。



さう云ふ風に、いろいろの建物が出来ます。其建物や雑役其の外にもいろいろの名称がありますが、名称は略しまして、兎に角それ等の人々が其の処に宿泊して決して外に出ない。清浄潔白にして、御用を勤めるのであります。それで斎田は六反程でありまして、之れを大田〇〇と称し、其の稲穂を撰子稲〇〇〇と申します。田の四隅に矢張り木綿をかけた榊を立てゝ、清浄にして人夫四人に守らせて置きます。

斯様かやうに致して一ヶ月程経ちまして稲穂が成熟致しますと、抜穂使が国郡司其の他の人々を率ゐて、先づ水辺で祓を行ひ、それから斎田に至り稲を抜き取つて、斎院といふ建物で乾かす、最初に抜き取つた四束をば、供御飯に擬して別に置き、其の他を黒白酒の料とするのであります。九月下旬に其れをば持つて京都へ上ぼる。其の時は、国司を初め、前に述べました酒を造る者まで、皆同列で上京して、斎場所に運ぶのです。

(3)由加物ゆかもの及び神服しんぷく使 此の如く神饌、神酒の料稲は、斎田よりとられるのですが、それにつぐべき供物、祭器類は、由加物〇〇〇と申して、河内、和泉、尾張、三河、備前、紀伊、淡路、阿波等に調達を命ぜられ、監造の為に発遣せらるゝ官吏を由加物使〇〇〇〇と申します。また神服の料糸の調達、及び服長はとりのをさ織女おりめ等召喚の為に、三河国に発遣せらるゝのを、神服使〇〇〇と申します。神服を織る服長、織女等は、神服部の祖神を祭れる、同国神服社(赤日子あかひこ神社)の神戸から卜定するのであります。

(4)職員 次に大嘗祭執行に就いては、即位の礼と同じく、今日で申す大礼使の如き、職員を臨時に置かれるので、之をば、検校けんげう行事ぎやうじと申します。

検校〇〇、定員三人で、二人は大中納言、一人は参議を以て補す。大嘗祭に於て、一切の事を管掌し、違例違式を監査する職で、即ち大礼使長官といふべきものであります。

行事〇〇、専ら事務を取り扱ふもので、悠紀主基に別れて居る。太政官、及び諸司から補したので、四位一人、五位三人は辨官以下を補し、六位四人は諸史判官以上を補し、七位五人は主典以下を補すので、ほかに官掌、使丁、直丁が各一人あります。これは悠紀主基とも同じで、いづれも行事所を設け、其の中に小忌所〇〇〇斎場所〇〇〇出納所〇〇〇楽所〇〇絵所〇〇風俗所〇〇〇和舞所〇〇〇女工所〇〇〇大炊所〇〇〇を置き、各所に預を補し、才伎藝術の人を撰びて、それぞれ大嘗祭の準備をするのであります。

この中の斎場所は抜穂、神服、由加物以下神御の料物、祭祀の調度等を運んで、調理する所で、宮城の北野を卜定して、設けるのです。其内に、内院、外院、服院、其他の屋舎があります。内院は悠紀主基に別かれて、各中に八神を祀る神座殿、稲実殿、白酒殿、黒酒殿などがある。この斎場で神供の料物及び祭祀に関する調度等を調理設備するのです。室町時代には、幕府からも、評定衆一人を大嘗会〇〇〇惣奉行〇〇〇とし、右筆二人を奉行〇〇として、悠紀主基の事を分掌せしめたのであります。




(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

2019年11月10日日曜日

大嘗祭(和田英松)――三、大嘗祭の起原沿革②

三、大嘗祭の起原沿革②


南北合一以後も、矢張り龍尾道前の旧趾で大嘗祭を行はせられたのであるが、応仁以後は、御承知の通り戦乱打続きまして、殊に京洛の地は、ときの声矢さけびの音絶ゆる事なく、修羅の巷となつたのであります。それ故、朝廷の御儀式の中廃絶となつたのが多く、後柏原天皇は、践祚あらせられてから廿餘年も御即位式を行はせられなかつたのであります。其の位であるから、大嘗祭は遂に行はれずして終はつた。

其の次の後奈良天皇、正親町天皇も、皆御即位式も延びて大嘗祭も行はれなかつたのです。それが後陽成天皇の時には、豊太閤秀吉が天下を平定して、政権を取るやうになりましたので、御即位式は一ヶ月経たぬ内に行はせられたけれども、大嘗祭は行ふに至らなかつた。其の次の後水尾天皇が践祚あらせられたのは、丁度徳川家康が上洛して居つた時(慶長十六年)でありますが、此の時も、御即位式は非常に早かつたのです。平安朝にも例のない程早く行はせられたが、大嘗祭は矢張り行はせられなかつたのであります。

かくの如く、秀吉家康が政柄を執つて居た時は、どんな事でも出来る時代でありましたけれども、此の大切なる大嘗祭は、行ふことが出来なかつた。殊に後水尾天皇の次の明正天皇は二代将軍秀忠のむすめ東福門院の御腹でゐらせられ、御外祖なる秀忠が未だ存生中であつたけれども、大嘗祭を行はせられなかつたのであります。これは再興の議はあつても、女帝でゐらせられたので行はれなかつたのでありませうが、徴すべきものもございませんから、不明であります。さればその後、後光明、後西院、霊元の三代も、御即位式のみでありました。大嘗祭ばかりでない。新嘗祭が既に応仁以前からして廃せられて居ましたけれど、それさへも復興することが出来なかつた。

然るに霊元天皇が、東山天皇に御譲位になる以前に所司代を以て、種々幕府に御交渉があつた。幕府の方では、費用が足らないと云ふ理由を以て、御断りをした。所が霊元天皇と云ふ御方は、非常に英明な御方であり、殊に一旦勅命のあつたことは、決して改めると云ふことのない御方であります。此の御方が、是非此の古式をば復興したいと云ふ思召で、御交渉になりましたが、どうも関東の方では聞かない。公家衆の中にも、反対があつた。と云ふのは、公家衆の方は理由がある。古式のまゝを復興するならば宜いが、なまなかに簡略の御儀式と云ふことはいけないと云ふのであります。

皇族方の中でも堯恕法げうじよほふ親王しんわうなどは、不賛成の方であつた。其の御意見が御日記に載せてあります。即ち今度の大嘗祭は、大礼を備へて神宮を祭る儀であるが、此の度は諸事省略して十分の一にあたらず、略は非礼で、非礼は神が受けない、神が受けなければ福を致す事なく、禍を致すべきである。且つ衆の心は即ち神慮である。衆の悦でないものは、神も悦ばぬのは明である。此の如き大礼は省略せずして行ふべきで、行ひ難きは行はざるを可とす。強ひて行ふは、衆を労し、神を欺くのである、と云ふ御議論であつた。

それにも構はず、関東からは費用を仰がない、即位式の費用を割いて、大嘗祭を行ふ事に決定せられた。国郡を卜定し、悠紀ゆき主基すきを定められてから、費用の不足を危んで御中止になると云ふ噂まであつたけれども、それにも関せずして、行はせられた。尤も御即位の費用として、七千二百こく程幕府から支出する訳である。其の中から二千七百石と、銀廿貫とを割いて行はせられた。それ故実際は無理な話であるのを、強ひて御再興になると云ふことは、最も神慮に応じ、弥〻いよいよ公武長久の基ともなるといふ叡慮でありました。

さういふ訳でありまして、大嘗祭は、三日に亘る御儀式であるけれども、それを一日に詰めて行はせられた。殊に大嘗宮を建つべき龍尾道前の旧趾は畑になつて居りますから、紫宸殿前に大嘗宮を建てたのです。けれども節会はやはり紫宸殿で行ふのでありますから、夜明の頃御親祭式がすむと、たゞちに取りこぼちて、其のあとをば、其の日行はるゝ節会の式場とせられたのであります。兎に角、霊元天皇の御譲位には、大嘗祭の復興と云ふことが、餘程籠つて居るのではないかと思ひます。それから、次の中御門天皇の御代に至つて、一旦起された所の大嘗祭をば中止されました。其の理由は判明致して居りませぬ。其の時は霊元天皇もまだ御在世中でゐらせられましたから、如何ばかりか遺憾に思召したことであらうと拝察するのであります。

それから享保の末(八代将軍吉宗の頃)に至りまして、霊元法皇は八十歳近くで崩御になり、中御門天皇も崩御あらせられて、桜町天皇が践祚あらせられた。其の時に大嘗祭復興の議が起つて、いろいろ宮中で御相談があつた。尤も東山天皇の時にも、関白一条兼輝かねてると云ふ人が餘程尽力されたらしい。それでありますから、此の人は一方からは非常に恨みを受けて居られたやうでありますが、兼輝の子の兼香かねよしが、桜町天皇の時にも骨を折り、其の外の公卿も悉く同意して、幕府に対して大嘗祭の復興を迫つた。

なかなか朝廷でも幕府に対する一つの政略も考へて居られた様ですが、前の東山天皇の時の事情もありますので、そこで三つの要件を提出された。其の三つの要件と云ふのは、(一)宮中の御儀式の中で、最も大切なる所の大嘗祭、(二)年々行はせられる新嘗祭、(三)六月十一日と十二月十一日に行はせられる月次祭後の神今食、此の三つの復興を要求せられた。神今食と云ふのは前にも述べました如く、新嘗祭、大嘗祭と性質がく似て居る御儀式であります。そこで、この三つを要求されたので、幕府の方でも、いろいろ心配した。殊に所司代の土岐とき丹後守頼藝よりあきと云ふ人が、なかなか骨を折つたらしい。丁度八代将軍吉宗の時でありますが、頼藝が関東に下つて、いろいろ復興の相談を持出した。さうして幕府では、三つの復興は誠に困ると云ふことであつて、大嘗祭だけの復興を承知した。

尤も新嘗祭は、東山天皇の御代大嘗祭を行はせられる時に、型ばかりに中興されたのであります。れは京都の吉田家に、神祇官の八神殿がありますから、吉田家に御委託になつて、吉田家で御祭をすると云ふことであつた。それをば尚ほ今度は大きくしよう、宮中へ移して昔の通りにしようと云ふことでありましたのです。けれども、幕府では悉く三つを復興する事は困ると云つて、大嘗祭だけを承知した。さうして幕府で費用を出すことになつた。但し新嘗祭は、其翌年からといふ約束でありましたが、一年延期して元文五年から再興したのである。徳川氏の最も盛である八代将軍の時であるにかゝはらず、速に事の運んだのは皇室の紀綱が段々復興する機運に向つた時であらうと思ひます。尚一方から考へますと、幕府の方にも、此の古式を復興したいと云ふ考をつてゐた人があつたものだらうと思ひます。

それはほかではありませぬが、八代将軍吉宗は、もとより聡明な人である上に、吉宗の子に田安たやす宗武むねたけと云ふ人があつて、此の人が、非常に国典の研究に趣味を有つて居りまして、荷田かだの春満あづままろの子の在満ありまろを召抱へて、国史国文の研究をしたのである。在満は後に歌の論に就いて、意見が合はないで引込みましたが、其の次には賀茂かもの真淵まぶちが出た。さう云ふ訳でありましたから、宗武の国典の研究には非常に趣味を有つて居つた。随つて大嘗祭の如何なるものであるかと云ふことは、無論知つて居つたでありませうし、殊に在満が附いて居る時分のことであるから、之れによつて考へて見ますると、在満が裏面から宗武に勧め、宗武が親の吉宗に勧めたと云ふやうな事があつたもので、思ひのほかに復興の議が容易たやすく成立つたものであらうと想像せられます。

是れは別に其の証拠はありませぬが、考へて見ると、さう云ふやうに思はれるのです。そこで、東山天皇の時には、節会が一日であつたのを復興して、三日としたのであります。さうして幕府からは、在満と画師の住吉すみよし広行ひろゆきと云ふ人が上洛して、御儀式を拝観する。それですから、餘程細かい処までも立入つて拝観もし、調べもしたのであります。在満が其の時分に書いた「大嘗会具釈」と云ふ書物が九巻ほどありますが、なかなか能く調べて書いてある。又其の時の御儀式の模様を広行が画いて幕府に出した。

所で在満の門人が沢山ありまして、其れ等が御儀式のことを拝聴したいと云ふ希望でありますから、在満が門人に御儀式の講話をしたのであります。すると門人が是非これを出版したいと云ふので、そこで在満が大要を書いて、中に画などを挿んで出版した。之れを「大嘗会便蒙」と申します。所が当時の公卿衆が其の書物を見て、いろいろ評議があつた。どうも宮中の神祕に属することを遠慮なく書いて出版すると云ふことは、甚だ宜しくないと、まあ今日で言へば、出版条例に触れると云ふやうな事で、非常に事が面倒になつて、幕府に掛合はれました。そこで幕府でも申訳がないと云ふので、在満に閉居を命じた。

在満は門人の懇請がもだし難いのと、唯々御儀式の尊いことを一般に知らせようと云ふので、出版したのでありませうが、時勢が今とは違ひますから、其れが罪になつた。是れは朝廷のことばかりではない。幕府の内部の餘り差支ないことを書いても、それが遠島とか、又は重い罪に処せられる。然るに朝廷のことであるから、閉居で事がすだのです。

此の如く、桜町天皇の時に再び復興になりまして以来、孝明天皇まで、其の御儀式に多少の相違はございませうが、先づ古式に復されたのでございます。明治天皇の大嘗祭は、明治四年十一月に行はせられたので、すでに東京に遷都の後でありましたから、宮城内吹上御苑にて、御挙行になつたのであります。

さても此の御儀式には、世職世業であつた古式のまゝの役名の人々が、奉仕する事となつて居たのでありますが、後には其の子孫が断絶して居ますから、代理の者が出る事になつて居たのである。明治天皇の時には、御即位式の方もいろいろ改訂されましたが、大嘗祭の方も、古い職名で今日伝はつてゐないのはいかぬからと云ふので、一切改められたのであります。それで明治の大嘗祭を行はせられたのでありますが、併し御式は矢張り昔の御式に拠られたのであります。

大正の大嘗祭の御儀式も、矢張り古式に拠られるのでありますが、唯〻昔は御親式は天皇陛下だけで、皇太子を始め、皇族方、以下臣僚が拝礼したので、皇后陛下は御加はりにならなかつた。それが登極令に依りますと、皇后陛下も御参列になる。其処が古今の異同であります。是れが大嘗祭に関する沿革の大要でございます。


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

2019年11月9日土曜日

大嘗祭(和田英松)――三、大嘗祭の起原沿革①

三、大嘗祭の起原沿革①


かくの如く新嘗は上下ともに行はれたものでありますが、朝廷にては、大嘗新嘗と昔から区別があつたものでありますか、日本紀に見えて居る所では、区別があつた様にも思はれぬから、もとは一つで、代始めに行はるゝものも、毎年行はるゝものも、其の儀式にかはりはなかつたものでありませう。

