2017年9月30日土曜日

討幕の詔

(慶応三年十月十三日)


みなもとの慶喜よしのぶは、累世るゐせいり、闔族かふぞくきやうたのみて、みだり忠良ちゆうりやう賊害ぞくがいし、しばしば王命わうめい棄絶きぜつし、つひには先帝せんていみことのりめておそれず、万民ばんみん溝壑こうがくおとしてかへりみず。罪悪ざいあくいたところ神州しんしうまさ傾覆けいふくせむとす。ちんいまたみ父母ふぼり。ぞくにしてたずむば、なにもつてかかみ先帝せんていれいしやし、しも万民ばんみん深讐しんしうむくいむや。ちん憂憤いうふんところ諒闇りやうあんをもかへりみざるは、ばんからざればなり。なんぢよろしくちんこころたいし、賊臣ぞくしん慶喜よしのぶ殄戮てんりくし、もつすみやか回天くわいてん偉勲ゐくんそうして、生霊せいれい山嶽さんがくやすきくべし。ちんねがひなり。あへ或懈わくかいすることかれ。

累世るゐせい 「何代も続いた勢力」といふこと。「累世」は、その文字のとほり、世をかさねるといふ意味の語。「代々」と同じ。

闔族かふぞくきやう 一族の勢力の強いこと。「闔」は、「門の扉」を意味し、またあらゆるものを総合するといふ意味の文字である。故に、「闔族」は「一族」「一門」と同じ。

溝壑こうがくおと 「みぞや谷間へ突き落す」といふことで、最も危険な目にあはせることの喩として、常に用ゐられる語である。

諒闇りやうあん 天皇の喪中をいふ。「諒」は信、「闇」は黙を意味する。「後漢書」和熹鄧皇后紀に、「諒闇既終」とあり、古くからその用例が存してゐる。

殄戮てんりく 「ほろぼしつくす」即ち悉く滅ぼしてしまふこと。「殄」は、「たつ」(絶)「つくす」(尽)といふ意味の文字である。

回天くわいてん偉勲ゐくん 「衰へた国の勢を再びもとにかへす大いなるてがら」といふこと。「回天」は、「君主の心を挽回させる」といふことから、国勢を挽回させるといふ意味に多く転用せられる語。「唐書」張玄素伝に曰ふ。「魏徴歎ジテ曰ク、張公事ヲ論ズルニ、回天之力有リ、仁人之言、其ノ利博キカナト謂フベシ。」

或懈わくかい 疑ひ怠ることをいふ。


〔大意〕
源慶喜(徳川慶喜)は、先祖代々の勢にまかせ、また一族が栄えて強いのをよいことにして、妄りに忠義な良い人々を賊よばはりをして害し、度々天皇の大命に従はなかつたばかりか、遂に先帝(孝明天皇)の詔を勝手にかへて、それを恐れ多いこととも思はず、多くの民を溝や谷間へ突き落すやうなひどい目にあはせて、それを悪いこととも考へない。さうした罪悪がつもりつもつて、まさにこの日本の国は、倒れてしまはうとしてゐる。朕は、今民の父母となつてゐる。この賊を討たなければ、何によつて、上は先帝の御霊に申しわけをし、下は多くの民の深い恨を晴らすことが出来よう。これは、朕が心配しまた腹だたしく思ふところである。先帝の喪中をかへりみないのも、まことにやむを得ない。汝等は、どうか朕が心を察して、賊臣慶喜を滅ぼしつくし、衰へた勢をもりかへすやうにてがらをたて、多くの民を山の上に住むやうに安心させなければならない。これは、朕が願ひである。決して疑つたり怠つたりしてはならない。


〔史実〕
内外多事の幕末に際して、深く大御心を悩ませたまうた孝明天皇には、御病に罹らせられて、慶応二年(1866)十二月二十五日、三十六歳の御壮齢を以て崩御あらせられたので、翌年(慶応三年)正月九日、明治天皇が御践祚あそばされた。

明治天皇は、孝明天皇の第二皇子にましまし、御諱を睦仁むつひとと申上げ、祐宮さちのみやと称し奉つた。嘉永五年(1852)九月二十二日(太陽暦十一月三日)に御降誕、万延元年(1860)九月二十八日に親王とならせたまうた。慶応二年御践祚の時、御年漸く十六歳にならせたまうたばかりであつた。天資御英明にましまし、未曾有の難局を打開したまひ、宏遠なる皇謨を以て、天業を御経綸あそばされたので、我が国運は隆々として発展し、国威は中外に輝いて、遂に今日の盛世に到達する国力の基礎が、天皇の大御代に確立した。

