2019年2月2日土曜日

表音的假名遣は假名遣にあらず④

  四


前にも述べた通り、萬葉假名專用時代に於ても、片假名平假名發生後に於ても、假名は音を寫す文字として用ゐられた。當時の假名の遣ひ方は、同音の文字であればどんな文字を用ゐてもよいといふ點で現代の表音的假名遣とは違つてゐるが、音を寫すといふ主義に於ては之と同一である。しかるに、もと違つた音を表はしてゐたいくつかの假名が同音となつてしまつた鎌倉時代に於て、それらの假名がやはり假名としては別々のものであり、隨つて區別して用ゐるべきものであるといふ考の下に、その用法を定めようとしたのが假名遣であるが、この場合に、その假名を定める基準たるべきものは音そのものに求める事は絕對に不可能であつて(音としてはこれらの假名は全く同一であつて、區別がないからである)、之を他に求めなければならない。そこで、新に基準として取り上げられたのが語であつて、音は言語に於ては、それぞれ違つた意味を有する語の外形として、或は外形の一部分として、常にあらはれるものである故に、その一々の語について、同音の假名の何れを用ゐるかをきめれば、一定の語には常に一定の假名が用ゐられて、假名の用法が一定するのである。かやうに假名遣に於て假名の用法を決定する基準が語であつた事は、下官集に於ても假名文字遣に於ても、各の假名の下に、之を用ゐるべき語を擧げてゐるによつても知られるが、また、源親行が父光行と共に作つた源氏の註釋書「水原抄」の中の左の文によつても了解せられる。
眞字は文字定者也。假字は文字づかひたがひぬれは義かはる事あるなり水原(河海抄卷十二梅枝「まむなのすゝみたるほどにかなはしとけなきもじこそまじるめれとて」の條に引用したものによる)
これは、「漢字は語每に用ゐる文字がきまつてゐる。假名は音に從つて書けばよいやうに思はれるけれども、その文字遣、卽ち假名遣を誤るとちがつた意味になる事がある」と解すべきであらう(源氏の原文の意味はさうではあるまいが、光行はさう解釋したと見られる)。假名遣を誤つた爲に他の意味になるといふのは、同音の假名でも違つた假名を用ゐれば、別の語となつて、誤解を來す事がある事を指していふのであつて、かやうに、假名遣を意味との關聯に於て說いてゐる事は、假名は語によつて定まるもの、卽ち假名の用法は語を基準とすると考へてゐた事を示すものである
〔引用者註〕《十世紀以前の「古典かなづかい」の時期は発音するように仮名を使う時期であった。右に述べた音韻変化の後も、使わなくなった発音にかつて対応していた仮名の使用はやめて、使っている発音にかつて対応していた仮名を残せば、「古典かなづかい」の時期と同じように、発音するように仮名を使うことができた。そうすれば、同じ原理で仮名を使っていくことができた。発音するように仮名を使うという原理を「表音的表記」と名付けておく。音韻が変化し、音韻が減ったら仮名も減らすことにすれば、音韻と仮名との一対一の対応はずっと保たれ、つねに発音するように仮名を使えばよいことになり、「表音的表記」という表記原理が継続していくことになる。しかし日本語の表記システムはそうはしなかった。選択された原理は「発音するように仮名を使う」ではなく、「かつて書いていたように仮名を使う」であった。》(今野真二『かなづかいの歴史 日本語を書くということ』、中公新書、平成26年)
今野氏の言はれる「表音的表記」卽ち「発音するように仮名を使う」やり方を「假名遣」とは呼ばないことは國語學に於いて一貫した見解のやうである。何故なら、音韻が變化した後も「かつて書いていたように仮名を使う」爲に同音異體の假名の遣ひ分けを學ぶ必要が生じて初めて「假名遣」が人々の觀念に上つてきたからである。今野氏は終始「古典かなづかい」期は音韻と假名が一對一で對應してゐたと書いてをられるが、これは先にも指摘したやうに事實と異なるのである。古典假名遣の時代、卽ち表音的表記の時代にも「同音の文字であればどんな文字を用ゐてもよ」かつたのであり(=變體假名)、明治以降の表音主義者の主張するが如き「一音一字」の狀態は嘗て存在したことがなかつたといふのが歷史的事實なのである。平安朝初期のア行とヤ行の[エ]の違ひがなくなつた時に「使わなくなった発音にかつて対応していた仮名の使用はやめ」ずに𛀁を[エ]を表す假名グループに包攝してしまつたことからもさう言へるし、が問題となつた時でさへ夫々どちらかの使用をやめようとはしなかつた事實からも亦さう言ふことができるのである。不要な假名を廢して「一音一字」に統一しようなどといふ思想は、古來わが國語の世界には存在した例しがないのであり、謂はば「一音多字」の狀態が一貫した自然なあり方だと謂ふべきなのである
それでは、假名遣に於けるかやうな主義は定家などが全く新しく考へ出したものかといふに、必ずしもさうであるまいと思はれる。全體、當時の假名遣が、何を據り所として定められたかについては、假名文字遣は何事をも語つてゐないが、下官集には、「見舊草子見之」とあつて、假名文學の古寫本に基づいてゐる事を示してゐる。古寫本といつても何時代のものか明かに知る由もないが、平安朝中期以後、國語の音變化の結果として、もと區別のあつた二つ以上の音が同音となり、之をあらはした別の假名が同音に讀まれるやうになつたが、音と文字とは別のものである故、かやうに音がかはつた後も、假名(ことに假名ばかりで書く平假名)はもとのものを用ゐる傾向が顯著であつて、時としては同音の他の假名を用ゐる事があつても、大體に於て古い時代の書き方が保存せられてゐた時代がかなり永くつゞいたものと考へられる。しかるに時代が下つて鎌倉時代に入ると、その實際の發音が同じである爲、同音の假名を混じ用ゐる事が多くなり、同じ語が人によつて違つた假名で書かれて統一のない場合が少くなかつたので、古寫本に親しんだ定家は、前代にくらべて當時の假名の用法の混亂甚しきを見て、これが統一を期して假名遣を定めようとしたものと思はれる。