それが区別せられたのは、いつの頃でありませうか、何分古いところの国史は簡略でありますから判明して居りませぬ。天武天皇二年十一月に大嘗祭を行はせられ、五年、六年に新嘗祭を行はせられた事が日本紀に見えて、大嘗新嘗と書きわけて居ります。されば、この頃から区別せられたやうでありますが、あるいはこれより以前から分つて居つたものであるかも知れませぬ。

文武天皇の大宝の制では、神祇令に、「天皇即位総祭天神地祇[1]」と見え、「大嘗者、毎世一年国司行事[2]」と規定してあります。其の頃の御儀式は、いかなる有様でありませうか、別に記したものがありませぬから詳に知れませぬ。但し日本紀、続日本紀、日本後紀に記してある、持統天皇より嵯峨天皇まで、十三代の大嘗祭の記事を見まするに、大同小異でありますから、古式のまゝを行はれたやうに思はれます。但し平城天皇の御代には、大嘗祭の散斎あらいみが三ヶ月であつたのを一ヶ月に改め、また大嘗祭に奉仕する、雑楽伎人に唐物をかざりとしたものがあるので、禁断したのを見ますると、時々改正があつたものと見えます。

1 読み下し。「天皇みくらゐに即きたまはゞ、総て天神地祇を祭れ。」
2 読み下し。「大嘗は世ごとに一年、国司行事せよ。」
ところが嵯峨天皇の御代に、宮中に於ける御儀式を御制定になりまして、弘仁儀式十巻を撰ばれました。此書は、前にも述べました如く、今日伝はつて居りませぬけれど、本朝法家文書目録によつて見ますると、十巻の中巻一から三巻までは、大嘗祭の御儀式が書いてあります。それを以ても、大嘗祭の御儀式の、如何に荘厳であり、御鄭重であつたかと云ふ事を、今日から推察することが出来ます。

それから清和天皇の御代に貞観儀式十巻を制定せられました。これは、今日伝はつて居りまして、れを弘仁儀式の目録と対照致しますると、同じ事であります。殊に大嘗祭の御儀式もやはり三巻でありますから、弘仁儀式と大差はあるまいと思はれますので、それに依つて、弘仁の有様を窺ふことが出来るのであります。但し此の時には、即位式を改定して支那風となし、旧来の即位式をば、大嘗祭の中に参酌附加せられたものと見えますから、大嘗祭の儀式は一層重々しくなつたものと考へられます。

然るに弘仁儀式御制定の後は、これによつて始めて大嘗祭を行はれたのは、淳和天皇の御代で、弘仁十四年十一月に行はれました。然るに其の頃は、御代がはりしげく、二十年間に大嘗祭が三度行はれ、且つ国事多端人民疲弊して居るといふことで、御大礼も節約する事になつた。特に設くべき行事所などは官衙を用ひ、金銀の類をば一切用ひぬことにせられた。されば費用も悠紀ゆき主基すきで、各正税十万束に定められたけれど、悠紀主基の両国司の懇請によつて、各五万束を加へられたのであります。

貞観式、延喜式によりますと、大嘗祭の料稲は、国別に正税一万束を課することになつて居まして、総計六十餘万束の豫定であつたのです。此の時は三十万束で、半額にも足らぬので済まされたのであるから、大に節約せられたものと見えます。それ故万事が、省略でありましたから、弘仁儀式のまゝを始めて実施したのは、仁明天皇の御代であつたらうと思ひます。

それから貞観儀式の次には、醍醐天皇の御代延喜儀式を撰ばれ、爾来じらい之れによつて行はれたものであります。さりながら、後には祭儀を行はせらるゝ御場所に支障があつて変更された為に、これ等の儀式のまゝを行ふを得ず、それが為に御儀式の上にも、異同を生ずる様になつて、段々略儀となつたのであります。


それで御儀式を行はせらるゝ所は、奈良朝にては、淳仁天皇の御代は乾政官、光仁、桓武両帝は朝堂院てうだうゐんで、弘仁儀式以下も朝堂院内の大極殿前に行ふ事に定まつたのであります。大極殿の前庭中に、一つの仕切があつて、南方が一段低くなつて居る。この仕切をば、龍尾道りゆうびだうと申します。龍尾道の両方に階段があつて、昇降するのであります。此の龍尾道の前に大嘗宮を新造して、其処で御親祭の儀を行はせらるゝことになつて居ります。また祭典後の辰巳両日の節会、及び豊明節会は、朝堂院の西にある豊楽院で行はるゝのであります。されど火災のあつた時や、破壊した時には、儀式を行はせらるゝ場所はどうでありませうか。

清和天皇の御代、朝堂院が焼失致しまして、未だ造営がをはらないので、次の陽成天皇は、豊楽院で行はせられたのであります。豊楽院は朝堂院と同じ大きさで、前庭が広いから、翌日の節会に使用せらるゝ前庭の外、差支なき所に、大嘗宮を建てられたものでありませう。ところが、花山天皇の御代には、豊楽院の正殿なる豊楽殿が破壊して、節会を行ふところがない。それで、大極殿にて節会を行はれたのであります。後三条天皇の御代には、大極殿も、豊楽殿も焼失して、閑院殿を皇居とせられたのでありますから、御即位式は太政官庁で行はれたのでありますが、大嘗祭は、どこで行はせられたのでありませうか。

本朝世紀に、大嘗宮は、龍尾道の前に造り、太政官で、節会を行はせられた事が記してあります。この時、大極殿は焼失して居りますのにもかゝはらず、龍尾道を用ひられたのは、どういふ意味でありませうか。元来大嘗祭を行はるゝ大嘗宮は新造せらるゝのであるから、あり来りの宮殿を使用する必用がない。仮令たとひ大極殿はなくとも、龍尾道の前庭さへ、使用に差支なければよいのである。それで、其の旧趾を用ひられたものであらうと思ひます。併しながら、節会は豊楽殿に、御帳台みちやうだい高御座たかみくらを置かれ、殿中で行はせらるゝ例で、それに代はるべき宮殿でなくば行はれぬから、御即位式に使用せられた太政官の正庁を用ひられたのであります。

平安朝の末にも、朝堂院、豊楽院が焼亡致しましたので、安徳天皇の御代には、御即位式を紫宸殿で行はれましたから、大嘗祭の節会をも紫宸殿で行はせられました。祭典の方は明ではありませんが、多分後三条天皇の例によられて、龍尾道前の旧趾を用ひられたものでありませう。後鳥羽天皇の御代も大嘗宮は同じ事でありますが、紫宸殿は佳例でないといふので、後三条天皇の例によりて、即位式を太政官庁にて行はれましたから、大嘗祭の節会をも太政官庁で行はれました。それが、朝堂院、豊楽院とも、遂に再造するに至らなかつたのでありますから、後々までも、後鳥羽天皇の例によられたものであります。後には、閑院殿や土御門殿などの里内裏さとだいりのみが皇居となり、大内裏だいだいりますます荒廃して、内野うちのと申す如く、野原となつたのであります。其の旧趾に大嘗宮を建てるのでありまして、御祭典は夜分でありますが、皇居との距離も餘程ありますから暗夜には、行幸の際、前行の者が道路を踏み迷うて、難儀した事があつたのであります。

此の如く大礼執行に就いて、必要なる宮殿の再造が出来なかつたのは、庄園の濫置によつて、国用缺乏した為であります。されば、大嘗祭の用途も不足致したので、鳥羽天皇の時には、金七十両銀千六百両の豫算でありましたが、尚銀三百両を要すれど、財源がないので、売官ばいくわん成功じやうごうによつて之を補うたのです。此後はますます用途が不足がちで、或は売官成功により、或は荘園に課税し、後には段銭たんせん段米たんまいというて、田地一たんつき幾らと定めて、米なり銭なりを徴収して、調達せられたものであります。

鎌倉時代以後に於ては、御歴代の中、この御儀式を行はせられなかつたこともある。仲恭天皇は、践祚なされてから、七十餘日で承久の乱が起つて、遂に北条氏の為めに廃せられたのでありますから、御即位式も大嘗祭も行はせられずに終はつた。南北朝にも、後村上天皇は吉野に在らせられたので、御即位式と申しても、型ばかりでありましたから、無論大嘗祭は行はせられなかつたものと推測致されます。北朝方にても、崇光院は大嘗祭を行はれなかつたのである。



(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

2019年11月8日金曜日

大嘗祭(和田英松)――二、新嘗祭の起原

二、新嘗祭の起原


大嘗祭、新嘗祭は、いつの頃から行はれたものであるか、まづ新嘗祭に就いて調べて見ますると、天照大神が始めて、天狭田あまのさなだ、及び長田ながたを植ゑ給ひて、新嘗聞食きこしめし、また天孫降臨の際には、吾高天原に聞食す斎庭ゆにはを吾児にまかせまつると仰せられました事が、日本紀に見えて居ります[1]

1 『日本書紀』巻第二の天孫降臨のくだりの一書あるふみ第二に、《又みことのりしてのたまはく、「吾が高天原たかまのはら所御きこしめ斎庭ゆにはいなのほを以て、亦我がみこまかせまつるべし」とのたまふ。》とある。

ゆにはの穂とは、清浄なる御田にて作り給ひし稲穂であります。即ち天照大神が親ら天狭田長田にて耕種し給ひて、新嘗聞食した稲穂を天孫に御授けになつたのであります。之れは天孫供御の料とせられたのでありますが、また天孫の治め給ふべき国民の食料としても授けられたものでありませう。

それで天孫が之れを植ゑて、初めて新穀を聞食したので、之が新嘗祭の起原であります。それから景行天皇の御代に新嘗祭を行はれた事が、高橋氏文に見え、仁徳天皇、履中天皇以後行はせられた例が日本紀、古事記などに見えて居ります。

新嘗は朝廷ばかりでなく、臣民一般に行うたもので、天稚彦あめのわかひこや、吾田あた鹿葦津姫かしつひめが新嘗をした事が、日本紀神代巻に見え、常陸風土記、万葉集などによると、常陸、下総などに、新嘗のあつた事が見えて居ります。尚ほ皇極天皇元年十一月には、天皇新嘗を聞し召し、皇太子、大臣もまた各自新嘗した事が見えて居りますが、これによつても、上下とも一般に行はれた有様が推し測られます。


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

2019年11月7日木曜日

大嘗祭(和田英松)――一、大嘗祭、新嘗祭、神今食の別

一、大嘗祭、新嘗祭、神今食の別


御即位の礼は、僅に一日で終りますが、大嘗祭の方は、祭典に続いて宴会がありまして、数日に亘つて居ります。それ故、荘厳にして神々しいところや、華美にして面白いところのある御儀式であります。此の御儀式は上つがたのみではなく、下々のものまでも奉仕致し、種々の催しもございまして、実に愉快に楽しく、上下一致で執行せられたものであります。まづ始めに大嘗祭、新嘗祭、神今食の別から述べまして、其の起源変遷等の概略に及び、それから儀式のありさまを御話する積りであります。詳細な事は、到底僅の時間では尽されない、ほんの大要だけをお話致す心得でございます。

大嘗祭は、古く「オホニヘマツリ」とも、「オホンベマツリ」ともよませてありまして天皇陛下が、新穀を天照大神、及び天神地祇に御備へなされ、みづからもまた之を聞食きこしめす御儀式であります。これに嘗の字をあてたのは、礼記の祭儀に、「春禘秋嘗」とあるによつたものと見えます。

全体、天皇陛下が、天照大神、天神地祇に神饌を御備へなされて、親らも聞こし召す御祭典には、二様あります。一は旧穀を以てせらるゝ儀で、之を神今食と書しまして、「ジンゴンジキ」とも「カンイマケ」とも申します。之れは六月十一日、十二月十一日の両度、中和院内の神嘉殿で行はせらるゝのであります。

二は新穀を以てせらるゝ儀で、これには二様あります。一は年々十一月下卯日に神嘉殿で行はせられますので、之を新嘗祭と記して「ニヒナメマツリ」と申します。二は御代の始に十一月下卯の日に、大嘗宮で行はせらる御親祭で、これが即ち大嘗祭であります。神今食は、御祭典の後に、宴会を行はれる事はありませんけれど、大嘗新嘗は行はれるので之を節会と申します。但し、新嘗祭にては、辰の日の豊明節会が一日のみですが、大嘗祭の方は、豊明節会を午の日に行ひ、辰巳の両日にも節会を行はれるのであります。

要するに、大嘗祭は、新嘗祭を大きくしたもので、称徳天皇の詔には「大新嘗」と見えて居ります。また貞観儀式、延喜式などには、践祚大嘗祭と、特に践祚の二字を冠して居ります。また、之れを大嘗会、新嘗会とも申しますが、これは、節会の方から称へたのであります。


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

2019年10月21日月曜日

践祚即位(池辺義象)③譲位

第三章 譲位


譲位とは天皇より、位を皇太子に譲られる礼で、即ち前帝について言ふことば、その譲を受けられた新帝の方からは受禅といふのである。第一章以下述べたやうに、上古は天皇崩御の後、皇太子践祚せられる例であつたから、かゝる詞はもとよりなかつた。然るに後やうやうこの事行はれるに至つて、一は御父子間の礼、一は天下万民に告げられる儀と変つて来たことは前述べた通りである

第一章には主として践祚と即位との別れ来た所以を述べたがこの章には践祚の礼即ち譲位の儀は、いかなるものであるか、又譲位はいつごろから始つたかといふことを叙して見よう。要するにこの三章は、互に聯絡して居るから、読者はその心して見られたい。

史を按ずるに、神武天皇以下二十五代の間は、曾て譲位の御事跡はない。然るに継体天皇御大患に依つて位を、安閑天皇に譲つて、即日崩御になつた。これ事実に於ては安閑天皇は、先帝崩後の践祚であるが、譲位礼の嚆矢である。この後九代をへだてゝ皇極天皇は、御位を孝徳天皇に譲り、持統天皇は、文武天皇に御譲位あり、その後或は御事故或は御疾病等によつて歴朝御譲位を見るやうになつた。中にも聖武天皇のごときは、つとに仏道に御帰依のあまり、未だ御壮齢にて御譲位になり、太政天皇としておはしましたるが、後にはこれに傚はせられ、仏門御信仰のための譲位が、殆ど例のやうになつたのである

受禅の新帝は、直にその御儀を挙げられる事であるが、前述べた通り、此方はいはゞ御内場の礼であるから御即位式のやうに仰〻しい事はない。併しながら、いはゆる神器授受の御式などは此方にあることで、決して軽い御儀ではない。今貞観儀式以下後世の書をも参考して大概を記せば、先づ左のごとくである。