長州征伐に失敗してから、徳川幕府の威信は、全く地に墜ちて、もはや内外の政務を処理する力もなくなった。そこで、諸藩の中には、幕府を廃して、国政の根本的刷新を図らなければ、重大事局に対処することが出来ないと考へる者が現れた。当時、志を得ずして、洛北に蟄居中の岩倉具視は、天性豪邁にして識見に富み、常に時事を慨し、ひそかに志士に接してゐたが、時勢の推移を察して、薩州藩の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允等と結び、当時太宰府に拘留せられてゐた三条実美とも気脈を通じ、更に正親町三条実愛・中山忠能・中御門経之とも謀り、討幕の密議を進めた。かくして、薩州藩主島津久光は、慶応三年(1867)十月十三日、長州藩主毛利敬親は、その翌日、遂に討幕の密詔を拝するに至つた。ここに謹載したのが、その詔である。

しかるに、同日(十月十四日)徳川慶喜は、大政奉還を奏請し、その翌日(十五日)勅許あらせられたので、自然に討幕の必要がなくなつたのであつた。


〔追記〕
福地源一郎の「幕府衰亡論」に曰ふ。
「蓋し、この討幕の密勅は、当時、京都に於いて、祕密に組織せられたる討幕党の計画に出で、岩倉少将(具視)・西郷吉之助(隆盛)・大久保市蔵(利通)・桂小五郎(木戸孝允)の諸雄、是れが首領となりて、専ら其の謀をめぐらしたるが故に、其の注意の慎密なる、降勅の前後に於いて、ただに幕府、是れを知らざりしのみならず、朝廷の摂籙・議伝・職事と雖も、其の謀にあづかれる公卿の外は、之れを知らざりしと云へり。されば、余が如きも、幕府滅亡の後数年を経て、始めて其の密勅の写を拝読して、為めに愕然たり。其の後、是れを新聞紙にて公にしたりし時にも、旧幕士の諸人及び史論家は、交〻此の密勅に疑ひを挟み、甚だしきは余を以て、斯かる重大なる詔勅を偽作せるかと、怪しみたる輩もありき。然れども、此の密勅は、爾来史家の筆頭に写しのぼせられ、今は明治歴史中の昭然たる一大関節なれば、また毫末も、真偽に於いて疑惑を懐く者は、日本国中、一人も有るべきの理無し。」

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)



徳川慶喜大政を奉還す
慶応三年十月十四日、徳川十五世将軍正二位内大臣右近衛大将征夷大将軍淳和奨学両院別当左馬寮御監源氏長者徳川慶喜表を以て祖先家康以来二百七十餘年連綿不断の大政を奉還す。其奏聞に曰く、
臣慶喜謹而ツツシンデ皇国時運ノ沿革ヲ考ヘ候ニ、昔王綱チウヲ解キ相家シヤウカ権ヲ執リ、保平ノ乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷チヨウケンヲ蒙リ二百餘年子孫相受アヒウケ、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑タウヲ失フコト不少スクナカラズ、今日ノ形勢ニ至リ候モ畢竟ヒツキヤウ薄徳ノ所致イタストコロ不堪慚懼ザンクニタヘズ候。況ヤ当今外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、イヨイヨ 朝権一途ニ不申マヲサズ候テハ綱紀難立タチガタクアヒダ、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ 朝廷ニ奉還シ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ、同心協力共ニ皇国ヲ保護ツカマツリ候ヘハ、必ス海外万国ト可並立ナラビタツベク候。慶喜国家ニ所尽ツクストコロコレ不過スギズ奉存ゾンジタテマツリ候。乍去サリナガラ猶見込ノ儀モ有之コレアリ候ヘハ可申聞マヲシキクベキ旨諸侯ヘ相達置アヒタツシオキ候。依之コレニヨリテ此段謹テ奏聞ツカマツリ候以上。
     十月十四日      慶喜
同十五日朝廷其奏聞を許可し給ふ。其文に曰く、
祖宗以来御委任アツク御依頼被為在アラセラレ候ヘドモ方今ハウコン宇内之形勢ヲ考察シ建白ノ旨趣モツトモ被思食オボシメサレアヒダ被聞食キコシメサレ候。尚天下ト共ニ同心尽力致シ、皇国ヲ維持シ、可奉安宸襟シンキンヲヤスンジタテマツルベク、御沙汰候事。
大事件外夷一条ハ、尽衆議シユウギヲツクシ、其ホカ諸大名伺被仰出オホセイデサルル 朝廷於両役リヤウヤクニオイテ取扱トリアツカヒ、自餘之儀ハオメシノ諸侯上京ノ上御決定可有之コレアルベク夫迄ソレマデトコロ支配地市中取締トリシマリ等ハ、マヅ是迄コレマデトホリニテ、追テ可及御沙汰ゴサタオヨブベク候事。

