2019年2月9日土曜日

「現代かなづかい」の不合理――2 表音主義と音韻①現代かなづかいは表音主義ではない?

二 表音主義と音韻


本章一の冒頭に廣田氏の言葉を引用して、「現代かなづかい」の原則が表音主義にあることを明らかにしました。表音主義とは一音一字にして一字一音といふことであります。それが可能ならば、これほど簡便容易なことはない。しかし、一の細則で見たとほり、「現代かなづかい」は決してこの原則をそのまま適用したものではありません。そこで廣田氏は次のやうに但書をほどこしてをります。
このように、現代かなづかいは、一音一字、一字一音の表音主義を原則とはするが、かなを発音符号として物理的な音声をそのまま写すものではなく、どこまでも正書法として、ことばをかなで書き表わすためのきまりである。したがって、表音主義の立場から見て、そこにはいくつかの例外を認めざるを得ない。それは、これまでの書記習慣と妥協して、旧かなづかいの一部が残存している点である。
が、これほどあいまいで、意味をなさぬ文句も珍しい。なぜなら、そこには明らかなごまかしがあるからです。そのごまかしは議會における政治家の答辯のそれに似てをります。つまり、人は何かをごまかさうとして語る言葉において、そのごまかしの存在をもつともよく裏切り示すといふことになりませう。右の一段は、「現代かなづかい」や「当用漢字」の制定に、それよりもなほ國語國字改良論の根本精神に、最初から無批判的にれこんでゐる人ならいざ知らず、少しでも頭を働かせる習慣をもつてゐるものには、到底すなほに讀みくだせる文章ではありません。

一體、表音主義とは何か。いや、その前に表音文字とは何か。解りきつたことのやうですが、その意味があいまいであるために、「現代かなづかい」にたいする誤解が生じてゐるので、いちわうだめを押しておく必要がありませう。いふまでもなく、表音文字は表意文字の對であります。日本のかなやヨーロッパ語のローマ字は前者であり、漢字は後者であります。もちろん、文字である以上、音だけしか表さぬ文字はあつても、音聲を伴はずに意味だけしか表さぬ文字といふものはまづない。なるほど太古の象形文字は鳥や人型の組合せによつて書き手の意思を表現してはゐますが、それぞれに音聲があつたとは言へません。しかしその段階の象形文字は、文字とはいふものの、嚴密には文字ではないのです。一方、漢字は象形文字から出發したのですが、それはすでに文字としてしやべる言葉をそのまま表現しえます。すなはち、一字一字、音を伴つてゐます。ただ、その文字から音だけを抽象して意味と無關係に用ゐることは出來ません。その文字を用ゐれば、かならずその意味が生じる。音が同じだからといつて、「物」を「佛」とは書けない。表意文字においては、意味が主であつて、音は從であります。これに反して、ローマ字は一字一字に意味がなく、その意味のない音だけを表示する文字が二つ以上つづりあはされて、初めて語をなし、意味を生じる。それが表音文字であります。

表音文字と表意文字との差については、右の定義で充分とは言へませんが、ここではその程度にして先に進みませう。さて、表音主義といふことですが、これは表音文字の使用によつてのみ可能であるといへませう。同じ「後」といふ文字を「ゴ」と發音したり「コウ」と發音したり、また同じ「コウ」の音に「後」「光」その他たくさんの文字がある漢字の場合、それは不可能です。表音主義といふのは「音を表す」といふことではなく、同一音はつねに同一文字によつて表され、同一文字はつねに同一音を表すといふこと、すなはち一音一字にして一字一音であることを意味します。それは表音文字の場合にのみ可能であります。が、現實では表音文字かならずしも表音主義を守つてはをりません。たとへば、ローマ字を用ゐる英語でも、smart・cousin・shallの三語において、sは三樣に發音しわけられる。音聲記號で示せば、それぞれ〔s〕・〔z〕・〔∫〕となります。のみならず、smartのaとshallのaとは同一文字でありながら、音は前者の場合、次のrと一緖になつて二重母音を形成し、〔ɑə〕となり、後者では〔æ〕となるといふ違ひがあります。したがつて、smartのrも本來のr音ではない。cousinのiは無いにひとしく發音されません。shallのlは二つですが、一つの場合と同じ發音です。

この三語はでたらめに選んだのに過ぎず、その種の例は英語の場合ほとんど無限にあると言へませう。表音文字の使用、かならずしも表音主義にならず、またさうなしうるものでもありません。かな文字の場合も同樣であります。のみならず、かな文字は音節文字であつて、「あ行」のほかは、大體において一子音と一母音との組合せによる兩者未分の音を表してゐるため、單音文字であるローマ字に較べて嚴密な表音主義に徹することが出來ません。いちわう、さう言へませう。もつとも旣に述べた「現代かなづかい」の矛盾なるものは、なにも音節文字としての限界によつて生じたものではなく、表音主義を原則とする氣さへあれば、まだいくらでも原則どほりに表音化しうる程度のものなのであります。そこに問題があるわけです。そのやうに、表音化しうるものを表音化してゐないといふことについて、旣に見たごとく「現代かなづかい」に、少くともその「趣旨」ないし原則には贊成すると稱する人たちから、文句が出るのは當然でありますが、この身方の激勵こそ、實は當事者にとつてまさにひいきの引きたふしとも言ふべきものなのです。