譲位の日時定つて後、警固けいご固関こげんといふ事がある。これは非常を戒めるためで、警固とは六衛の官に司々を固め衛らしめることである。固関こげんとは関所々々を固めることで、中古では三関といつて伊勢の鈴鹿すゞか、近江の逢坂あふさか、美濃の不破ふはの三関を三ヶ国の国司に命じて固めしめることである。

さて是等これらの事がをはり紫宸殿の装飾敷設が成つて、当日天皇は大臣以下を率ゐて出御、高御座に着きたまへば、皇太子、時を図つて進んで殿上の座に着せらる。親王以下座定つて、大臣、宣命大夫をめして宣命を授く。大夫座に進めば、皇太子座を起つて立ちたまふ、大夫宣制二段、群臣再拝す。
按ずるに譲位の宣命は時に臨んで一定せぬ、こゝに「朝野群載」に掲げたるものを挙れば左のごとくである。
現神云々(中略)朕以薄徳天久纂洪緒、是以皇太子多留、某親王万機倍天、令賢者臨四海世志女天、令㆘㆓徳化育万民女牟止念行古止既経多年奴、知人鑑、聖帝之明毛難止勢利止所聞止毛此皇子温恭蘊性、仁孝凝太能毛之久タノモシク於多比之久オタヒシク天奈牟此位授賜、諸衆此状、清直心乎毛知天、此皇子輔導仕奉、天下、又古人有、上多仁波、下苦止奈毛聞、故是以、太上皇止之云号、亦諸服御停賜、又如此時都々、人々不、天下、己氏門遠毛滅人等前々有、若如此有遠波、己我教訓直天、各己祖門不滅、弥高仕奉欲継、思慎弐心之天、仕奉倍支止、詔、天皇勅命衆聞食宣。

1 読み下し。「現神あきつみかみと云々(中略)朕薄徳を以て久しく洪緒を纂し、是以こゝをもつて皇太子と定めたる、某親王に万機を授け賜へて、賢者をして四海に君臨せしめて、徳化せしめて万民を子育せしめむと念行おもほすこと既に多年を経ぬ、人を知る鑑は、聖帝之明も難とせりと所聞きこしめせども、此皇子温恭蘊性、仁孝神を凝らして太能毛之久たのもしく於多比之久おたひしく在るに依りてなむ、此位を授け賜ふ、諸衆此状を悟りて、清直心をもちて、此皇子を輔導し仕奉りて、天下を平けく有らしめよ、又古人言有り、上多き時には、下苦しむとなも所聞きこしめすかれ是以こゝをもつて、太上皇との号も停めぬ、亦諸服御の物も停め賜ふ、又此の如き時に当つゝ、人々好からず謀り懐て、天下を乱り、己が氏門をも滅人等も前々有り、若し此の如く有む人をば、おのをしへをしへなほして、各の己祖おのがおやの門滅びず、弥高いやたかに仕奉り継がまほさば、思慎おもひつゝしみて弐心なくして、仕奉るべきと、詔、天皇すめら勅命おほみこともろもろ聞食きこしめせと宣りたまふ。」※この読み下しには多くの誤りがあると思ひます。
かくて剱璽渡御の儀となる、掃部寮かもんれう筵道えんだうを敷き、近衛次将二人、剱璽を持つて歩む、関白扈従こしようす、次将階を上りて内侍に授く、事定つて今帝南階より下りて拝舞あり。内侍、節剱せつけんを持つて追従し、少納言一人伝国璽でんこくじを持つて追従し、又一人鈴印鑰れいいんやく等を持つて、今上の御所に進す。近衛以下御雑器を持供して同所に進す。
この日の宣命使には、中納言或は参議を用ゐられる。又この日は南殿の御簾を懸けてあらはにおはしまさず近衛次将も縫腋ほうえきの袍に壺胡簶つぼやなぐひを負ひて陣を引く。常の節会せちゑとは替てをる。
宣制二段とは、宣命を二たびよむことである。之を諸卿は受けて一段ごとに再拝し、或は後段には舞踏する例もある。(舞踏とは袍の袂に手を入れて起つて左右左居て左右左として拝礼することをいふ)。
又新帝上表とて、御父子の間がらにあらざる時は(二三の異例は除きて)受禅をせらるゝ式がある。但しこれは表面のことで、前帝よりたゞちに御止めになる例である。但し幼主の時は是等の事はなされぬ。
神器御授受のほか、御渡しになる雑物とは、歴代の御宝物で、常に清涼殿せいりやうでんに御飾り付けのもので「江次第」その他の古書によれば、
日記御厨子みづし二脚、大床子だいしやうじ三脚、同御厨子二脚、師子形しゝがた二、琵琶びは一面、和琴わごん一面、笛筥ふえばこ一合、笛二管、尺八二、横笛よこぶえ二管、狗笛こまのふえ殿上でんしやう御椅子みいし一脚、時簡ときのふだ一枚、在杭、等の御品々である。
この御式が済んで後(或は翌日)前帝に、太政天皇の尊号を奉られ、又母后に皇太后の号を奉られる。さて後伊勢神宮に奉幣あり、つゞいて宇佐八幡宮に奉幣がある。(中古には宇佐は特別に御信仰があつて、二所宗廟などゝも申したことである)

践祚即位の礼分れ、譲位の御事さへ、殆ど例とならせられては、権臣等が己が威勢を張らんために強ひて御心にもなき御譲位を御勧め申したことは、藤原時代、鎌倉時代、足利時代にも少からぬ事である。彼の法皇の御号はじまりて、院政時代といふ変態を生じ、海内の人心、適従する所を知らざるやうなるありさまに陥つた事も、必竟ひつきやうは御譲位の繁き事に原因してをる。近世後水尾天皇の御譲位のごときは最も幕府の専横を憤りたまうたあまりの御事で、これが為には京都と江戸との衝突のあつたことが、その当時の記録に見えて、今猶寒心に堪へぬ次第である。

然るに明治天皇の御代に至つて御譲位といふことを一切廃せられ、上古の法に復させたまうたは、誠に深き叡慮あらせられたる御事とかしこみ思ひ奉られる事である[2]
           三条実美
 君かますあつまの都
   春立ちてあらたまりたる
     世のてふりかな


2 平成28年8月8日、第百二十五代に在らせられた上皇陛下には、国民に向けて勅語を御発しになつた。その勅語には「天皇が健康を損なひ、深刻な状態に立ち至つた場合、これ迄にも見られたやうに、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれ迄の皇室の仕来りとして、天皇の終焉に当つては、重いもがりの行事が連日ほゞ二ヶ月に亘つて続き、その後喪儀に関聯する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関はる諸行事が同時に進行することから、行事に関はる人々、とりわけ遺される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。かうした事態を避けることは出来ないものだらうかとの思ひが、胸に去来することもあります。」とあり、高齢や罹病により天皇の務めを全身全霊を以て果すことが出来なくなる場合に国民にもたらす悪影響と、若しこれ迄通り譲位を認めないとした場合に於ける天皇の崩御と新帝の御即位に伴ふ皇族方の過重な御負担とを御軫念になり、御譲位の叡慮を暗に御示しになつた。そして平成31年4月末日を以て皇位を今上陛下に御譲りになり、皇室の新たな時代を御拓きになつた。
明治の皇室典範《第十条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク》の義解に譲位の御事に就いて《再ヒツヽシミテ按スルニ神武天皇ヨリ舒明天皇ニ至ル迄三十四世嘗テ譲位ノ事アラス 譲位ノ例ノ皇極天皇ニ始マリシハケダシ女帝仮摂カセツヨリキタル者ナリ 継体天皇ノ安閑天皇ニ譲位シタマヒシハ同日ニ崩御アリ未タ譲位ノ始トナスヘカラス 聖武天皇光仁天皇ニ至テ遂ニ定例ヲ為セリ此ヲ世変セイヘンノ一トス 其ノ後権臣ノ強迫ニ因リ両統互立ヲ例トスルノ事アルニ至ル而シテ南北朝ノ乱マタ此ニ源因セリ 本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ即チ行ハルヽ者ト定メタルハ上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムル者ナリ》とある。最後の文を文字通り訳せば「本条に、践祚を、先帝崩御の後に直ちに行はれるものであると定めたのは、上代の恒典に則つて、中古以来の譲位の慣例を改めるものである」となる。これが基となつて明治以来、御譲位が否定されたものと解釈されて来た。
美濃部達吉博士の『憲法撮要』(有斐閣、昭和21年)の第三章第一節には「皇位の継承は天皇の崩御のみに因りて生ず。天皇在位中の譲位は皇室典範の全く認めざる所……典範(一〇条)に『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』と曰へるは即ち此の意を示すものなり。中世以来皇位の禅譲は殆ど定例を為し、時としては権臣の脅迫に因りて譲位を餘儀なくせしむるものあるに至り、屡禍乱の源を為せり。皇室典範は此の中世以来の慣習を改めたるものにして、其の『天皇崩スルトキハ』と曰へるは、崩スルトキに限りと謂ふの意なり。」とある。
また佐々木惣一博士の『日本憲法要論』(金剌芳流堂、昭和8年)第二章第三節には「皇位継承の原因及び発生」として「皇位継承は天皇の崩御に因て生ず。天皇の崩御以外に皇位継承の原因なし。」とあり、更に金森徳次郎博士の『帝國憲法要綱』(巖松堂書店、昭和9年)の第二編第二款には「皇位継承の原因と時期」として「天皇崩御の場合の外には継承を生ずる場合なし。我国に於ても歴史上には天皇の譲位に因る場合ありと雖も今日に於ては之を認めず。如何なる場合と雖も君主は在世中其の位を譲らるることなし。」とある。
或いは上杉愼吉博士の『新稿憲法述義』(有斐閣、大正14年)第二編第三章第二節には「皇位継承の原因」として「皇位継承は唯だ天皇崩御の場合にのみ之れあり、譲位受禅は皇室典範に依り将来之を認めざるなり、之れ我が上代の古法にして、中世特殊の事情は譲位の例を生じたるも、皇室典範は恒典を復して将来譲位の事なきの原則を確立せるなり」とある。
だが、天皇主体説の学者たる淸水澄博士は『憲法講義 完』(明治大學出版部)第二編第五章「皇位継承」の中で皇位継承は前代の君主より其皇位を譲受ゆづりうくるものにあらず 随て其間何等の行為を要するものにあらずして一定事実の発生と共に当然生ずべき国法上の現象なり 換言すれば前代の君主皇位を去るの瞬間に国法上其継承の順位に在る者当然其地位を襲ふものなり 我皇室典範第十条に「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」とあるは即ち此義なり 故に践祚は新帝となるべき者の意思如何に拘はらず当然其効果を生じ継承の順序に当るもの践祚することを拒絶するを得ず 其一旦皇位に即きたる後に於て禅位することを得るや否やは全く別問題にしていやしくも先帝の崩御と同時に継承順位に在る者は既に帝位に在るものなれば其自由意思を以て皇位に即くの諾否を決すべき餘地あるものにあらざるなり 或は新帝の即位に当り即位の式を挙げ或は欧洲に其例を見る如く君主即位の初め宣誓を為すが如きことありと雖も是れ単に一の儀式上の行為たるに止まり即位式及び宣誓等は君位継承の成立条件にあらざるなり」と述べてゐる。
淸水博士の説明は、特に「皇位継承は前代の君主より其皇位を譲受くるものにあらず」の一文が恰も「譲位」を否定するかに見える一方、その後に「一旦皇位に即きたる後に於て禅位することを得るや否やは全く別問題」と述べて、先帝崩御により皇嗣がその瞬間に自動的に御践祚なさることと、御践祚後に御位を禅譲なさることとを別問題として扱つてゐる。同じく天皇主体説の穗積八束博士の『憲法提要』(有斐閣、昭和11年)第二編第二章「皇位継承」の説明を見てみる。
「按ずるに、皇位継承の事、法理を以て立言すれば権利の移転には非ず、主格の継続なり。語に於て統治権の継承と謂ふときは或は権利の授受を意味するものの如し。其の本義は即ち然らず。統治権は天皇の身位に固著して離るべからず、甲乙の間之を授受しあたふの権利に非ざるなり。皇位の継承は天皇の身位の継続なり。主格の継続は法理上之を同一主格の存在とす。故に皇位に二なし、時を同じうして二なきのみならず、時を異にするも亦二なきなり。今の皇位は即ち千古の皇位なり、万世一系改更あることなし、此れを継承の本義とす。」
淸水博士の言ふ「譲受くるものにあらず」とは穗積博士の言ふ「権利の移転(授受)には非ず」といふ意味であることが解る。皇位継承は、統治権の所在たる皇位を永続せしめる為に為されるものである。何故ならば統治権の所在が途切れることは統治権(即ち国家主権)が途切れることで、従つて国家の断絶を意味するからである。皇位継承が前帝の崩御に起因しようと、或いは別の原因に依るものであらうと、何れにしても前帝が皇位を御去りになつた瞬間に皇嗣が間断なく之を充たし給ふ。それは家督の相続のやうに、父から子へと統治権といふ財産権が授受されることではない。統治権の所在たる皇位を空席にしないやうに、それを嗣ぐ資格のある者がサッとその座に御即きになるのである。皇位は万世不動のもので、それを充たすべき御方が途切れることなく之を充たして行かれるのである。それは天皇が入れ替ることでもない。皇位に在る御方のみを天皇と申し奉るからである。さうであるからこそ皇位に坐します天皇は一瞬も途切れることなく皇位に坐しまし、しかも常に御一人に在らせられ、天皇が御二人いらつしゃる瞬間も生ぜず、御一人もいらつしゃらない瞬間も生じない。皇室典範第十条の条文の主旨は正にこゝに在つて、義解にある譲位の御事はそれとは別の問題であると淸水博士は述べてゐることが之で判る。「譲位不可」説は餘りにも義解に囚はれ過ぎてゐた観があるのである。
平成29年6月16日に公布された『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』には「第二条 天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。」とある。これは明治の典範第十条に対応する現行皇室典範第四条の「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」の条文に傚つたたものである。従来、皇位継承の唯一の原因と解釈されて来た「崩御」を「退位」に置き換へれば、天皇陛下が御退位なされば自動的に皇嗣(皇太子)殿下が御即位(御践祚)なさる、そこに一瞬たりとも空隙は生じない、といふ法理が成り立つ。正に淸水博士の「前代の君主皇位を去るの瞬間に国法上其継承の順位に在る者当然其地位を襲ふ」の表現と一致する。「君主皇位を去る」原因が崩御か退位かに拘はりなく、その瞬間に皇嗣が直ちに御践祚になるのである。特例法が「譲位」と書かずに「退位」とした所以は、法律条文には「皇位継承の原因」として「退位」としか書きやうがないからであらう。「譲位」とは現代に於てこの一連の御事を総称する言葉と解するべきである。抑も上皇陛下御親ら一貫して「譲位」と仰せになつてをられたのだから、御譲位と申し上げて間違ひない。さういふ訳で、上皇陛下におかせられては、明治以来の誤れる慣例を再び見事に打ち破られて、本来の皇室に相応しい正しい慣例を改めて御創めになつたと拝するべきである。 


