2019年2月8日金曜日

「現代かなづかい」の不合理――1「現代かなづかい」の實態④おめでとう、とけい、きゅうり、がっこう

以上で、「現代かなづかい」の內容、卽「例外」づくしは大體あきらかになつたわけですが、さらに二三の附帶事項があります。それについて述べておきませう。「言ふ」は、發音どほりといふことになると、「う」と書くべきかもしれぬが、「う」と書かねばならぬ。理由は「その語幹が動かないという意識があるとして」ださうであります。すなはち「う」と書くことにすると、否定のときは「わない」ですから、「ゆ」が「い」に變り、語幹が變化する。變化してしまつたのでは語幹とはいへぬので、これは「當然」の處置といへませう。それなら「おめでう」「たうございます」はどう說明するのか。「おめでう」は歷史的かなづかひでは「おめでう」であり、接頭語「お」と動詞「めでる」と助動詞「たい」との合成語であります。あるいは「めでたい」といふ形容詞と考へてもいいでせう。「たい」「めでたい」の活用は「〇・(めで)く・(めで)い・(めで)い・(めで)けれ・〇」となり、「おめでう」は「おめでく」の音便形で、語尾の「く」にのみ變化が起つたことを示し、「た」は語幹あるいは語幹の一部として不變です。それが「現代かなづかい」では「めでう」と書きますから、「たい」を助動詞として分析すれば、語幹が變つたことになり、「めでたい」の一語と考へても語幹の一部が變つたことになります。「たこうございます」でも同樣、語幹の「高」は「た」「た」と變つてしまふ。しかも、この變化を活用語尾のはうへ繰りこんでしまつて、語幹をそれぞれ「めで」「た」だけだとすると、文法上「活用の種類ははなはだ複雑になるので、語幹にも変化を起すものがあるとだけ説いておくべきであろう」と言ふ。「言ふ」は「語幹が動かないという意識」のもとに「う」と書いて「う」とは書かぬといふ說明と全く正反對ではありませんか。しらふの人間の言葉とは考へられません。
〔引用者註〕「有難う」も「ありがたく」の音便なので正しくは「ありがたう」なのである。「お早う」も「おはやく」の音便だから「おはやう」が正しいのである。でも「ご機嫌好う」は「ごきげんよく」の音便なので、こちらは「ごきげんよう」で好いのである。
次に「時計」は「とけい」と書いて、「とけえ」と書いては誤りだといふ。さきに私は馬鹿正直に「お列」長音以外は、それぞれ該當音の下に同音の母音「あ行」文字を附けて表すのを「本則」とすると書きました。じじつどこにもさう明記してあります。「現代かなづかい」は昭和二十一年十一月十六日內閣吿示第三十三號をもつて吿示されたのですが、その細則第十一にも「エ列長音は、エ列のかなに〈え〉をつけて書く」とあり、その例として、先に私が擧げたのと同じく「ねえさん」の一語を示してゐます。金田一博士の「明解国語辞典」(昭和二十七年發行新版)もそれをそのまま採用し、ただ例として、應答のさいの「ええ」を加へてゐる。しかし、驚くべきことに、この原則に當てはまる言葉は精〻その程度なのです。その他の「え列」長音は全部が例外で、該當音の下に「え」ではなく「い」を附けて書くことになつてゐる。しかも、その「え列」長音としては、「衞生」「經營」「生命」「丁寧」「平靜」等の漢語が無數にあります。したがつて、「い」を附けるとするのを「本則」とし、「え」を附けるのこそ「例外」とすべきです。ただし「い」を用ゐるのを「本則」とすると、遡つて該當音の下に同音の母音「あ行」文字を附けて表すといふ「本則」に牴觸し、前述の「お列」長音のほかに、もう一つ「例外」が出來てしまひます。しかし、さうしておけば、そのまた「例外」は「ねえさん」「ええ」(ねえ・へえ)くらゐで食ひとめられるものを、その二語の顏をたてたため、他のほとんどすべてを「例外」に追ひこんでしまはなければならなくなつたのです。なぜそんな苦しいことをせねばならぬのか、それもあとで考へることにしませう。

次が「胡瓜」の書きかたです。「胡瓜」は宛字で、語源的には「黃瓜」であり、地方によつては「キ・ウリ」とはつきり二語連合を發音しわけるさうですが、一般には「キューリ」ですから、この標準的發音に隨ひ「きゆうり」と書かねばならぬといふ。「狩人」も「かりゆうど」であつて、「かりうど」は誤りとなつてをります。ここで注意しなければならないことは、連濁の「けづめ」「こづくり」の場合、二語の連合を分析する語意識をたてに「つめ」「つくり」を生した原理に隨つて、同樣「胡瓜」においても「うり」を生し、「き・うり」とすべきで「きゆう・り」としてはならぬはずなのに、どういふわけか、ここにふたたび表音主義といふ大原則の登場を見るのであります。