吉野作造編『明治文化全集 第2巻 正史篇 上巻』(日本評論社、昭和2~5年)

2017年9月29日金曜日

東照宮に奉幣し給へる宣命

(慶応元年三月)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ下野しもつけ日光につくわう御坐ましませる東照宮とうせうぐう大権現だいごんげん広前ひろまへに、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをさく。みだれをさめ、たみくるしみすくひ、泰平たいへい勲績いさをしたまひしより、四海しかい波静なみしづかに、万民ばんみんところやすんずることは、ひとへ大権現だいごんげんたすまもたまふにしとなも所念行おもはしめす。いま二百にひやく五十回ごじつくわい遠忌ゑんきおよべり。りて祭礼さいれいをさおこなひ、報謝はうしや精誠まこといたたまひ、つねにしも幣使へいし発遣はつけんせしめむと、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正四位しやうしゐ下行げかう右近衛うこんゑ権中将ごんのちゆうじやう藤原ふぢはら朝臣あそみ公賀きみよし差使さしつかはして、礼代ゐやしろ大幣おほみてぐらささたしめて奉出まつりだたまふ。大権現だいごんげんさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりに、まもさきはへたまひて、文教ぶんけうますますさかんに、武運ぶうん弥久いやひさに、まもあはれたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

泰平たいへい勲績いさをし 世の中を平和にをさめた功労。

万民ばんみんところやすんずる すべての民が、それぞれ自分に適した生活をして、安らかな日をおくること。

遠忌ゑんき 「をんき」とも訓む。三年忌以上、五十年、百年といふやうな遠い年忌をいふ。「鵞峯文集」巻十八に、遠忌日説を述べて曰ふ。「本朝国俗、三年忌後、有七年忌、有十三年忌、有十七年忌、有二十五年忌、有三十三年忌、是流例也。」また曰ふ。「僧周鳳夢語集、載遠忌之事、曰、大蔵経五千餘函、無遠忌之事、則震旦天竺共不修之。」

報謝はうしや精誠まこと 「功労に報いるまごころ」といふこと。「報謝」は、「物を贈つて報いる」こと即ち「返礼」「謝礼」等と同義の文字である。また仏事を修めた僧侶に、布施物などを贈ることをもいふ。「史記」の信陵君伝に、「臣乃市井鼓刀屠者、而公子親数存之、所以不報謝者、以為小礼無所用。」

つねにしも 「常例にあらぬ」といふこと。「常も」に対する語。


〔史実〕
徳川家康は、後水尾天皇の元和二年(紀元二二七六年)に薨じた。故に、慶応元年(紀元二五二五年)は、歿後二百五十年に当つてゐる。この年、二百五十年の遠忌が行はれるに際し、畏くも下野日光の東照宮に、勅使を御派遣あそばされて、幣帛を進めたまうたのであつた。ここに謹載したのは、その時の宣命である。「世の乱を治め、民の苦を済ひ、泰平の勲績を遂げ給ひしより」と生前の功績を表彰したまひ、更に、「四海波静に、万民所を安んずることは、偏に大権現の助け護り給ふに有る可し。」とあるは、聖恩優渥、まことに恐懼に堪へぬことである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月28日木曜日

再び徳川家茂に賜はれる勅書

(元治元年正月廿七日)


