2019年2月10日日曜日

「現代かなづかい」の不合理――2 表音主義と音韻②表音主義者のごまかし

以上で、金田一博士の言ひたいことは大體わかつたことと思ひます。つまり、「現代かなづかい」の原則は、同一音聲を同一文字で表記することにはなく、同一音韻を同一文字で表記することにある、言ひかへれば、表音主義ではなく、音韻準據だといふことです。これは「表音主義を原則とする」といふ廣田氏の言葉と明らかに矛盾します。どちらかが間違つてゐるか、ごまかしてゐるかといふことになりませう。ところが、さうではない。兩方ともごまかしてゐるのです。ただ廣田氏のいかにも官僚らしい用心ぶかさにくらべて、金田一博士は學士院會員、言語學の權威といふ世間的評價によりかかつてゐるためでせうか、自信滿〻の高壓的な調子がうかがへますが、それはいはば防禦的攻擊にすぎず、そのためのすきが隨所にあらはれてをります。

そこに引かれてゐる橋本博士の「表音的假名遣は假名遣にあらず」といふ有名な警吿は、同博士著作集(岩波書店刊)第三册『文字及び假名遣の硏究』に收められてゐる論文の標題でもあり、またその內容をそのままに示してゐるものですが、その引用につづく金田一博士の言ひぶんがふざけてゐる。「当否はとにかくとして」なら、「だから」と言ふことはありますまい。さういふ不承不承の微妙なる「だから」であればこそ、あとに「今回」「言ってはいない」などといふごまかしが出てくるのです。この「今回」には「今囘は」「いまのところ」の意があり、「將來はいざ知らず」の含み充分といふべく、日本語の助詞「は」の陰翳いんえいが巧みに利用されてをります。その氣もちが「言ってはいない」でいよいよ露骨になります。要するに、はつきり口にだして「言ってはいない」といふ、ただそれだけのことで、腹は別だといふことです。將來、實は表音主義だと言ひなほす餘地を殘してあるわけです。同樣、前のはうに「一言もうたっていない」とあります。しかも呆れたことに、「新かなづかい」が「表音式かなづかい」でないことの證據は、みづからさうだと「うたっていない」ことにあるといふ。開いた口がふさがらぬとはこのことです。常識では、事實を「證據」として、あることを言つたり言はなかつたりするものです。が、金田一博士はその反對に、聲明を「證據」として、ある事實が存在したり存在しなかつたりするといふ「觀念論」の信奉者らしい。少くとも文部省にだけはさういふ考へかたを許すつもりなのでせうか。すべてが法廷辯論的であり、政治的であります。事實はどうあらうと、法廷や議會のやうな公の場所で、それを認めさへしなければいいといふわけです。

廣田氏の說明にも同樣のごまかしがありますが、いちわうそこには表音主義を原則とすると大膽に言つてのけてありますので、それを檢討するまへに、もう一つ、金田一博士と同じく表音主義といふ言葉をいたづらに恐れるはうの例について報吿しておきませう。昭和三十三年に「言語政策を話し合う会」といふのが誕生しました。それは現代中國が漢字の讀みの難關を克服するために、ルビとしてのローマ字の倂用を實施したのを、あわててローマ字化と早合點して、さうなると漢字の使用は日本だけになるといふ不安に襲はれた人たちがこしらへた寄りあひです。目的はかな文字かローマ字か、いづれかの採用を目ざしての漢字廢止であります。私はその不可なることを「讀賣新聞」に書き、「現代かなづかい」の問題にも觸れて、現狀のそれは「より極端な表音化を目ざす」傾向に抗しえぬことを指摘し、その代表者の一人としてかな文字論者の松坂忠則氏の名を擧げました。同氏が國語審議會の委員であり、また「言語政策を話し合う会」の委員でもあつたからです。それにたいして、氏は同じ「讀賣新聞」紙上で、自分の考へが決して私の非難するやうな「より極端な表音化を目ざす」ものではないことを强調し、次のやうに答へてをります。
わたしのカナヅカイ論は、表音化論ではない。音声そのものを写すべきだなどと言っているのではない。現代のコトバの単位として認識されている「現代語音」(音韻ともいう。心理的なエレメント)を書くべきだとの点において、わたしの主張は、金田一博士の主張と一致している。
なほ、松坂氏に言はせれば、私は「表音文字を用いる」といふことと、「表音化を目ざす」といふこととを混同してゐるのであつて、氏はただ前者について考へてゐるだけなのださうであります。「表音文字を用いる」といふ點では、歷史的かなづかひも同じである、なぜなら、かな文字は表音文字であるから、と松坂氏はいふ。したがつて、「表音文字を用いる」と言つたからといつて、それはなにも「音声そのものを写すという意味にはならない」といふのです。この妙な理窟のあとに右の引用文が來て、そのあとに、「現代かなづかい」にたいする氏の不滿は、助詞の「は」「へ」その他、「現代語音と違う部分がある」ことだと述べてをります。全く支離滅裂です。歷史的かなづかひも「表音文字を用いる」ものであることは、たしかにそのとほりですが、それなら、「表音文字を用いる」といふことだけからは、「現代かなづかい」の原則も內容も出て來ませんし、さらにその助詞「は」「へ」その他の處理にたいする不滿に至つては、どうにも生じようはずがない。歷史的かなづかひが「表音文字を用いる」ものであるにもかかはらず、なほ氏にとつておもしろくない理由は、氏が「表音文字を用いる」だけでは氣がすまぬ何かがあるからでせう。その何かは、今かりに表音文字といふ言葉を生して言へば、それが表音文字を用ゐながら、表音文字としての機能を充分に發揮してゐないといふことではありますまいか。そのこと、すなはち、表音文字としての機能を充分に發揮せしめようといふ考へかたが、とりもなほさず表音主義であり、その方向への試みを表音化といひ、その體系を表音式といふ、私はさう心得てをります。

ところで、さらに呆れたことに、その後「言語政策を話し合う会」から私のところへも宣傳文書が送られて來たのですが、その挨拶あいさつ狀を讀んでみましたら、そこには麗〻しくかう書いてあるではありませんか。
げんざいのこの混乱している日本語を、やさしく美しいものにしようというのでありまして、一足飛びにカナモジあるいはローマ字にしてしまおうというのではありません。もちろん文字の表音化が究極の目的ではありますけれども……。
全く人をなめてをります。はつきり「文字の表音化」とあるではありませんか。世間向けの挨拶狀には「無知」な人たちを誘ひこむのに都合のいい表音主義を旗印にし、少しこみいつた理窟づけの場では顧みて他を言ふ。かうして彼等の態度はつねに政治的であります。それとも「文字の表音化」は「かなづかいの表音化」とは異るといふのでせうか。前者は後者を導き出さぬとでもいふのでせうか。もしそれほどに無智なら、國語國字問題の指導に手を出す資格はないはずです。それでは國民一般が迷惑する。

(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)

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