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月20日日曜日

践祚即位(池辺義象)②即位

第二章 即位


践祚即位の儀が別れた事は、前章に述べた通りである。その未だわかれなかつた時の御即位の古い儀式はいかゞであつたらう、今より詳に知ることは出来ぬが、神武天皇橿原宮にての御事を「古語拾遺」によりて考ふるに、先づ手置帆負たおきほおひ彦狭知ひこさしりの二神の孫が斎斧いみをの斎鉏いみすきを以て山のを採りて正殿を構へ立て、天富あめのとみの命が斎部の諸氏を率て種々の神宝鏡玉矛盾ほこたて木綿ゆふあさ等を作り、櫛明玉くしあかるたまの命の孫が御祈玉みほきたまを造り、天日鷲あめのひのわしの命の孫が、木綿及び麻ならびに織布、いはゆるあらたへを造られた。これらは正殿装束のである。そこで皇天二祖の詔に従つて、神籬ひもろぎをたてゝ、高皇産霊神たかみむすびのかみ以下を祭られ、日臣ひのおみの命は来目部くめべを率ゐて宮門を護衛し、饒速日にぎはやひの命は内物部うちつもののべを率ゐて矛盾を造り備へられた。(此に饒速日にぎはやひとあるはその実可美真手うましまでの事である)是等これらの物そなはつて後天富命あめのとみのみこと諸の斎部を率ゐて、天璽の鏡剱を捧持して、正殿に奉安し、並に瓊玉を懸け、その幣物をつらねて、殿祭おほとのほかひ祝詞のりとを奏し、次に宮門の祭を行はれた。さて後、物部矛盾ほこたてを立て、大伴、来目くめ杖を建て門を開き、四方の国を朝せしめて天位の貴を観せしめたとある。いかに荘厳であつたかは大抵想像し得られる。

この後は史文簡にして御即位儀を伺ふことが出来ぬが、持統天皇の時に、物部氏大盾おほだてて、中臣氏、天神あまつかみの寿詞よごとを読み、をはつて忌部氏、神璽の剱鏡を奉上し、公卿百寮羅列迎拝して拍手したとあるは、やゝ詳に記されたるものである。中臣氏の天神寿詞の拝読、斎部氏の鏡剱奉上の事は「令義解りやうのぎげ」にも見えて、この御儀中の最も重なるものであることは前章にも述べた通り。また物部大伴などの護衛の任を帯びて奉仕することも、神武天皇の時にも見えて、後代まで伝はつた大切の式である。そもかやうに大切の御儀である御即位の礼も、古くはなほ簡易質素なる御事であつたと推察し奉るを、後には極めて美〻びゞしく唐風の種〻の御式そなはり、御礼服をはじめ文武百官の行装、音楽旌旗せいきなど耳目を驚かすやうになつたのは、何頃よりかと云ふと、天智天皇の叡慮として定められたるに原因せるもので、これを実際に行はれたるは文武天皇の時からである。さてもいはゆる袞龍こんりよう御衣ぎよいをも召されたことゝなつたは聖武天皇からと史に記されてある。その以前は御礼服は祭服と同じく帛の御袍ごはうであつたらうと拝察する。
天智天皇の即位の礼を定められたと云ふ証は、元明天皇以下即位の時の詔に「近江あふみ大津宮おほつのみやに御宇あめのしたしろしめしし大倭おほやまと根子ねこの天皇すめらみこと(天智)の天地と共に長く日月と共に遠く不改かはるまじき常典つねののりと立てたまひ敷きたまへるのり云々」といふ御詞の、爾来いづれの天皇の御即位の詔にも必ず見えたるにて知られるのである。然るにこの儀は唐風に拠られたもので、今日よりそのありさまを思ふと、さながら日本固有の風はないやうに見える。ことに践祚即位と別れて、践祚の儀の時に、神器奉上などは行はれるやうになつてからは、これは純然たる唐風のたゞきらびやかなるさまと成り果てたやうである。
さてその即位の儀式を(践祚とわかれて後の)貞観(清和)儀式に依つて概略を叙して見よう。それに先だちて当時宮城の第一殿たる大極殿を見おく要がある。

大極殿の図

 前一日大極殿を整設す。当日諸衛大儀を服し、各々所部をろくして、大儀杖を殿庭の左右及び諸門に立つ。門部四人、章徳、興礼両門の東西に居る。左右中将の杖御前に供奉し、即ち東西の階下に陣す。兵衛、龍尾道りゆうびだうを挟んで陣す。中務なかつかさ内舎人うどねりを率ゐ、近杖の南に陣す。内蔵くら大舎人おほとねりれう等、各々威儀の物を執て、東西相分れて殿庭に列す。主殿とのも図書づしよ各〻礼服を服して、炉の東西に列す。寅一刻兵部丞録じようろく史生ししやう省掌しやうしやう等を率ゐて、左右相分れて章徳興礼両門より入り、共に龍尾道上に至り、左右兵庫寮ひやうごれうの樹つる所の諸幡諸衛儀仗等を検校けんげうす。式部丞録、史生省掌等を率ゐて左右相分れて長楽、永嘉両門より入り、応天門左右閣道壇上座に就く。録二人史生省掌等を率ゐ、分れて朱雀しゆじやく門東西杖舎前に到り、儀仗を立つ。六位以下の刀禰とねを整列せしむ。時に弾正忠だんじやうちゆう以下朱雀門西腋門より出て、左右分列し、東西杖舎の前に於て、礼儀及び帯杖非違等を糺弾す。をはつて東西腋門より入り、翔鸞しやうらん棲鳳せいほう両楼の南頭に列立す。糺弾すること常のごとし。典儀一人賛者さんじや二人、光範門より入り、各〻位に就く。大臣以下含輝がんき章義しやうぎ両門より入り、朝集てうしふ堂の床に就く。式部丞録以下、閣道の座より起ちて、降つて砌の前に立つ。史生各〻二人大策を持ち、共に庭中に立ち計唱けいしやうす。五位以上唱に随つて称唯ゐしやう列立れつりつす。をはつて内辨ないべんの大臣、昭訓門より入り幄の下座に就く。内記、位記はこを執つて大臣の前の机に置く。大臣式兵両省を喚び、叙すべきものゝ簿を賜ふ。又両省の輔丞を喚び、位記筥を賜ふ。輔丞昭訓門より出て、更に昌福堂の南西を経て、趨つて案上に置く。時に外辨げべんの大臣召使をす。召使称唯ゐしやうして立つ。大臣宣して兵部を喚す、召使称唯ゐしやう退出、大臣宣して、装了の皷を撃たしむ。丞、称唯ゐしやう、外辨の皷を撃たしむ。諸門つぎを以て之に応ず。すなはち、章徳興礼両門を開く。とも佐伯さへぎ両氏各一人、門部三人を率ゐ、両門より入り、会昌門内に居る。辰一刻皇帝建礼門より出でゝ大極殿の後房に御す執翳しつえいの命婦みやうぶ十八人、褰張けんちやうの命婦みやうぶ二人、威儀ゐぎの命婦みやうぶ四人、各〻礼服をちやくし、相分れて座に就く。侍従四人相分れて共に立つ。少納言二人、昭訓光範両門より入る。門部、門を開く。内辨大臣刀禰とねめせの皷を撃たしむ。諸門の皷皆応ず。参議以上次を以て堂を降り、列に就き参入す。五位已上いじやう続いて会昌門より参入す。式部の録、六位已下いか刀禰とねを率ゐて参入す。親王顕親門より入る。諸式をはつて後、皇帝冕服べんぷくを服し高座たかみくらに即きたまふ。殿下鉦を撃つこと三下。執翳はとりの女嬬によじゆ左右分進してかざしを奉ず。褰張けんちやうの命婦みやうぶ御張をかゝぐ。宸儀初て見はれたまふ。執杖者ともけいを称す。式部の録以下面伏す。群臣謦折けいせつ諸伏座す。主殿図書各二人次を以て東西の炉に就て香を焼く。王公百官再拝の儀あり。をはつて宣命せんみやう大夫だいぶ、進んで宣命版せんみやうのはんにつき宣制す。

明神あきつみかみ大八洲おほやしまぐに所知しろしめす天皇詔すめらがみこと良万止らまと宣勅のりたまふみこともろもろ聞食きこしめせのる(群官称唯再拝)かけまくも畏支かしこき明神あきつみかみとます天皇云々しかじかのる、(群官称唯再拝)しかれどもきみ大坐氐おほましまして天下あめのした治賜をさめたまふ君波きみは賢人乃かしこきひとの云々宣。(群官称唯再拝舞踏再拝)武臣ともはたを振つて万歳を称す、拝舞せず。式部兵部案下に就て、して位記を授く。被叙親王以下再拝舞踏あり。をはつて殿上侍従御前に進行して礼畢らいひつと称す。殿下鉦を撃つこと三下、執翳命婦かざしを奉し、褰張命婦御張みちやうを垂る、皇帝還りて後房に入りたまふ。閤内大臣退皷をたしむ。諸門の皷皆応ず。親王以下上よりまかる。をはつて門を閉ぢ解陣げぢんす。

御即位儀の大要は右のごとくである。御服の冕服べんぷくとは即ち袞龍こんりようの御衣ぎよいで、日、月、星辰、山、龍、華虫くわちゆう宗彝そうゐそう火、粉米ふんべい黼黻ほふつの十二章で、これは「書経」に見えて居て舜の時につくられたといふものである。又文武官の大礼服も、ことごとく唐風で、武官は挂甲かけよろひとて、金銀をちりばめたよろひを着る。又龍尾壇上に立る旗は、日月像幢烏形幢うぎやうどうを始め、青龍せいりよう朱雀しゆじやく白虎びやくこ玄武げんぶ四神旗しじんきを建てつらね、進退掛引は、本文のごとく鉦皷を以てし、主殿図書の官人が御前にて、香を焼くなど、尽く唐風である。

左に古図に拠つてこれを掲ぐ。

高御座の図(文安即位調度図所載)

これらを建陳ねた紫宸殿にての図は、別図の如くである。

御即位図

 御即位の前に当つて、先づ伊勢神宮に奉幣して、即位せらるべきよしを奉告せられる、之を「由奉幣よしのほうへい」といふ。又をはつて幣を諸神に奉られる儀がある。又諸山陵にもこの由を告げられる礼がある、是等これら告文こくぶんは、時に依つて多少の相違はあるが、天日嗣あまつひつぎの位を受け継ぎまして、新しく政を視たまふにつきて、その御守りを願ひ、天下の安らけく治まらんことを祈られることはいつも同じことである。」

さて右に述べたやうに、御即位礼は、大極殿にて行はせられる例であつたが、陽成天皇の時、大極殿災あり未だ御造営成らずして、豊楽殿にて行はせられ、冷泉天皇御不豫ごふよに依つて、紫宸殿にて行はせられた。(日本紀略に冷泉康保四年十月十一日、丙寅、天皇於紫宸殿位、依不豫、不大極殿[1]これがこの大礼の紫宸殿に移つた始で、天皇御悩の気に依つて、時の大臣小野宮実頼が注意の結果と伝つて「古事談」には、これを大臣の高名の事に数へてある。この後後三条天皇、大極殿焼失後未だ造りをはらざるに依て、太政官庁にて、この礼を行はせられた。この後安徳天皇治承四年四月また紫宸殿にて行はせられた。これも大極殿焼失の為であつた。この時は、後三条天皇の例に依つて、官庁即位の説を建てたものもあつたけれど、時の右大臣藤原兼実の議で、紫宸殿にまつたのである。然るにこの後皇室漸次御衰頽で、再び大極殿御造営も成りがたく、遂にこの儀は、紫宸殿(或は太政官庁)にての礼となり了つたのである。然れどもその装飾敷設等の事は、いづこまでも奈良朝以来の古儀に則つて、冕冠べんくわん冕服べんぷくの唐風で孝明天皇の御時まで続いたのである。先帝明治天皇御即位の時は、大政維新の始であり、総て神武天皇の創業に則られたまふといふので、奈良朝以来の唐風の冕冠礼服を廃せられ、我が国固有の礼に基いて帛御袍はくのごはうを召され、かも高御座の下には地球儀を据ゑられたまうたと承つてをる。「皇室典範」及び「新登極令」に依れば、御即位は、京都紫宸殿にて行はせたまふことであつて、秋冬の間大甞祭の前に於てせられることである。かくて大礼使を定めて一切の事を掌らしめ、その日時がきまれば、賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして、神宮、神武天皇御陵、ならびに前帝四代の御陵に奉幣せられる。その紫宸殿の儀は、高御座たかみくらを立てゝ御座とし、その東方に皇后の御座を設け、殿上を装飾し、庭上には、日月像旛、烏形旛、霊鵄形旛、菊花旛等をたてられ、儀仗を敷き、皇太子以下親王大臣諸官座定つて、天皇は御束帯おんそくたい黄櫨染くわうろぜん(未成年の御時は闕腋けつてきの御袍ごはう空頂くうちやう黒幘こくさく)にて、御座に昇らせたまひ、皇后は御五衣おんいつゝぎぬ御唐衣おんからぎぬ御裳おんもにて御座に着かせらる。侍従女官等、御張をかゝぐれば、天皇は御笏おんしやくを端し立御、皇后は御檜扇おひあふぎを執り立御、勅語あり、内閣総理大臣寿詞よごとを奏し、同じく万歳を唱ふ、諸員之に和し、をはつて入御。式の始終には鉦皷を用ゐることは、中古と同じことである。

1 読み下し。「天皇、紫宸殿に於て位に即きたまふ、不豫に依りて、大極殿に御したまはず。」
按ずるに古儀と異つたることは、袞龍こんりようの御衣を黄櫨染くわうろぜんの御袍ごはうに代へたまうた事、皇后の御座の玉座と相並んで共にこの礼を挙げたまふ事、執翳はとりの命婦みやうぶの無きこと、宣命版せんみやうのはんめて、直に勅語をのたまふこと、大臣の寿詞よごとを奏すること、その他いにしへは内辨外辨の大臣が何事も奉仕したるを、新令にては大礼使といふが総てこの時に預ることなどで、文武官の礼服などのかはりあることは申すまでもない。幔をうち旗を立てられる等については、古を折衷して定められてあるやうである。
この新令による御即位式を挙げられることも、最早明年の秋期[2]に迫つてをれば、吾人臣民は遠からずこのかしこき御光に接し得ることである。開闢以来未曾有の発展をなした我が帝国のこの御式、いかに万国人の目をも驚かしめかしこましめることであらうか。

2 大正3年に行はせられる御予定であつた大正天皇御即位の大礼のこと。大正3年4月、昭憲皇太后には崩御あそばされた為、延期されて翌大正4年11月10日に御挙行あらせられた。「新令」といふのは明治に御制定あつた登極令のことで、明治の皇室典範と同登極令に則つて初めて御即位あそばされたのが大正天皇にあらせられた。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月19日土曜日