朕、不肖の身を以て、つとに天位をみ、かたじけなくも万世無缺の金甌きんおうを受け、恒に寡徳くわとくの、先皇と百姓とにそむかんことを恐る。就中なかんづく、嘉永六年以来、洋夷しきりに猖獗来港し、國體殆どいふべからず、諸価しよか沸騰し、生民塗炭にくるしむ。天地鬼神、それ朕を何とか云ん。嗚呼、是誰のあやまちぞや。夙夜しゆくや是を思て、やむことあたはず。嘗て列卿武将と是を議せしむ。如何せん、昇平しようへい二百有餘年、威武のもつて外寇を制圧するに足らざることを。若みだりに膺懲の典をあげんとせば、却て国家不測のわざはひに陥らんことを恐る。幕府、断然朕が意を拡充し、十餘世の旧典を改め、外には諸大名の参覲さんきんゆるめ、妻子を国に帰し、各藩に武備充実の令を伝へ、内には諸役の冗員じようゐんを省き、入費を減じ、大に砲艦の備を設く。実に是朕がさいはひのみに非ず、宗廟生民の幸也。且去春上洛の廃典はいてんを再興せしこと、もつとも嘉賞すべし。豈料あにはからんや、藤原実美等、鄙野ひやの匹夫の暴説を信用し、宇内うだいの形勢を察せず、国家の危殆を思はず、朕が命をためて、軽率に攘夷の令を布告し、妄に討幕の師を興さんとし、長門宰相の暴臣の如き、其主を愚弄し、故なきに夷舶いはくを砲撃し、幕使を暗殺し、私に実美等を本国に誘引す。かくの如き狂暴の輩、かならず罰せずんばあるべからず。然りといへども、皆是朕が不徳の致す処にして、実に悔慙くわいざんたへず。朕、又おもへらく、我の所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比すれば、未だ慢夷まんいたんのむに足らず。国威を海外に顕すに足らず。却て洋夷の軽侮を受ん。故に頻に願ふ。いりては、天下の全力を以て、摂海せつかい要津えうしんに備へ、上は山陵を安じ奉り、下は生民を保ち、又列藩の力を以て、各其要港に備へ、いでては、数艘の軍艦を整へ、無𩛞むへう醜夷しういを征討し、先皇膺懲の典を大にせよ。それ去年は将軍久しく在京し、今春も亦上洛せり。諸大名も亦東西に奔走し、或は妻子を其国に帰らしむ。むべなり、費用の武備に及ばざること。今よりは、決して然る可らず。勉て太平因循の雑費を減省げんしやうし、力を同うし、心をもつぱらにし、征討の備を精鋭にし、武臣の職掌を尽し、永く家名をはづかしむること勿れ。嗚呼、汝将軍及び各国の大小名、皆朕が赤子せきし也。今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す。民の財をへらすこと無く、姑息のおごりを為すこと無く、膺懲の備を厳にし、祖先の家業を尽せよ。もし怠惰せば、特に朕が意に背くのみに非ず、皇神の霊にそむく也。祖宗の心にたがふ也。天地鬼神も、亦汝等を何とか云んや。

〔追記〕「藤原実美」は三条実美、「長門宰相」は毛利敬親である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月27日水曜日

徳川家茂に賜はれる勅書

(元治元年正月廿一日)


嗚呼、汝、方今はうこん之形勢如何とる。内はすなはち紀鋼廃弛はいし上下しやうか解体、百姓ひやくせい塗炭に苦む。殆ど瓦解土崩の色を顕し、外はすなはち驕虜けうりよ五大洲の凌侮を受け、正に併吞のわざはひかからんとす。其あやふき実に如累卵るゐらんのごとく、又如焼眉せうびのごとし。朕、思之これをおもうて夜不能寝よもいぬるあたはず食不下咽しよくものどをくだらず。嗚呼、汝、それ是を如何と顧る。是則汝の罪に非ず。朕が不徳の致す所、其罪在朕躬ちんがみにあり。天地鬼神、夫朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ることを得んや。由て思へらく、汝は朕が赤子せきし、朕、汝を愛すること如子このごとし。汝、朕をしたしむこと如父ちちのごとくせよ。其親睦の厚薄、天下挽回の成否に関係す。あに重きに非ずや。嗚呼、汝、夙夜しゆくや心を尽し、思をこがし、勉て征夷府せいいふの職掌を尽し、天下人心の企望に対答たいたふせよ。夫醜夷しうい征服は、国家の大典、遂に膺懲の師を興さずんばあるべからず。雖然しかりといへども、無謀の征夷は、実に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕、其可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の国是を定むべし。朕、又思へらく、古より中興の大業を為さんとするや、其人を得ずんば有可あるべからず。朕、凡百の武将を見るに、苟も其人有と云へども、当時会津中将・越前前中将・伊達前侍従・土佐前侍従・島津少将等の如きは、頗る忠実純厚、思慮宏遠、以て国家の枢機を任ずるに足る。朕、是を愛すること子の如し。願くは汝是を親み、ともに計れよ。嗚呼、朕、与汝なんぢとともに誓て衰運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は万民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪也。天地鬼神、夫是をきよくすべし。汝、勉旃つとめよ勉旃つとめよ