最後に、「學校」「速記」「敵機」などは「がこう」「そき」「てき」では誤りで、「がこう」「そき」「てき」と書けといふ。「無學」のときは「むが」で「學校」となると「がこう」と書かねばならず、ここでも二語の連合を分析する語意識は無視、あるいは死を宣吿されたわけですが、表音主義の大義のためとあらば、それも仕方ないとしませう。が、一方、「適格」「敵艦」「益軒」などは「てかく」「てかん」「えけん」と書かねばならぬといふのです。つまり「敵機」と「敵艦」とでは違ふのです。前者は「てき」で後者は「てかん」です。なぜさうなるのか、神のみぞ知る、などと手を擧げたら最後、その神である國語改良論者の手により、あなたがたは標準的現代人としての資格を剝奪はくだつされてしまひませう。さうされぬため、めいめいに正しい解答を考へていただくことにして、しばらく「宿題」といふことにしておきませう。
〔引用者註〕ほかに學科がくか學区がくく學期がくき學級がくきふ學硏がくけん等も「がつか」「がつく」「がつき」「がつきゆう」「がつけん」と書かせられるのである。國旗こくき國歌こくかも「こつき」「こつか」としなければならない。ついでに言へば、敵機、敵艦は「てきき」「てきかん」と書くが「テッキ」「テッカン」と讀み、益軒も「えきけん」と書いて「エッケン」と讀むのが正しいのである。これに從へば、いま話題の『日本国紀』も「にほんこくき」と書いて「ニホンコッキ」と讀むのが國語の正しい作法、と言ふより自然にさうなるのである。それが國語の生理だからである。
ここに讀者は、ことに「現代かなづかい」に贊成の立場にある人たちは、次のことを反省してみる必要があります。かつて金田一博士と論爭したときのことですが、私が「歷史的かなづかひ」は一向むつかしくないと言つたのにたいして、博士はその表音的でない多くの例をあげて、これをお前は正しく使ひわけることが出來るか、出來ると思つてゐるのは漢字を代用してゐるからではないか、つまり漢字のかげに隱れて、「免れて恥じなきを得ている」のではないかと反問したことがあります。たとへば「あふる」「あは」「あわ」など、そのかなづかひを知らなくても、「煽る」「粟」「泡」の漢字を用ゐてゐるので、過ちをせずにすませられるのだらうといふ意味です。それなら、同樣にこちらも反問いたしませう。「扇」「奧義」「大きい」が前二者が「おぎ」最後が「おきい」と書き分ける「現代かなづかい」においても、やはり漢字のかげに隱れて免れて恥ぢなきを得てゐるのではないでせうか。したがつて「現代かなづかい」を支持し、それなら書ける、あるいはそれでなければ書けぬと言ふ人たちに、改めて本章に述べたその內容を熟讀していただいて、これなら書けるかどうか再省してもらひたいと思ひます。

さらに、その矛盾はよく承知してゐる、ローマは一日にしてなるものではない、まづ第一步を踏みだして、あとは徐〻に本來の「趣旨」ないしは原則への一致を目ざしたらいいのだと考へる人〻、すなはち例の百五十四人中の百三十一人に入る人〻にたいしては、私は次のやうな反問を呈します。廣田氏のいふ表音主義といふ原則の實踐は、なにもローマ建設ほどの難事ではなく、今まで見てきた現行の「現代かなづかい」に較べれば、遙かに容易ではないか。普通、一擧に理想實現を計ることの不可が强調されるのは、元來、理想といふものが守るのに困難なものだからでせう。ところが、「現代かなづかい」は歷史的かなづかひのさういふ困難な理想性を否定するために考へられたものであり、したがつてその理想すなはち「趣旨」は容易といふことにあるはずです。このローマは一日にして成ることを目やすとしてゐる。それをなぜ成らせないのか。理想をわざわざ容易にしておきながら、それにお預けをくはせておいて、現實に困難を課するといふ罪な眞似をなぜするのか。まさか、「ローマは一日にして成らず」といふ古めかしい格言に忠實であらうといふ苦行主義のためではありますまい。

そこから必然的に出てくる疑ひは、なるほどその理想は容易といふことにあるのだが、やはりそれが容易に達成されてしまつたのでは困るのではないかといふことです。「現代かなづかい」には多くの矛盾がありますが、そして多くの人はいづれその矛盾を解消しようと考へてをりますが、しかし、それを解消して、原則どほりにするといふことになると、なにか困ることが生じるのではないか。おそらくその點で誰よりも困るのは、當の「現代かなづかい」を主張實施した國語改良論者なのであります。その間の事情を知るために、次に「現代かなづかい」の原則について綿密に檢討してみませう。

(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)

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