践祚即位(池辺義象)①践祚

第一章 践祚


践はふむ、祚は位福ともいふ義にて、皇太子があらたに帝位を践まれることで、即ち即位と同じこゝろである。然るにこの編に、践祚、即位また譲位と章を分つたのは、平安朝以来是等これらの儀礼が別〻に行はれる事となつて来たから、それを明に知らしめむ為である。さてかやうに各々儀礼を異にするに至つたについては、それぞれ沿革があるから、いまこゝにのぶるであらう。

上古に於ては践祚も即位も一つで、この間に何の区別もなかつた、従つてその儀礼のかはりやうはない。だから「令義解りやうのぎげ」にも、天皇即位謂之践祚[1]と見え又践祚の日の御儀式として、中臣氏が天神あまつかみの寿詞よごとを奏し、忌部氏が神璽の鏡剱をたてまつると書いてある。(この二つは神代以来の大切なる旧儀であるから)然るに後に至つて、漸くこの儀礼が二つに別れた。

1 読み下し。「天皇即位は之を践祚と謂ふ。」
それは何時頃かといふに、大化の改新を去ること遠からぬ斉明天皇が、御即位後七年の七月に崩御になつた。そこで皇太子(天智)が岡本をかもとの宮で摂政五ヶ年を続けられ、その六年目の三月に、都を近江の志賀に遷し、八年の正月に、天皇の位に即かれた。これを天智天皇は、斉明天皇の後を受けて践祚せられ、のち即位の礼を挙げられたものとして、この両儀(践祚と即位と)の別れた始とする説がある。これは皇太子とは称せられながら(日本紀に皇太子素服称制とあり)既に先帝の御跡を承けられたるが故に、践祚と見るべきであるとの考へから来た説である。(皇室典範義解などはこの見解である)さりながら践祚といふは即位と同じ義であるとすれば、既に践祚したまうたならば、皇太子と称せられる理はあるまい。これは「日本紀」にとあり、又「皇年代略記」には皇太子(天智)至孝不即位壬戌以来於岡本宮摂政五箇年[2]とあれば摂政であつて天皇とは称せられなかつたのである。さればこの時の事を以て践祚と即位との始とするはいさゝか無理であらう。

2 読み下し。「至孝にして即位を称へたまはず、壬戌以来、岡本宮に於て摂政したまふこと五箇年。」
この後数代を経て、桓武天皇の、先帝光仁天皇の禅を受けて、天応元年四月辛卯の日に位に即かれ、癸卯の日に(十二日目)大極殿だいごくでんに於て天下万民に向つて即位の礼を行はれたるは、践祚即位と文字は書きわけては無いけれども、辛卯の日なるは践祚で、癸卯の日なるが即位で、この二つの礼を別々に行はれた始とすべきであらう。(践祚即位とかきわけて無いのは、この二つは同儀に用ゐてあるからである)

この後、光孝天皇も、陽成天皇の禅を受けて元慶八年二月四日に、天子の璽授神鏡宝剱等を受けられて天皇となり、廿三日大極殿にて、即位の礼を行はれた。この時も践祚といふ文字はない。醍醐天皇は、寛平九年七月三日に宇多天皇の御禅を受けられ、十三日に大極殿にて、即位の礼を挙げられた。この時も天祚于紫宸殿[3]と書いてある。朱雀天皇に至つて、延長八年九月廿ニ日禅践祚、十一月廿一日天皇於大極殿即位[4]とあつて、始て践祚と即位とを書き分てある。桓武天皇以来事実は同じであるが、明に書き分られたのは此時である。

3 読み下し。「天祚を紫宸殿に於て譲りたまふ。」
4 読み下し。「延長八年九月廿ニ日、禅を受けて践祚したまひ、十一月廿一日、天皇大極殿に於て即位したまふ。」
かくの如く両儀あきらかにわかれた後は、践祚は前帝と新帝との御間、即ち御父子間の御儀で、即位は広く天下万民に告げられる礼となつた。故に上古以来の旧儀で最も貴い神器御授受の儀は践祚の時に行はせられるのである。(第三章譲位の条を見よ)

按ずるに新定登極令に依れば、天皇践祚の時は掌典長をして、賢所に祭典を行はしめ、かつ践祚の旨を皇霊殿神殿に奉告せらるゝことゝなり、又剱璽渡御の儀がある。この時には天皇は御通常服で、剱璽渡御は侍従奉仕し国璽御璽も内大臣秘書官が捧持して従ふのである。又剱璽を御前の案上に奉安するは内大臣つかさどることになつてあるが、是等これらの式は即ち古代の儀を折衷して新に定められたるものである。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月18日金曜日

皇位継承(池辺義象)③女帝

第三章 女帝


皇室典範第一章第一条に、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあるは、明治の御代みよの御定めであるが、その実は太古以来の常典じやうてんである。これについては古代女帝御継承の歴史をのぶれば誰も得心するであらう。

日向御三代は、もとよりの事、神武天皇以来、崇峻天皇まで三十二代の間女帝御即位の事はない。然るに三十三代に及んで推古天皇が立たせられた。これ女帝の始である。これより後、皇極天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、明正天皇、後桜町天皇の女帝があらはれ給うた。いまこの諸女帝の御即位の事情を尋ねて見よう。

推古天皇は、敏達天皇の皇后であらせられたが、この頃大臣おほおみ蘇我馬子といふが権力をほしいまゝにし、かしこくも崇峻天皇を弑しまつるに至つた。そこで推古天皇が御即位になつたが、この天皇は御母は蘇我氏である。これ馬子が権臣の勢ひを以て、この天皇を御位にけまつつたものである。

皇極天皇は、欽明天皇の皇后で、天智天皇の御母であらせられる。欽明天皇崩ぜられて、天智天皇は皇太子ではあらせられたが、当時もなほ蘇我蝦夷えみし、蘇我入鹿いるかなどいふ不逞の大臣等が政権を握つて、皇太子の御意のまゝにならぬことが多くて、この御即位はあらせられたものとおもふ。且又かつまた皇太子は後に藤原鎌足と図つて、入鹿を誅せられた位の御事であるから、これにはよほど入組んだ事情が伏在して居たのであらう。

持統天皇は、天武天皇の皇后であらせられたが、天武天皇の皇太子草壁くさかべの皇子と申すが世を早くしたまひ、その御子(後の文武天皇)おはしたれども、未だ御幼年であつたから(当時は中古のやうに幼稚の天皇を立てられない御定めであつた。)御祖母でありながら御即位になり、皇孫文武天皇の十五歳にならせられるを待つて、御位を譲られたのである。

元明天皇は、草壁皇子の妃で即ち文武天皇の御母であらせられたが、文武天皇崩御の後、皇子なほ幼冲えうちゆうなるによつて、位に即かせられ、十年に及びましたれども、聖武天皇なほ御成人無き故に、更に位を元正天皇に譲られたまうたのである。故にこの時には二代女帝が続かせられた。

孝謙天皇は、聖武天皇の御女で、父帝が深く仏道に帰依したまひ、万機の政をはやく脱れて、一向に信念を凝らしたまはむとの、古来未曾有の叡慮より、御位を孝謙天皇に譲つて、太上天皇の尊号を受けさせられた。

遥に降つての女帝が明正天皇である。天皇は後水尾天皇の皇女で、御母は東福門院、即ち徳川二代将軍秀忠の女である。この御即位は、後水尾天皇の思召とは申せ、江戸幕府の専横に御心たひらかならざるに原因して居ることは、当時の諸記録が明かに語つてをることである。

後桜町天皇は、桜町天皇の皇女で、その皇姪後桃園天皇が幼冲であらせられた間、帝位に上られたものである。

右のごとく推古天皇以後の女帝の御上を考へて見るに、一は皇太子御幼冲により、一は権臣の推す処とならせられたのである。たゞ聖武天皇の孝謙天皇に御譲位の事のみは、仏道御帰依といふに原因して、前の二の原因とは違つてをる。一体この天皇は東大寺大仏を起して「三宝の奴」とのたまひたる仏道信仰の御方で、それが為には万乗の御位をも去つて、かゝる事を敢てしたまうたのである。

されば孝謙天皇を除き奉ては仮の御位とも見申すべきもので、もとより祖宗以来の正法とは申されぬ。推古天皇以前に、神功皇后、飯豊青いひとよあをの皇女の事もあつたが、いづれも摂政に過ぎぬのである。若し欧洲のある国のごとく公然と女帝を許すことゝすれば、従つて皇夫の制も立たねばならぬ事になり、皇統の御上に弊害の生ずることは、たなごゝろを指すやうなものである。これ皇祖皇宗のつとに女系を避けしめられたものと拝察する。
我が皇位の継承に将来女系を禁ぜられたは、祖宗以来の不文憲法を明文にたしかめられたといふことは承つたが、然らば天照大神はいかがであらう、大神は大日孁貴おほひるめのむちとも申し、全く女神ではないかといふ人がある。いかにも天照大神は女神である。併しこの大神は、即ち皇位のもとを定められた大神であるから、男神でも女神でも、歴代の天皇がたと共に均しく論ずべき神ではない。古史に光華明彩照臨六合[1]などゝあつて、これ神、これ聖、これ祖、これ宗、尊きことゝ二なき大神である。この大神が女体であらせられたとて、皇統に女帝を禁じたまふこと少しも差支はない。

1 読み下し。「光華ひかり明彩うるはしくして、六合くにのうち照臨せうりんす。」 
然るにある学者の如く、この本を定めたまうた大神をも男神にしようとて、天照大神は実は男体である、然るに女神として日本紀古事記等の古史に伝へてあるのは、蘇我大臣一派が、我が権力を伸す為に、太古以来例のない女帝推古天皇を立てまゐらせた時に、後世より疑義を挟むものゝないやうに、大神の男体であるものを、ことごとく女神に書き換へ語り換へしめたものであると説くものがある。併しこれは餘りに穿鑿に過ぎかへつてその愚をあらはす説で、信ずるに足らぬ。
  君か代はかきりもあらし長濱の
    まさこのかすはよみつくすとも[2]
  近江のや鏡のやまをたてたれは
    かねてそ見ゆるきみかちとせは[3]
              (大歌所の歌[4]

2 古今集1085番、仁和の御べ(光孝天皇の大嘗会)の伊勢の国の歌。「君がよは限りもあらじ長濱の真砂のかずはよみつくすとも」
(岩波文庫『古今和歌集』)
3 古今集1086番、今上の御べ(醍醐天皇の大嘗会)の近江の歌。「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」(岩波文庫『古今和歌集』)
4 この2首は古今集巻第二十「大歌所御歌」ではなく同巻「神遊びのうた」に所載。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月17日木曜日

皇位継承(池辺義象)②神器

第二章 神器


神器は即ち三種の神器で、天照あまてらす大神おほみかみより天孫てんそん瓊々杵尊にゝぎのみことに賜はつた八尺やさかの勾璁まがたま八咫鏡やたのかゞみ天叢雲剱あめのむらくもつるぎ(草薙剱とも云ふ)である。凡そ皇位を継承せられるには、必ずこの三種神器を御伝授になる。この三神器を御伝授ない間は正しき皇位を継承せられた御方とすることは出来ぬ。言換ればこの三種神器の御伝授は正当に御即位あらせられた標幟である。故に昔より最もこの礼を大切にせられる。「日本紀」にもこの三種神器の事を「天皇璽符」とも「天璽」とも「神璽」とも書いてある。「神祇令」には凡践祚之日中臣奏天神寿詞、忌部上神璽之鏡剱[1]と定めさせられてある。(天神寿詞とは、中臣氏に伝はつた天孫降臨当時の寿詞で御即位の度ごとに、この故事を新天皇に奏上したものである。)上代は践祚即ち即位でその区別がなかつたから、この日に神器奏上の礼も行はれた。然るに後に至り、践祚と即位と別々なる礼となつてからは、践祚の日に神器奏上の礼は行はれることになつた。(践祚即位の事は第二篇に述べる)

1 読み下し。「凡そ践祚の日、中臣天神寿詞あまつかみのよごとを奏し、忌部神璽しんじの鏡剱をたてまつる。」
此の如く三種神器は御即位の標幟ともなる貴いものなるに依て、古来決して、この物なくして御即位あらせられるやうな事はなかつたが、源平の乱の時に安徳天皇西海御没落あらせられて、その御留守に、京都にて後鳥羽天皇が神器なくして御即位があつた。これ実に開闢以来の大変事で、心あるものは悲憤の涙にくれぬはなかつた。時の太閤藤原ふぢはらの兼実かねざねがその日記「玉葉」に記した処を見られよ。
先我朝之習、以剱璽主為国王、不璽践祚之例、書契以来未曾聞、然而依止事、有立王事、天子位不一日之故也、然而至于即位者、待剱璽之帰来、可遂行也(中略)剱璽即位之例出来者、後代乱逆之基、只可此事云々[2]

2 読み下し。「先の我朝の習ひは、剱璽の主を以て国王と為し、璽を待たずして践祚するの例、書契以来未だ曾て聞かず。然れども止む事なきに依りて、王を立つるの事あるは、天子の位は一日も空しうせずの故なり。然れども即位に至りては、剱璽の帰来を待ちて、遂行せらるべきなり(中略)剱璽を帯びずして即位するの例出来せば、後代乱逆の基、たゞに此の事に在るべし云々」(『玉葉』寿永三年六月)
唇滅れば歯寒し霜をんで堅氷至るといふやうに、この寿永の例は、果して後世乱臣賊子の利用する処となつて、足利尊氏は、我が権勢をほしいまゝにせんために、閏位の天皇をおしたてゝ、神器を蔑にした。こゝに於て開国以来嘗てない皇統二系に分れていはゆる南朝北朝などいふ両朝廷が出来天下の人心惑乱せられた。抑も寿永の時は「天子位不一日」の理由もあらせられたがこの尊氏に至つては、全く自己権勢の為に、皇室を蔑にし、天祖以来の憲法をかきみだしたのである。これが尊氏逆臣の名が、万世の下にも消えぬ訳で南北正閏の論ある所以である。正閏の論は決して御血統の上の論ではない、天祖の憲法の正しく守られ居る御位と守られてゐない御位との議である。これを思はずして、北朝正論など唱ふる輩は、天祖以来の皇位継承についたる大憲法を破壊するものである。