なぜなら、表音主義といふものは、いはば革命のためのスローガンのやうなもので、舊政權たる歷史的かなづかひを打倒する前にこそ便利必要であれ、革命成就ののちもなほ新政權「現代かなづかい」を正當化するには、いや、いかなる表記法にもせよ、それが表記法であるかぎり、それを保證するには、權威ある不動の原理とはなりかねるものなのです。それは亂にあつて攻擊を事とする狙擊兵そげきへいであつて、治において秩序を守る任には堪へられない。戰後の國語國字改良論者は旣にそのことを見とほしてをりました。したがつて、彼等は表音主義反對者こそ、かへつて好都合な存在であつて、彼等を困らせるものは、むしろ表音主義贊成者なのであります。たとへば金田一博士の『国語の変遷』(創元社刊)に出てゐる「新かなづかい法の学的根拠」の冒頭を讀むと、その感じがよく出てをります。少し長いが、それを引用しておきませう。
今回の新かなづかい反対の声を聞いてみると、まず第一に新かなづかいの明らかな誤解から来るものがある。曰わく、新かなづかいは、表音式にすると言って、その実、表音式になっていないではないか。孝行は、コオコオと発音するのに、こうこうと書く、「私は」「私を」「私へ」なども、表音式なら、「私わ」「私お」「私え」であるべきである。少しも表音式ではないじゃないか。こう言って、反対される人々のあることである。
これは、反対論の一番単純な声である。それぐらいのことを、新かなづかいの発案者たちが気がつかないとでも思うものらしい。しかし、これほどの大事を思い立つ当局の人でそんなことぐらいわからないはずが無いではないか。
では、わかっていて、そういうことをするのはなぜか。ほかではない。「新かなづかい」は、決して「表音式かなづかい」ではないからである。
その証拠に、今度の新かなづかいの趣意書のどこにも、「表音式にするのだ」とは一言もうたっていない。
「歴史的かなづかいを廃して、表音式かなづかいにするのだ」とは、以前によく言われたことである。明治三十三年度以来、久しくなった声ではある。「音声」と「音韻」との区別のまだはっきりしなかった時代の言い分である。その時代からみると、考え方も言い方も遥かに進んで来て、今は「仮名づかい」と「発音表記」とをはっきり区別するのである。「仮名づかい」は正字法オーソグラフィであり、仮名は音標文字だが、どこの国だって、正字法はあるが、音韻符号をつらねて正字法にしている国はない。故橋本進吉博士が「表音式かなづかいは、かなづかいにあらず」と言い切ったのは、著名なことばである。その言葉の当否はとにかくとして、だから、今回どこにも、表音式かなづかいにするのだと言ってはいない。言っているのは「現代〇〇かなづかいは、現代〇〇語音に基づく」と、あたり前のことを言っているだけである。その意味は、いわゆる歴史的かなづかいは、古代語丶丶丶の語音に基づいている。すなわち、旧かなづかいは、古代語を書いていたものであるが、現代かなづかい丶丶丶丶丶丶丶は、現代語丶丶丶を書くことにするということである。
あえて「現代の音声〇〇」と言わずに「現代語音(にもとづく)」と言ってるのは、「かなづかい」は発音記号ではなくして正字法だからである。仮名は音韻文字だから一々の仮名は、音韻を代表させるが、一から十まで、決して発音どおりにしようとしてはいない。それは、すべての改革は、急激であってはいけないから。殊に、言語に関したことでは。なぜなら、言語は、国民全体が毎日関係することであって、決して役所の人たち少数者だけのたまに用いるものではないから。国民の大勢が、すぐついて来れるような改革でなければ、改革が企図に終って、実現はされない。実現されるような改革は、無理のない程度に落ち合わなければいけない。いくらよい理想的な案でも、皆がついて来なかったら、その案は机上の空論でしかない。
ここに私たちは「現代かなづかい」の原則も論據も決して表音主義にはないことを知らされる。このどんでん返しに讀者はさぞかし面くらふでありませう。それなら、戰後の國語改良論者があたかも救ひの神のやうにすがりつく音韻とは、一體なにを意味するのか。門外漢には解りにくい言葉でありますが、それはまた專門家の間でもはつきりせず、二樣三樣の意味で用ゐられてゐるやうです。しかし、ここではその一つの意味をとつて、次のやうに理解しておけばいいと思ひます。すなはち、音韻とは、私たちが實際に發音してゐる、あるいは發音しうる生理的・物理的な音聲ではなく、たださう發音してゐるのだと思ひこんでゐる、もしくはさう發音しようと思つてゐる、いはば言語主體の心理のうちにある音の單位を意味する。

たとへば、「行きま」「本で」の「す」は「い(椅子)」の「す」とは違ふ。後者は問題なく普通の〔su〕ですが、前者ではその母音の〔u〕が無聲化してしまひ、ただ息だけの音になつてをります。しかし、それは私たちが實際に發音してゐる生理的・物理的音聲についての話に過ぎません。それを發音する言語主體である私たち日本人は、喋る場合にも聽く場合にも、その差を意識せず、同じ「す」だと思つてゐる。旣に述べたやうに、私たち日本人には一般に母音とか子音とかいふ單音の意識がなく、すべての音をその兩者の結合による音節の意識でとらへてゐるからです。また、「本が」「本も」「本の」における〔n〕が、音聲としてはそれぞれ〔ŋ〕〔m〕〔n〕と發音してゐても、私たちの意識においては、いづれも同じく〔n〕であります。その主觀的意識を、客觀的實在である音聲にたいして、音韻、あるいは音韻觀念といふのです。

(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)

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