〔追記〕
「会津中将」は松平容保、「越前前中将」は松平慶永、「伊達前侍従」は伊達宗城、「土佐前侍従」は山内豊信、「島津少将」は島津久光である。


【孝明天皇紀巻百七十七】
元治元年甲子正月二十一日癸亥 征夷大将軍内大臣徳川家茂を右大臣に任す 家茂入見恩を謝す 一橋慶喜徳川茂承等在京の諸大名高家四十四人亦従ひて朝す 皆謁を賜ふ 是日特に家茂に勅して征夷の職掌を尽さしめ一定不抜の国是を議して天裁を請はしむ


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月26日火曜日

尾張藩主徳川慶勝に賜はれる宸翰御沙汰書

(文久三年六月十七日)


攘夷の存意はいささかも相立たず、方今天下治乱のさかひ押移おしうつり、日夜苦心之に過ぎず候。今度大樹帰府の儀についても、段々許さざる趣申張まをしはり候得共さふらへども、朕が存意は、少しも貫徹せず、既に帰府治定候事、実以じつにもつて朝廷に於ても、存分更に貫徹せず、総て下威かゐ盛に、中途の執斗とりはからひのみにて、偽勅の申出、有名無実の在位、朝威相立たざる形勢、みな朕が不徳の成す所、悲歎至極の事に候。何分にもおもてに誠忠を唱へ、内心姦計、天下の乱を好み候輩のみに候。尾張前大納言の誠忠の段、実々じつにじつに感悦候。格別かくべつの依頼に存候。三郎上京候はゝ申合せ、ひと奮発にて、中妨なかのさまたげ之無き手段あつく周旋、皇国の為尽力之有り、まづ内を専らに相ととのへへん依頼浅からず候。昨年上京のみぎり。三郎申入の筋一廉も相立たず、当節尾張前大納言申条まをしでう相立たざるも、同く姦策の妨と存候。之に依て何分にも此処にて姦人掃攘さうじやう之無くては、とても治まらずと存候へば、三郎上京候はゝ、早々申合せ、猶又大樹ともとくと申合せ、始終朕と真実合体にて、寸違すんゐ無く周旋之有りたく候。何分此姿にては、天下乱を催すばかりにて、昼夜苦心候間、其辺深く熟考之有りたく候事。

周旋に於ては、依頼致したき儀も候へば、速に承知周旋兼て頼み置き候事。

〔追記〕「大樹」は徳川家茂、「尾張前大納言」は徳川慶勝、「三郎」は島津久光である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月25日月曜日

時局を御軫念御述懐の勅書

(文久二年五月十一日)