抑もかやうに貴い三種神器とはいかにといふに、申すまでもない八咫鏡やたのかゞみ八尺瓊やさかにの勾璁まがたまあめの叢雲剱むらくものつるぎ草薙剱くさなぎのつるぎ)で、その中にも鏡は天岩屋戸あめのいはやとの時に、思兼神おもひかねのかみの思慮にて大神の御姿をうつし奉る為に造らしめられた者、玉は玉祖命たまのおやのみことの同じく天岩屋戸の時に献られたもの、あめの叢雲剱むらくものつるぎは、素戔烏すさのを尊の八岐やまたの大蛇おろちの尾のうちよりられたといふ霊剱である。この三種を思兼神はさかきの枝に取付けて天岩屋戸の前に立てゝ、遂に大神を招き出し奉つたものである。かゝる縁故よりこの三器は大神の御物としてあつたのを、天孫降臨の際に御手つから賜はつたものである。かゝれば天孫以降御代々、宮中に於ては、これを大神の神霊として同殿共床に奉斎せられたことは、前々も述べた通り、崇神天皇の時鏡剱を御模造になつてからは、宮中の一殿に奉斎せられ、朝夕に拝礼あそばすことゝなり、後には温明殿うんめいでんといふに奉斎せられた。この温明殿うんめいでん賢所かしこどころかしこく貴む義。賢の字を書くはその訓を借りたるまでなり)とも、又内侍所ないしどころ(内侍(女官)が奉仕する故に)とも申すのである。(温明殿奉斎の御代は諸説あつてつまびらかでないが、恐くは大内裏御造営が成つて後であらう。後には、春興殿に奉斎せられた、これは大内裏廃頽の後、武家以後の事と思ふ。)玉は常に御座所遠からぬ御間に安置せられるので、賢所には奉斎せられない。(模造の御剱は璽と同じく御奉斎になつて、賢所には御鏡のみを祭り給へる事で有る。温明の字も神鏡を祭られるから採用せられたことゝ思ふ。)さればのち宮中炎焼の時、災にかゝらせられたるは、この模造の御鏡で、真の御鏡は前記のごとく神宮の御神体として奉斎してある。さてもこの度々の火災及び寿永の乱の時も、御玉はいつもつゝがなくおはしまして、かしこくも今に御身の護となつてあらせられる。又火災水難にかゝらせられた鏡剱も、御改鋳のことはなく、そのまゝに御奉斎になつてをる事と承はつてをる。

三種神器の事は、あまり貴いあたりの御事であるから、此には大凡おほよそに記し奉つておくが、この三器の軽重などといふことを世に彼是かれこれといふのは、大に心得違であらう。いかにも御鏡は大神の御象おんかたをうつし申したもので貴いことこの上もないとは申せ、玉も剱も決してこれに劣れるものではない。たゞかやうな説の出るもとは「神祇令」に忌部上神璽之鏡剱[3]とあり「古語拾遺」に八咫鏡及草薙剱二種神宝賜皇孫永為天璽(所謂神璽剱鏡是也)矛玉自従[4]とあるなどを拠所として、三種の中、玉は軽きものゝやうに思ふもあるが、これははなはだ皮相の考へである。「神祇令」なるは忌部氏の職掌として奉上すべき鏡剱の事を記されたもので、玉はもとより天皇護身ごしんの御璽なればこゝに並べ挙げたまふべきものではない。又「古語拾遺」に二種神宝とあるも、これも忌部氏の職掌として、その家伝かでんを書きたるもので、玉の事には及んでゐない。彼の文に矛玉自従とあるは、大国主おほくにぬし神の帰順の時に献られた平国之くにむけの広矛ひろほこと、みつの八尺瓊玉やさかにのたまとの事で、三種神器の一なる玉の事ではない。これは早く鈴木重胤も辨じておかれた如くである。(近藤芳樹は「公式令」に「天子神璽宝而不[5]」とあるが即ち八尺曲玉の事で、これは御内の物ゆゑに外むきの儀式の方には書いてないと論じて居られる。八尺曲玉の御内の宝なる事は、無論の事であるが、この「公式令」の神璽が果して玉をさしたるか否やといふことはいかであらうか。

3 読み下し。「忌部神璽をたてまつる。」
4 読み下し。「八咫鏡やたのかゞみまた草薙剱くさなぎのつるぎ二種ふたくさ神宝かむだからを以て、皇孫に授け賜ひて、ひたぶる天璽あまつしるし(所謂神璽みしるしの剱鏡これなり)とたまふ。矛玉はおのづからに従ふ。」
5 読み下し。「天子の神璽は宝にして用ゐず。」
さてこの三種神器について、昔よりいろいろ説をつけて、智仁勇の三徳をあらはしたまうたといふものもある。智仁勇の文字は漢土輸入であるが、いかにもその意義は、この三器によせられたものと思はれる。源親房は「神皇正統記」に「鏡は日の精なり、玉は月の精なり、剱は星の気あり、深きならひあるにや」と云ひ、又「鏡は一物をたくはへず、私の心なくして万象を興すに是非善悪の姿あらはれずといふことなし、その姿に従ひて感応するを徳とす、これ正直の本源なり、玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり、剱は剛利決断を徳とす、智恵の本源なり、この三徳を翕受あはせうけずしては天下の治まらむことまことに難かるべし、神勅あきらかにしてことばつゞまやかに旨ひろし、あまさへ神器にあらはしたまへり、いとかたじけなき事にや」と論ぜられてある。実に古よりの皇室の博愛慈仁進取なるは、かゝる処に淵源するのであらう。
ちなみいふ、今「皇霊殿」といふが、賢所の西方にあつて、常に御祭あらせられるが、これは明治以後の新儀である。但し古き処にも皇霊を祭られたことはあつたけれども、歴代の皇霊殿を建てゝ、かやうに御祭になることはなかつた。又「神殿」とて賢所の東方に御祭あるは古の神祇官の八神と、天神地祇とを合せまつられるものである。前の皇霊殿もこの神殿も、明治の初の頃は、賢所と御同殿にて御祭があつたが、明治廿ニ年今の宮城あらたに成つて後かやうに各々別殿に祭らせたまふことゝなつたと承つてをる。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月16日水曜日

皇位継承(池辺義象)①皇太子

第一章 皇太子


皇太子の事を述ぶるには、先づ皇位の事を説かねばならぬ。皇位は第一編の第一章に記したやうに、天照大神の定めたまうたものである。天照大神は天つ日の大神とたゝへ奉るに依て、皇位を、あま日嗣ひつぎといふ。これ天つ日の大神の定められたる御位を嗣々つぎつぎに受けたまひて、その位に上りたまふ義である。即ちこの御位は天壌無窮に定つて動かぬものである。皇太子は、この御位を受嗣うけつぎたまふ御子みこといふので、国語に「ひつぎのみ子」と申すのである。この語はあま日嗣ひつぎの御位からいふもので、現天皇げんてんわう御子みこといふ義ではない。併し事実に於て、現天皇の御子がその御位を継がれるから、ひつぎのみ子、即ち皇太子は、現天皇の御子にいふことゝなる。
この詞の義は後までも存して、現天皇の皇子でなくても太子と記した場合が処々に見える。たとへば「日本紀」に足中彦たらしなかつひこ天皇(仲哀)は日本武尊、第二子也稚足彦わかたらしひこ天皇(成務)四十八年立太子とある。これ叔姪の御間柄である。又「続日本紀」に孝謙淳仁の御間柄のごとき、親等よりいへば、卑属親より尊属親に位を禅らせられた処にも皇太子と書してある。これ「ひつぎのみこ」いはゆる、皇位の御子といふ義から、此に至つたものである。
この皇太子となつて、皇位を継がれる御方は、第一が直系親にて承けられるを正法とするのである。これ天照大神の「吾子孫可王」の大詔にもとづかれたるもので、子孫、曾孫、玄孫といふやうに、真直に数へるので、傍系に及ぶを潔としない。持統天皇の時、継承者の事に就て疑議の起つた、その時、葛野王が、
我国家為法也、神代以来子孫相承以襲天位若兄弟相及則乱従此興[1]懐風藻

1 読み下し。「我が国家の法たるや、神代以来、子孫相承し以て天位をげり、若し兄弟相及ぼさば則ち乱これより興る。」
と言はれたのは、く直系親継承の古法を説明せられたものである。併しながら長き御代々の事、万々已むを得ざる場合には、一時の変道として、兄弟相及ぼされたこともある。

又皇位継承者は嫡出を先にし庶出を後にするが、古よりの定まりである。神武天皇の庶出の手研耳たぎしみゝをさし置いて、神淳名川耳かんぬなかはみゝ(綏靖)を立てられたのも、即ちこの義である。またこれと同時に皇位は一系にして二三に分割することを許されぬ法である。即ち皇子二人あれば之を二分し、三人あれば三分にすといふやうな事は禁ぜられてある。(民間でいふ長子権相続法とか総領法とかいふにやゝ似かよつてをる。)いはゆる皇太子が位に即かるれば、その御一人に統治権があつて、他の方々に国土を分封して、主権を分つなどといふことは是認せられない。天智天皇のいはゆる天無二日地無二王[2]主義である。一系連綿といふはたゞに御血統が続いて居るといふのではない、即ち地無二王主義の事をも含めて云ふ語である。故に後世権臣が私を営むために、皇位を二分し二系にて国政を見たまふやうに為しまゐらせたるは天祖以来の憲法に背いたものである。これ学者が正閏論を唱ふる所以である。

2 読み下し。「天に二日なく、地に二王なし。」
皇位は一系にして、嫡出の皇太子、之を継承せられる事、右のごとくであるが、その皇太子いはゆる「ひつぎのみこ」は上代に在ては時の天皇の叡旨のまゝに、必しも一人に限らず、二人をも三人をも定め置かれた。かく多くを定めて天皇崩御の後に、順序として、皇長子相続したまふが例であるけれども場合に依ては、長子を越えて、皇次子皇三子より承けられることもある。
「古事記伝」に上代には日嗣御子ひつぎのみこと申せるは皇子たちの中に取分けてたうとみあがめて殊なるさまに定めたまへるものにて、其は必しも一柱ひとはしらには限らず、或は二柱三柱も坐しことなり(先は皇后の御腹の御兄さては殊なる由ある皇子たちなり)かくて御位は必ず其の日嗣御子の中なるぞつぎ給ひける。其の証は葺不合尊ふきあへずのみことの御子たち四柱の中に五瀬命いつせのみこと若御毛沼命わかみけぬのみことと二柱、太子に坐し、又神武天皇の太子は、神八井耳かんやゐみゝ命と神沼河耳かんぬまかはみゝ命と二柱坐し、崇神天皇の時、豊城とよき命と活目いくめ命(垂仁)とを御夢に因て、嗣に定めたまへるも、この二柱太子に坐すが故なり、垂仁の時に天皇詔五十瓊敷いにしきの命、大足彦おほたらしひこの曰云々とあるも、この二柱太子に坐すが故なり、応神の時に、天皇召大山守おほやまもり命、大鷦鷯おほさゝきの之云々とあるも、この二柱も宇遅稚郎子うちのわきいらつこと共に、三柱太子たりしが故なり云々下略
今按ずるに、かく二人三人までも、皇太子と定置かせられる事は、必竟皇位を大事に思召すよりの御事にて、皇長子必ず賢明といふことも保しがたい叡旨に起つたことであらう。
皇位継承者たる皇太子は、此の如くなると共に男系を以てせられるが正法である。女系は万々已むを得ざる時の御事で、決して正法でない。(この事は後章に委しく述べよう)
皇太子は右の様な条件の下に立たせられるが大宝制令以後は、皇太子の居所を東宮といひ、傅一人あつて、道徳を以て東宮輔導の事を掌らしめ、学士二人あつて、経を執つて奉説を掌らしめるのである。又東宮の事務を扱ふ官庁を春宮坊といつて、大夫一人、大進少進大属少属以下の吏員が附してある。又この坊の被管として、舎人監しやじんげん主膳監しゆぜんげん主蔵監しゆざうげん主殿署しゆでんしよ主書署しゆしよしよ主醬署しゆせうしよ主工署しゆこうしよ主兵署しゆへいしよ主馬署しゆめしよといふ数多の小官庁がある。

その敬称は殿下と称し、御詞おことばを令と称し、申上ることを上啓と称し、いでましの事を行啓と称することこの頃よりの定めである。又太子監国と申して天皇行幸御留守中には代つて万機の政を見たまふので、この時は令を以て勅に代ふる法である

この立太子の礼は、紫宸殿で行はれる。この時には親王以下百官を集めて、宣命がある。その文は、
天皇すめらがおほみことらまと勅命のりたまふおほみこと親王諸王諸臣百官人等天下公民もろもろ聞食止きこしめせとのりたまふ随法爾のりのまにまに可有伎あるべきまつりごと止志氐として、某親王みこ立而たてて皇太子ひつぎのみこ定賜布さだめたまふかれ此之このさまを悟天さとりて百官人等仕奉礼止つかへまつれとのりたまふ天皇すめらが勅命おほみこともろもろ聞食止きこしめせとのりたまふ
といふのである。これは「貞観儀式」(清和)に見えるが、その事実はつとに行はれて居つたことは想像に難くない。

後には漸々やうやう御儀式が整つて「江次第」によればこの御儀の時には、殿上に漢書かんしよの御屛風おんべうふ大宋たいそうの御屛風おんべうふ等を立つることも見えてある。かくて紫宸殿の儀式をはつて清涼殿にて、東宮の官人を任し、壺切剱つぼきりのつるぎといふを天皇より御渡しになることがある。この壺切剱といふは、延喜以後の例で、その本は関白藤原ふぢはらの基経もとつねが延喜天皇の皇太子の時に私に献つたのが例となつて、藤原氏摂関世襲時代の事であるからおほやけの御儀式となつたのである。故に「禁祕抄」(順徳御撰)には壺切代々東宮宝物也と記されてある。後三条天皇は藤原氏の御腹であらせられなかつた為に、立坊の後二十餘年も、この壺切剱を奉上しなかつた。夫故それゆゑ遂にこの天皇は逆鱗あつて「壺切我持つて益なし更に欲しからず」とて御受け遊ばさなかつたと伝へてある。古事談江談抄

もとより三種の神宝とは同日に論ずべきものではないが、今日では千年になんなんとする旧儀であるから、立太子の時には必ず天皇より御渡しになることゝなつて、今上陛下の立坊の時も、宮城にてこの御儀を行はせられたのである。御新定の「立太子式」にも侍従長壺切御剱を御前に奉れば、勅語あつて御剱を皇太子に授けられることになつて居る。かくてこの儀は、将来遠長く行はれることになつた。
「江次第」によればこの御剱は錦囊に入れて御渡しになることになつ て居る。又「禁祕抄」によればその御造は海浦かいぷ蒔絵まきゑ摺目すりかひ装束青滑革あをなめしかは延久御記 海浦蒔絵野剱、麒麟きりん螺鈿文らでんぶん人車記などゝある。然るに治暦四年に火災にかゝつてさやを造り直され、承久の乱の時紛失したによつて、寛元元年に新造せられしが、正嘉二年に至つて、承久に紛失せられたるが勝光明院しようくわうみやうゐんの宝蔵より出現したことがある。
御新定の式は、中古以来の儀とは大分異つて、当日賢所皇霊殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇御陵ならびに先帝の御陵に奉幣せしめられることから、この立太子礼は賢所大前にて行はせられることに規定せられた。この時天皇は黄櫨染くわうろぜんの御袍ごはう、皇太子は黄丹わうにの御袍ごはう(未成年の時は闕腋袍けつてきのはう空頂くうちやう黒幘こくさく)を召されることは、古儀に拠られたものである。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年9月10日火曜日

日本人の微笑(小泉八雲)⑤

THE JAPANESE SMILE (Lafcadio Hearn)

  Sec. 5 五


As I pen these lines, there returns to me the vision of a Kyoto night. While passing through some wonderfully thronged and illuminated street, of which I cannot remember the name, I had turned aside to look at a statue of Jizo, before the entrance of a very small temple. The figure was that of a kozo, an acolyte—a beautiful boy; and its smile was a bit of divine realism. As I stood gazing, a young lad, perhaps ten years old, ran up beside me, joined his little hands before the image, bowed his head and prayed for a moment in silence. He had but just left some comrades, and the joy and glow of play were still upon his face; and his unconscious smile was so strangely like the smile of the child of stone that the boy seemed the twin brother of the god. And then I thought: 'The smile of bronze or stone is not a copy only; but that which the Buddhist sculptor symbolises thereby must be the explanation of the smile of the race.'