さて、右の如く、もと異音の假名が同音になつた後も、なほ書いた形としてはもとの假名が保存せられて、他の同音の假名を用ゐる事が稀であつたのは、何に基づくのであらうか。これは、もと違つてゐた音が、同音になつた後にもなほ記憶せられてゐた爲とはどうしても考へられない。旣に音韻變化が生じてしまつた後にはもとの音は全然忘れられてしまふのが一般の例であるからである。これは、古寫本の殘存又はその轉寫本の存在などによつて假名で寫した語の古い時代の形が之を讀む人の記憶にとゞまつてゐた爲であるとしか考へられない。卽ち、古く假名で書いた或語の形は、後に同音になつた假名でも、その中の或一つのものに定まつてゐた爲、その語とその假名との間に離れがたき聯關を生じて、自分が新に書く場合にも、その語にはその假名を用ゐるといふ慣習がかなり强かつたのであると解すべきであらう。さすれば、明瞭な自覺はなかつたにせよ、旣にその時分から、語によつて假名がきまるといふ傾向があつたとしなければならないのである

一般に文字を以て言語を寫す場合に、いかなる語であるかに從つて(たとひ同音の語でも意味の異るに從つて)之に用ゐる文字がきまるのは決して珍らしい事ではなく、表意文字たる漢字に於てはむしろその方が正しい用法である。漢語を表はす場合は勿論のこと(同じコーの音でも、「工」「幸」「甲」「功」「江」「行」「孝」「效」「候」など)漢字を以て純粹の國語を表はす場合にもさうである。(「皮」と「河」、「橋」と「箸」、「琴」と「事」と「言」など)唯、漢字を假りて國語の音を表はす場合(萬葉假名)はさうでなく、同じ語を種々の違つた文字で表はす事上述の如くであるが、この場合には漢字が語を表はさず音を表はすからであつて、しかも、さういふ場合にも、或特殊の語(地名、姓、人名など)に於ては語によつて之を表はす文字が一定する傾向があつた事、これも上に述べた通りである。假名の場合は漢字とは多少趣を異にし、同音の假名は、文字としては違つたものであつても同じ假名と見做す故、同じ語をあらはす文字の形は必しも常に一定したものではないけれども、或語のオ音には常に「を」(又は之と同じ假名))を用ゐて、「お」又は「ほ」の假名(又はそれらと同じ假名)を用ゐないといふ事になれば、その語と「を」(及び之と同じ假名)との間には密接な關係を生じて、その假名でなければ直にその語と認めるに困難を感じ、又は他の語と誤解するやうになるのは自然である。

かやうに一方に於て漢字が語によつて定まるといふ事實があり、又一方に於て、假名で書く場合にも、同音でありながら違つたものと認められた假名は、語によつてその何れか一つを用ゐる傾向があつたとすれば、新に假名遣の問題が起り、かやうな同音の假名の用法の制定が企てられた場合に、語を基準とするのは最自然なことといはなければならない(音を基準にしようとしても不可能な事は前述の通りである)。

以上述べ來つた如き事情と理由とによつて、假名遣といふものは、それが問題となつた當初から、問題の假名を、語を表はすものとして取扱つて來たのであり、その場合に假名を定める基準となつたものは、單にどんな音を表はすかでなく、更にそれより一步を進めた、どんな語を表はすかに在つたのである

かやうにして、萬葉假名の時代から平假名片假名發生後に至るまで、純粹に音をあらはす文字としてのみ用ゐられて來た假名は、少くとも假名遣といふ事が起つてからは、單なる音を表はす文字としてでなく、語を表はす文字として用ゐられ、明かにその性格を變じたのである。(但し、この時からはじめて語を表はす文字となつたか、又はもつと前からさうなつてゐたかは問題であつて、前に述べた所によれば、少くとも假名遣に關係ある問題の假名については以前よりそんな傾向はあつたとするのが妥當なやうであり、その他の假名については明瞭な證據が無いからわからないが、やはりそんな性質のものと考へられるやうになつてゐたかも知れない。同じ音の假名ならどんな假名を用ゐてもよいからといつて、それ故、音を表はすだけのものであると速斷するのは危險である。何となれば、萬葉假名の時代と違つて「天地」の詞や「伊呂波」のやうなものが行はれてゐた時代には、それの中に現れた假名だけが代表的のものと認められ、これと違つた假名は今の變體假名と同じく、代表的の假名と全く同樣なものと考へられ、從つて、假名で書いた語は、たとひ假名としての形は違つてゐても、或一定の假名で書かれてゐると考へた事もあり得べきであるからである)。

(『國語國字敎育史料總覽』、國語敎育硏究會、昭和44年)

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