2019年2月4日月曜日

表音的假名遣は假名遣にあらず⑥

  六


以上述べたやうに、假名遣と表音的假名遣とはその根本の性格を異にしたものであつて、假名遣に於ては假名を語を寫すものとし、表音的假名遣に於ては之を專ら音を寫すものとして取扱ふのである。語は意味があるが、個々の音には意味無く、しかも實際の言語に於ては個々の音は獨立して存するものでなく、或る意味を表はす一續きの音の構成要素としてのみ用ゐられるものであり、その上、我々が言語を用ゐるのは、その意味を他人に知らせる爲であつて、主とする所は意味に在つて音には無いのであるから、實用上、語が個々の音に對して遙に優位を占めるのは當然である。さすれば、假名のやうな、個々の音を表はす表音文字であつても、之を語を表はすものとして取扱ふのは決して不當でないばかりでなく、むしろ實用上利便を與へるものであつて、文字に書かれた語の形は、一度慣用されると、全體が一體となつてその語を表はし、その音が變化しても、文字の形は容易にかへ難いものである事は、表音文字なるラテン文字を用ゐる歐洲諸國語の例を見ても明白である。かやうな意味に於て語を基準とする假名遣は十分存在の理由をもつものである。

しかしながら、假名遣では十分明瞭に實際の發音を示し得ない場合がある故、私は、別に假名に基づく表音記號を制定して、音聲言語や文字言語の音を示す場合に使用する必要ある事を主張した事がある(昭和十五年十二月「國語と國文學」所載拙稿「國語の表音符號と假名遣」)。然るに右のやうな表音記號としては、一二の試案は作られたけれども、まだ廣く世に知られるに至らないが、表音的假名遣は、前述の如く、その實質に於て假名を以てする國語の表音記號と同樣なものであり、表音記號としてはまだ不十分な點があつても、それは必要な場合には多少の工夫を加へればもつと精密なものともなし得るものであり、その上、臨時國語調査會の案の如き、多くの發音引國語辭書に於て發音を表はす爲に用ゐられて比較的よく世間に知られてゐるものもある故、之を簡易な表音記號に代用するのも一便法であらう。但しその爲には、表音主義を徹底させて、假名遣による規定を混入した部分は全部除去する事が必須であり、又名稱も假名遣の名は不當である故、明かに表音記號と稱するか、少くとも簡易假名表記法とでも改むべきである。

表音的假名遣に於て見る如き、假名遣を否定する考は、古く我國にも全くないではなかつたが、今世間に行はれてゐる、歷史的假名遣及び表音的假名遣の名は、英語に於ける歷史的綴字法ヒストリカルスペリング及び表音的綴字法フオネテイクスペリングから出たもので、假名遣を綴字法と同樣なものと見て、かく名づけたのである。然るに綴字法は歷史的のものも表音的のものも、共に語の書き方としてのきまりであつて、かやうな點に於て、語を基準とする假名遣とは通ずる所があつても、音を基準とする表音的假名遣とは性質を異にするものといはなければならない。私は從來世間普通の稱呼に隨つて表音的假名遣をも假名遣の一種として取扱つて來たのであるが、今囘新に表音的假名遣に對する考察を試みて、その本質を明かにした次第である。

(『國語國字敎育史料總覽』、國語敎育硏究會、昭和44年)

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