私がこんな事を書いて居ると、ある京都の一夜の事が幻にやうに浮んで来る。名は思出せないが、どこか不思議に人ごみのする、明るい通りを通つて居る間に、私は大層小さいお寺の入口の前の地蔵を見にわきへ曲つた。その像はうるはしいお寺の雛僧すうそうの形であつた、そしてその微笑は神々しい写実の物であつた。私は眺めながら立つて居ると、多分十歳程の幼い少年が私のわきへ走りよつて、その像の前に小さい手を合せ、頭を下げてしばらく黙禱した。幾人かの朋友から離れて来たばかりで遊びの楽しさ面白さが未だ顔に残つてゐた、その無意識の微笑は石の雛僧の微笑と不思議に似て居るので、その小児は地蔵と双生児のやうに見えた。そこで私は考へた、『唐金や石の微笑はただの写生ではない、それによつて仏師の象徴して居るものはこの種族の微笑の意味であるに相違ない』

That was long ago; but the idea which then suggested itself still seems to me true. However foreign to Japanese soil the origin of Buddhist art, yet the smile of the people signifies the same conception as the smile of the Bosatsu—the happiness that is born of self-control and self- suppression. 'If a man conquer in battle a thousand times a thousand and another conquer himself, he who conquers himself is the greatest of conquerors.' 'Not even a god can change into defeat the victory of the man who has vanquished himself.' [4]
Such Buddhist texts as these—and they are many—assuredly express, though they cannot be assumed to have created, those moral tendencies which form the highest charm of the Japanese character. And the whole moral idealism of the race seems to me to have been imaged in that marvellous Buddha of Kamakura, whose countenance, 'calm like a deep, still water' [5] expresses, as perhaps no other work of human hands can have expressed, the eternal truth: 'There is no higher happiness than rest.' [6] It is toward that infinite calm that the aspirations of the Orient have been turned; and the ideal of the Supreme Self-Conquest it has made its own. Even now, though agitated at its surface by those new influences which must sooner or later move it even to its uttermost depths, the Japanese mind retains, as compared with the thought of the West, a wonderful placidity. It dwells but little, if at all, upon those ultimate abstract questions about which we most concern ourselves. Neither does it comprehend our interest in them as we desire to be comprehended. 'That you should not be indifferent to religious speculations,' a Japanese scholar once observed to me, 'is quite natural; but it is equally natural that we should never trouble ourselves about them. The philosophy of Buddhism has a profundity far exceeding that of your Western theology, and we have studied it. We have sounded the depths of speculation only to fluid that there are depths unfathomable below those depths; we have voyaged to the farthest limit that thought may sail, only to find that the horizon for ever recedes. And you, you have remained for many thousand years as children playing in a stream but ignorant of the sea. Only now you have reached its shore by another path than ours, and the vastness is for you a new wonder; and you would sail to Nowhere because you have seen the infinite over the sands of life.'
4 Dhammapada.
5 Dammikkasutta.
6 Dhammapada.
それは昔の事であつた、しかしその当時浮んだ考は今もやはり私には本当と思はれる。仏教美術の源は如何に日本の土地に親しみがなくとも、それでも日本人の微笑は菩薩の微笑と同じ思想、即ち、自己抑制と自己征服から生ずる幸福を表はして居る。『戦場に於て千々の敵につよりは独り己に克つもの、彼こそ最上の戦勝者なれ』『天も魔王も梵天もこの常に己を御し自ら制する人の勝利を転じて敗亡となすこと能はず註四』こんな仏教の文句は沢山ある、そしてこんな文句は日本人の性格の最高の美点である道徳的傾向を創造したと仮定する事はできぬが、たしかに表はして居る。そして日本人種の道徳的理想主義は凡て鎌倉のあの驚くべき大仏の像になつて居るやうに思はれる、その容貌は『深い静かな水のやうに落ちついて註五』人間の手でできたどんなほかの作品も表はす事のできぬやうに『寂滅に勝れる楽あるなし註六』と云ふ永久の真理を表はして居る。東洋の向上心はその無限の平静の方へ向つて居るのである、そして無上の自己征服の理想を自分の理想として居る。今日でも表面は、早晩根柢までも動かすに相違ない新影響のために動揺して居るが、日本人の心は西洋の思想と比べては驚くべき平静を保つて居る。日本人は私共が最も気にして居る究極の抽象的問題をたとへ念頭に置いて居るにしてもそれは極めて少い。なほ又私共が会得される事を望むやうに、日本人は私共のそれ等の問題に関する興味を会得しない。ある日本の学者は一度私に云つた、『君が宗教的研究に無頓着で居られないのは、全く自然であるが、私共がそれに対して餘り心を労しないのも同じく自然である。仏教の哲学は君達の西洋の神学よりも遥かにすぐれた深さをもつてゐて、私共はそれを研究して居る。私共は思想の深さを測つて、その深い底の下に測り知られない深さのある事を見出すばかりである。私共は思想の力で達し得べき最も遠い境まで航海したが、地平線が永久に退却する事を見出すばかりである。しかし、君達は、何千年以来、海を知らないで、いつも川の中で遊んで居る子供等のやうである。只君達は今私共のみちと違つた途でその岸に達した、そしてその渺茫べうばうたる物は、君達にとつては新しい驚異である。そして君達は、人生の砂の上の無窮を見たから、無何有之郷へ航海するであらう』
註四。Dhammapada. 法句経、この訳文は国訳大蔵経による。
註五。Dammikkasutta. 法行経。
註六。Dhammapada. 法句経、国訳大蔵経による。
Will Japan be able to assimilate Western civilisation, as she did Chinese more than ten centuries ago, and nevertheless preserve her own peculiar modes of thought and feeling? One striking fact is hopeful: that the Japanese admiration for Western material superiority is by no means extended to Western morals. Oriental thinkers do not commit the serious blunder of confounding mechanical with ethical progress, nor have any failed to perceive the moral weaknesses of our boasted civilisation. One Japanese writer has expressed his judgment of things Occidental after a fashion that deserves to be noticed by a larger circle of readers than that for which it was originally written:

千年以上の昔、日本は支那の文明を消化して、しかも、特有の思想感情の法式を保存したやうに、西洋の文明を消化する事はできるであらうか。一つ著しく有望な事実がある。それは日本人の西洋の物質的優勝に対する讃嘆は西洋の道徳までは決して及んでゐない事である。東洋の思想家は機械的の進歩と倫理上の進歩とを混同したり、私共の自慢の文明の道徳的弱点を認めなかつたりするやうな重大な誤りはしない。或日本の記者は西洋の事物に関する判断を、もとの読者よりも、もつと広い範囲の読者に読まれる価値があるやうな風に書いて居る、――

'Order or disorder in a nation does not depend upon some-thing that falls from the sky or rises from the earth. It is determined by the disposition of the people. The pivot on which the public disposition turns towards order or disorder is the point where public and private motives separate. If the people be influenced chiefly by public considerations, order is assured; if by private, disorder is inevitable. Public considerations are those that prompt the proper observance of duties; their prevalence signifies peace and prosperity in the case alike of families, communities, and nations. Private considerations are those suggested by selfish motives: when they prevail, disturbance and disorder are unavoidable. As members of a family, our duty is to look after the welfare of that family; as units of a nation, our duty is to work for the good of the nation. To regard our family affairs with all the interest due to our family and our national affairs with all the interest due to our nation—this is to fitly discharge our duty, and to be guided by public considerations. On the other hand, to regard the affairs of the nation as if they were our own family affairs—this is to be influenced by private motives and to stray from the path of duty. …

『一国民の秩序と不秩序とは空から下る物や地から出る物によるのではない。それはその人民の気質によつて定まるのである。公衆の気質が秩序と不秩序の方へ向ふその要は、他利的及び自利的動機の分れる点である。もし公衆がおもに他利的の考慮によつて動かされる場合には、秩序は保たれるが、自利的であれば、乱雑は免れない。他利的考慮とは正しく義務を守る念を起させるやうな考慮を云ふ、それが行はれると家庭にあつても、社会にあつても、国家にあつても、平和と繁栄を来す。自利的考慮とは利己的な動機から出て来る考慮である。それが力を得ると、争乱と紛擾は避け難い。家庭の一員としては、私共の義務はその家庭の幸福を求むる事であり、国家の一員としては、国家のために働く事である。私共の家族に対してそのためになるやうにとの考を以て家族の事を考へる事、国家に対して、そのためになるやうにとの考を以て国家の事を考へる事、――これは適当に私共の義務を果し、公共的の念慮によつて導かれる事になる。それに反して、国家の事を自分の家庭の事のやうに考へる事、――これは自己的な動機に動かされて、義務の途から離れる事になる。……

'Selfishness is born in every man; to indulge it freely is to become a beast. Therefore it is that sages preach the principles of duty and propriety, justice and morality, providing restraints for private aims and encouragements for public spirit.. . . . What we know of Western civilisation is that it struggled on through long centuries in a confused condition and finally attained a state of some order; but that even this order, not being based upon such principles as those of the natural and immutable distinctions between sovereign and subject, parent and child, with all their corresponding rights and duties, is liable to constant change according to the growth of human ambitions and human aims. Admirably suited to persons whose actions are controlled by selfish ambition, the adoption of this system in Japan is naturally sought by a certain class of politicians. From a superficial point of view, the Occidental form of society is very attractive, inasmuch as, being the outcome of a free development of human desires from ancient times, it represents the very extreme of luxury and extravagance. Briefly speaking, the state of things obtaining in the West is based upon the free play of human selfishness, and can only be reached by giving full sway to that quality. Social disturbances are little heeded in the Occident; yet they are at once the evidences and the factors of the present evil state of affairs. . . . Do Japanese enamoured of Western ways propose to have their nation's history written in similar terms? Do they seriously contemplate turning their country into a new field for experiments in Western civilisation? . . .

『利己主義は生れつき誰にでもある、それに自由に耽る事は動物になる事である。それゆゑ聖人は義務と中庸と正義と道徳の道を説いて、利己の目的を抑へる事と公共の念を励ます事を教へたのである。……私共は西洋文明について知つて居る所では、その文明は数百年の間乱雑な状態で悶えながら進んで、最後に多少の秩序ある状態に達したのであるが、この秩序といへども君主と臣下、親と子の間の自然の不変の区別とそれに伴ふ権利義務の原理に基礎を置いてゐないから、人間的野心と目的の発達と共にたえざる変化に影響され易い。利己的野心によつてその人の行為が支配されるやうな人には至極適当して居るので、日本に於て或種類の政治家が、この制度を採用しようと努めたのは当然である。浅薄な見方から云へば、西洋の社会の形は非常に好もしい、即ち昔から人間の欲望の自由なる発達の結果であるから、その社会の形は奢侈と贅沢の丁度極端を表はして居る。略言すれば、西洋で到達する事物の状態は人類の利己主義を充分に発揮する事を基として居る、それでその性質を充分に発揚して始めて達せられる。社会の不穏は西洋では念頭に置かれない、しかも、それが直ちに現在の悪い社会状態の証拠であり、又要素でもある。……西洋事物を好む日本人は、同一の条件で日本の歴史を書きたいと主張するのであらうか。彼等は本気でその国を西洋文明の実験の新天地としようと考へて居るのであらうか。……

'In the Orient, from ancient times, national government has been based on benevolence, and directed to securing the welfare and happiness of the people. No political creed has ever held that intellectual strength should be cultivated for the purpose of exploiting inferiority and ignorance. . . . The inhabitants of this empire live, for the most part, by manual labour. Let them be never so industrious, they hardly earn enough to supply their daily wants. They earn on the average about twenty sen daily. There is no question with them of aspiring to wear fine clothes or to inhabit handsome houses. Neither can they hope to reach positions of fame and honour. What offence have these poor people committed that they, too, should not share the benefits of Western civilisation? . . . By some, indeed, their condition is explained on the hypothesis that their desires do not prompt them to better themselves. There is no truth in such a supposition. They have desires, but nature has limited their capacity to satisfy them; their duty as men limits it, and the amount of labour physically possible to a human being limits it. They achieve as much as their opportunities permit. The best and finest products of their labour they reserve for the wealthy; the worst and roughest they keep for their own use. Yet there is nothing in human society that does not owe its existence to labour. Now, to satisfy the desires of one luxurious man, the toil of a thousand is needed. Surely it is monstrous that those who owe to labour the pleasures suggested by their civilisation should forget what they owe to the labourer, and treat him as if he were not a fellow-being. But civilisation, according to the interpretation of the Occident, serves only to satisfy men of large desires. It is of no benefit to the masses, but is simply a system under which ambitions compete to accomplish their aims. . . . That the Occidental system is gravely disturbing to. the order and peace of a country is seen by men who have eyes, and heard by men who have ears. The future of Japan under such a system fills us with anxiety. A system based on the principle that ethics and religion are made to serve human ambition naturally accords with the wishes of selfish individuals; and such theories as those embodied in the modem formula of liberty and equality annihilate the established relations of society, and outrage decorum and propriety. . . .Absolute equality and absolute liberty being unattainable, the limits prescribed by right and duty are supposed to be set. But as each person seeks to have as much right and to be burdened with as little duty as possible, the results are endless disputes and legal contentions. The principles of liberty and equality may succeed in changing the organisation of nations, in overthrowing the lawful distinctions of social rank, in reducing all men to one nominal level; but they can never accomplish the equal distribution of wealth and property. Consider America. . . . It is plain that if the mutual rights of men and their status are made to depend on degrees of wealth, the majority of the people, being without wealth, must fail to establish their rights; whereas the minority who are wealthy will assert their rights, and, under society's sanction, will exact oppressive duties from the poor, neglecting the dictates of humanity and benevolence. The adoption of these principles of liberty and equality in Japan would vitiate the good and peaceful customs of our country, render the general disposition of the people harsh and unfeeling, and prove finally a source of calamity to the masses. . .

『東洋では昔から、その国の政府は仁を基として、人民の安寧幸福をはかる事に心を使つた。如何なる政治上の信条を有する者も、野卑無学を利用するために智力を磨くべきだと考へた者はなかつた。……この帝国の住民の大多数は手の労働で生計を営んで居る。如何に勤勉でも日々の缺乏を充たすだけの儲けは容易には得られない。彼等は平均一日に二十銭ばかりを儲ける。立派な着物を着よう、宏壮な家に住まう、と望む事は問題にならない。名誉評判の地位に達する事は望めない。これ等の貧しい人々は、さらに西洋文明の利益をけられない事は如何なる罪を犯したためであらうか。……彼等に欲望があつて彼等を向上させる事にならないからだと云ふ臆説で彼等の境遇を説明する者がある。こんな想像は不道理である。彼等も欲望はある、しかしそれを満足させる力に限りがある、人間としての彼等の義務はそれを制限する、そして肉体的に人間に可能な労働の分量はそれを限つて居る。機会の許す限り彼等は沢山の物を仕上げる。彼等の労働の最上最優の物は富める人々のために保留して、最劣最下の物は自らの使用として残す。しかも、人類社会に於て、労働のおかげで存在しない者はない。一人の贅沢な人の欲望を満足させるためには千人の労働を必要とする。労働のおかげで、彼等の文明から思ひついた快楽を享けて居る人々はそのおかげを忘れて、労働者を同胞人類でないやうな取扱をする事は全く奇怪千万である。しかし西洋の解釈によれば、文明はただ大きな欲望の人々を満足させる事になるだけである。それは大多数の人々のためにならない、ただ野心家がその目的を果すために競争する制度に過ぎない。……西洋の制度は国の平和や秩序をひどく乱す物である事は眼ある人に見え、耳ある人に聞える事である。こんな制度の下に日本を置く事は私共をして心配にたへざらしめる。倫理と宗教が人間の野心にふやうに作られる主義を基とした制度は当然利己的な人間の欲望と一致して居る。そして自由平等と云ふ近代の信条に含まれたやうな説は社会のきまつた関係を破壊し礼儀礼節を滅却する。……絶対の自由絶対の平等は得られないから、権利と義務で定めた制限を置くやうに考へられて居る。しかし銘々ができるだけ多くの権利を求めて、できるだけ少い義務を負担しようとするから、その結果はたえざる諍論と法律上の争になる。自由平等の主義は、社会階級の区別をくつがへして凡ての人々を一つの名ばかりの水平線にもつて行く事で、国家の組織を変へる事に成功するかも知れない、しかし、その主義は決して富と財産の平分をする事はできない。アメリカを見れば分る。……人及びその身分の権利が、富の程度によるやうに作られて居る時には、多数の人々は貧しいから、その権利を確立する事はできない、しかるに富んだ少数の人々はその権利を主張して、社会の認可の下に、仁義道徳の命を顧みないで、貧しい人々に対して圧制的な義務を要求するであらう。日本に於てこの自由平等の主義を採用する事は善良平和な風俗を害し、人民一般の気質を苛酷不人情ならしめ、結局大多数の人には不幸の源となるであらう。……

'Though at first sight Occidental civilisation presents an attractive appearance, adapted as it is to the gratification of selfish desires, yet, since its basis is the hypothesis that men' 's wishes constitute natural laws, it must ultimately end in disappointment and demoralisation. . . . Occidental nations have become what they are after passing through conflicts and vicissitudes of the most serious kind; and it is their fate to continue the struggle. Just now their motive elements are in partial equilibrium, and their social condition' is more or less ordered. But if this slight equilibrium happens to be disturbed, they will be thrown once more into confusion and change, until, after a period of renewed struggle and suffering, temporary stability is once more attained. The poor and powerless of the present may become the wealthy and strong of the future, and vice versa. Perpetual disturbance is their doom. Peaceful equality can never be attained until built up among the ruins of annihilated Western' states and the ashes of extinct Western peoples.' [7]
7 These extracts from a translation in the Japan Daily Mail, November 19, 20, 1890, of Viscount Torio's famous conservative essay do not give a fair idea of the force and logic of the whole. The essay is too long to quote entire; and any extracts from the Mail's admirable translation suffer by their isolation from the singular chains of ethical, religious, and philosophical reasoning which bind the Various parts of the composition together. The essay was furthermore remarkable as the production of a native scholar totally uninfluenced by Western thought. He correctly predicted those social and political disturbances which have occurred in Japan since the opening of the new parliament. Viscount Torio is also well known as a master of Buddhist philosophy. He holds a high rank in the Japanese army.
『利己的欲望を満足させる事に実際適して居るから一見して西洋文明は好もしく見えるが、しかしその根本は、人間の願望は自然の法則であると云ふ臆説に基して居るから、結局失望と道徳頽廃に終るに相違ない。……西洋の諸国民は、最も深刻な種類の争乱と興敗を経て、今日の状態となつて居る、そしてその争闘を続けるのがその運命である。丁度今彼等の動機となる要素は幾分平均を保つて居るので、社会状態は多少秩序を保つて居る。しかし一旦このあやうい平均の乱れる事があれば、新しい争闘と苦悩の時期を経たのち、一時の平静がもう一度得られるまで、もう一度混乱と変動に陥るであらう。現在の貧しい人々や無力な人々は将来の富んだ人々強い人々となつて、その反対の人々はその逆になるであらう。永久の動乱は彼等の運命である。平和な平等は滅亡した西洋諸国の廃墟と絶滅した西洋の人々の屍の間に建てられるまでは決して到達される事はない註七
註七。これは鳥尾(小弥太、得庵)子爵の名高い保守的論文を、一八九〇(明治二十三年)十一月十九日、二十日、『ジャパン・メイル』が翻訳してのせし物の抄であるが、全体の力と論理が充分に表はれてゐない。その論文は全部引用するには長すぎる、そして、『メイル』の立派な翻訳をどう云ふ風に抜いても、その抜いたために、その文章の色々な部分を結合して居る倫理的宗教的及び哲学的推理の鎖が弱くなる。さらにこの論文は西洋思想に全然影響されない、日本の学者の発表した物として注目に値する。彼は新しい議会の開会以来日本に起つた社会上政治上の動乱を正しく豫言した。鳥尾子爵は又仏教哲学者として名高い。日本陸軍では高い位地の人である。
Surely, with perceptions like these, Japan may hope to avert some of the social perils which menace her. Yet it appears inevitable that her approaching transformation must be coincident with a moral decline. Forced into the vast industrial competition of nation's whose civilisations were never based on altruism, she must eventually develop those qualities of which the comparative absence made all the wonderful charm of her life. The national character must continue to harden, as it has begun to harden already. But it should never be forgotten that Old Japan was quite as much in advance of the nineteenth century morally as she was behind it materially. She had made morality instinctive, after having made it rational. She had realised, though within restricted limits, several among those social conditions which our ablest thinkers regard as the happiest and the highest. Throughout all the grades of her complex society she had cultivated both the comprehension and the practice of public and private duties after a manner for which it were vain to seek any Western parallel. Even her moral weakness was the result of an excess of that which all civilised religions have united in proclaiming virtue—the self-sacrifice of the individual for the sake of the family, of the community, and of the nation. It was the weakness indicated by Percival Lowell in his Soul of the Far East, a book of which the consummate genius cannot be justly estimated without some personal knowledge of the Far East. [8] The progress made by Japan in social morality, although greater than our own, was chiefly in the direction of mutual dependence. And it will be her coming duty to keep in view the teaching of that mighty thinker whose philosophy she has wisely accepted [9]—the teaching that 'the highest individuation must be joined with the greatest mutual dependence,' and that, however seemingly paradoxical the statement, 'the law of progress is at once toward complete separateness and complete union.
8 In expressing my earnest admiration of this wonderful book, I must, however, declare that several of its conclusions, and especially the final ones, represent the extreme reverse of my own beliefs on the subject. I do not think the Japanese without individuality; but their individuality is less superficially apparent, and reveals itself much less quickly, than that of Western people. I am also convinced that much of what we call 'personality' and 'force of character' in the West represents only the survival and recognition of primitive aggressive tendencies, more or less disguised by culture. What Mr. Spencer calls the highest individuation surely does not include extraordinary development of powers adapted to merely aggressive ends; and yet it is rather through these than through any others that Western individuality most commonly and readily manifests itself. Now there is, as yet, a remarkable scarcity in Japan, of domineering, brutal, aggressive, or morbid individuality. What does impress one as an apparent weakness in Japanese intellectual circles is the comparative absence of spontaneity, creative thought, original perceptivity of the highest order. Perhaps this seeming deficiency is racial: the peoples of the Far East seem to have been throughout their history receptive rather than creative. At all events I cannot believe Buddhism—originally the faith of an Aryan race—can be proven responsible. The total exclusion of Buddhist influence from public education would not seem to have been stimulating; for the masters of the old Buddhist philosophy still show a far higher capacity for thinking in relations than that of the average graduate of the Imperial University. Indeed, I am inclined to believe that an intellectual revival of Buddhism—a harmonising of its loftier truths with the best and broadest teachings of modern science—would have the most important results for Japan.
9 Herbert Spencer. A native scholar, Mr. Inouye Enryo, has actually founded at Tokyo with this noble object in view, a college of philosophy which seems likely, at the present writing, to become an influential institution. 
たしかに、このやうな知覚を以て、日本は自分をおびやかす社会的危険を幾分避けられるであらう。しかし日本にまさに来らんとする変化は、道徳的衰亡を来す事は避けられないやうに思はれる。その文明が愛他主義に基づいてゐない諸国民と、大きな産業上の競争をせねばならなくなつたので、日本は、これまでそれが比較的少い事が全く日本生活の不思議な美点となつてゐた凡ての悪徳を、結局養成して行かねばならない。国民性はもう悪化しかけて来たが、引続き悪化せねばならない。しかし古い日本は、物質的には十九世紀の日本よりも劣つてゐたが、道徳的には餘程進んでゐた事を忘れてはならない。日本は道徳を合理的にしたあとで、それを本能的にしてゐた。日本は私共の思想家が最も幸福な最も高尚な社会状態と考へる物を色々、狭い範囲に於てであるが、実現してゐた。複雑な社会の凡ての階級を通じて、日本は公の及び私の義務を会得して実行する事を養成して来たが、その風は西洋ではその比を見出す事はできない。日本の道徳的弱点でも、凡ての進んだ宗教が一致して美徳と賞讃して居る物――即ち家族、国体、及び国家のために一身を犠牲にする事――が極端に進んだ結果であつた。それはパーシヴァル・ロウヱルが、その『極東の魂』――極東の多少の註八実際的智識がなければ、その完全な天才が充分に評価ができないその書物――に示してある弱点であつた。日本が社会道徳の方面でなした進歩は、私共自身の進歩より大きいけれども、おもに相互にたより合ふと云ふ方面であつた。それで日本の将来の義務は、その人の哲学を日本が賢くも採用したその偉大なる思想家註九の教を忘れない事である――その教は、『最も高い独居は最も大きな相互依存と伴はれねばならない』と云ふ事、それから一見如何にも相反するやうに見える文句ではあるが、『進歩の法則は完全なる別居と同時に完全なる協同の方へ向ふ』と云ふ事である。
註八。この名著に対しては私は熱心なる賞讃を表はすけれども、その結論の多くの物殊に最終の物は、その問題に対する私自身の信ずる事と極端に反して居る事を私は公言せねばならない。私は日本人は個性をもたないとは思はない。ただ日本人の個性は西洋人の個性程表面的に現はれない、又現はれ方も遥かに遅い。私は又私共が西洋で『人格』及び『品性の力』と云つて居る物の多くは、多少修養で変装された原始的な攻撃的傾向の残存と承認を表はすに過ぎないと信じて居る。スペンサー氏の所謂最高の独居は単に攻撃的目的に応用された力の異常な発達を含んでゐない、しかし西洋の個性が最も普通に容易に表はれるのは、他の方法よりはむしろこの方法によるのである。見たところ、日本の智力界の弱点と人に思はせる物は、自発、創造的思想、最高種類の認識力の比較的に缺乏して居る事である。恐らくさう見える缺点は人種的である。極東の人々は、歴史を通じて、創造的でなくて、感受的であつたらしい。とにかく私は仏教――元来アリヤン種族の信仰――はそれに対して責任があるとは証明されないと思ふ。普通教育から仏教の勢力を全然除外する事は奨励すべきではなかつたらう、古い仏教哲学者の方がやはり、帝国大学の普通の卒業者の才能よりも広く考へる方の遥かに優れた才能を示して居る。実際私は仏教の智力的復活――近代科学の最良最広の教とその高い方の信仰とを調和した物――は日本に取つて最も重大な結果を及ぼすであらうと信ずる。井上円了氏と云ふ日本の学者は東京に、全くこの目的で哲学の専門学校(哲学録、現在の東洋大学の前身)を創立した、その学校は今のところ有力な学校となるらしい。
註九。ハーバート・スペンサー。
Yet to that past which her younger generation now affect to despise Japan will certainly one day look back, even as we ourselves look back to the old Greek civilisation. She will learn to regret the forgotten capacity for simple pleasures, the lost sense of the pure joy of life, the old loving divine intimacy with nature, the marvellous dead art which reflected it. She will remember how much more luminous and beautiful the world then seemed. She will mourn for many things—the old-fashioned patience and self-sacrifice, the ancient courtesy, the deep human poetry of the ancient faith. She will wonder at many things; but she will regret. Perhaps she will wonder most of all at the faces of the ancient gods, because their smile was once the likeness of her own.

日本の青年は今軽蔑の風を示して居るその過去に対して、日本はいつかは必ず回顧する事、丁度私共自身が古いギリシヤの文明を回顧するやうであらう。簡易な楽しみに対する才能の忘れられた事、人生の純な喜びに対する感性のなくなつた事、自然との古い愛すべき聖い親密な交際、それを反映して居る今はない驚くべき藝術、を惜むやうになるであらう。その当時世界が如何に遥かにもつと輝いて美しく見えたかを想ひ出すであらう。古風な忍耐と、犠牲、古い礼譲、古い信仰の深い人間の詩、――日本は悔むべき物が沢山あらう。日本は多くの物を見て驚くであらうが、又残念に思ふであらう。恐らく最も驚く物は昔の神々の顔であらう、何故なればその微笑は一度は自分の微笑であつたのだから。


ラフカディオ・ハーン「知られぬ日本の面影」『小泉八雲全集 第三巻』、第一書房、大正15年