それ聖人にあらざるより、うち安ければかならずそとわざはひ有りと。方今はうこん天下二百有餘年、至平しへいに慣れ、内遊惰いうだに流れ、そと武備を忘れ、甲冑朽廃きうはいし、干戈腐鏽ふしようす。卒然として夷狄之わずらひ起て、不能応之これにおうずるあたはず。終に癸丑みづのとうし甲寅きのえとらの年より、有司ますます駕御がぎよ之術を失し、事模稜もりよう多し。これもつて戎虜じゆうりよ不知所恐懼きようくするところをしらず求徴きうちよう無饜あくなく、条約を定め、関市くわんしを通ぜん事を請ふ。幕府因循、不能拒其請そのこひをこばむことあたはず、以旗下小吏奏聴そうちやうす。朕、知其誣罔斥之そのふまうをしつてこれをしりぞく。翌巳年(午の御誤)(安政五年)二月、幕府以老吏堀田備中守及二三小吏登京、事情をちんし、切請不止しきりにこうてやまず。朕熟案つらつらあんずるに、古今夷狄之うれひ雖不少すくなからずといへども、近年之如くはなはだしき未有之也いまだこれあらざるなりもし一旦親狎之これにしんかふし膻流せんりう穢漲くわいちやう、神州陸沈りくちんし、朕が世にいたつて、はじめ金甌きんおうかけば、何以なにをもつて先皇せんのう在天之霊ざいてんのれいしやせんと、深謀遠慮し、群臣に咨詢しじゆんするに、皆その不可なる事をまをす。又列藩内密上言之者不少すくなからずすなはち幕府に命じ、天下の大小名に令し、つとめて時宜を陳せしむ。然るに幕府、命をかうし、あへて之を天下に伝示でんしせず。朕、ふかく憂慮し、未だ処置すること不有あらず於是ここにおいて群臣八十八人、奮然として、奏状そうじやうを以て、朕が意を賛す。又或曰、朕、もし幕府之こひ不従したがはざれば、かならず承久元弘の事を為んと。然れども、朕何ぞ一身のことを以て、祖宗の天下にかへんやと、つひかさねて命ずるに前令をもつてし、次で幕吏を返らしむ。又使を発し、へいを三社に奉し、戎虜じゆうりよ國體をけがすことなく、人民其せいやすんぜんことを祈請きせいす。庶幾こひねがはくは弘安の先蹤せんしようつがんと。あに図らんや、旬日之間、幕吏、ちんが命を不用もちゐず、遂に条約を定め、通商を許し、片紙へんしを以て奏曰そうしていはく、時勢切迫、不得止事やむをえざること也と。朕、殊に其侮慢ぶまん非礼をいかると雖も、いまだにはかに是を譲責じやうせきせず。三家家門、或は大老を召し、其子細を尋糺じんきうせんとす。然るに尾水越、其餘二三の名藩臣を籠居せしめて、又嘗て命を奉ぜず。次で前将軍かうぜり。又忠言するもの有り。曰、嗣子幼弱、将軍に任ずることなく、しばらく其為す所を見て、而後しかるのち任之これににんぜよと。然ども直に其職に任じ、其を以て、其職をつくさしめんとす。然るに将軍幼若、有司柔惰じうだ、朕が意にかなふ事を不知しらず。嘗て攘夷の念なく、却て之を親昵しんじつし、あまつさへ正議(義、下同じ)之士を排斥す。朕、其三家三卿等を召せども、不来きたらずあまつさへ正議之名藩臣を退隠或は禁錮せしめ、其積鬱せきうつ之餘、激して変を生じ、外夷其きよに乗ぜんことを過慮くわりよし、特命を幕府水府に下し、天下の大小名、同心合力、幕府を輔佐し、うち奸吏を除き、諸藩勤王の志をし、外黠虜きつりよはらひ、各国窺覦きゆの念を絶せしめんとす。然るに皆、朕が意を体し、其命を海内に示伝しでんし、天下一心戮力りくりよく、徳川を輔佐し、外夷征殄せいてんの議を不興おこさず、却て公武不和の難を醸し、朕、深く之を憂ふ。其間事事紛紛じじふんぷんことごとく言ふべき事難し、然れども其一二をいはんに、人人以為おもへらく、幕府如此かくのごとく衰弱不振ふるはず、戎狄如此かくのごとく猖獗不懲ちようせずしからばすなはち外患何時まん。神州正気何時回復せん。人民何時生をやすんせん。是豪傑英雄の将にあらずんば、治むること不能あたはずと。三家三卿の中、一橋刑部卿ぎやうぶきやうは、其英雄なるを以て、之をして其職に当らしめば、むしろよく大事を成就せんと。是以これをもつて草莽有志の士、其事に周旋しうせん奔馳ほんちするものあり。又其間、奸猾かんくわつ其意を快くせんとするものありて、事多く朕が意の如くならず。不日にして、間部下総守登京とうきやう、幕命を以て、凡て天下の事を論ずる者、一切に縛収ばくしうして、之を江戸に下し、次で四大臣落飾幽居し、正議の士、是に於て尽く。下総守幕議をまをして曰、条約押印のことは、先役せんやく備中守の所為しよゐにして、当役たうやくの知る所に非ず、即今そくこん条約を返し、通市つうしを止むる時は、外国に不信を伝へ、彼がいかりを激し、異変不測に生ぜん、環海武備未だ充実せず、且大奸内に在り、もし外患起らば、内憂之に乗ぜん、然らば忽ち天下土崩瓦解、如何ともなすべからざるに至るべし、ねがはくは幕府の申す所に従ひ、しばらく天下の時勢をらんぜんことを、必不経年としをへずして、戎虜を掃絶さうぜつし、神州の正気を回復せんと。是以、朕、不得止事やむことをえずまげて其こひまかせ、以て天下の時勢を見る。其後庚申かのえさる(万延元年)三月三日、水府浪士、井伊掃部頭をさすの事あり。其所為は乱暴に似たりと雖も、其所懐中の状書を視て、其意を察すれば、深く外夷の跋扈を憤怒し、幕府の失職を死を以て諫むるにあり。是朕が嘗てより所憂うれふところ也。又其後年墨使ぼくしを刺し、又東漸寺とうぜんじの件件、皆其意ここに基づけり。其餘外夷の陸梁りくりやうなる、対州の事、二个国相増事あひますこと、兵庫より陸行、江府に至の事、海岸測量、殿山を借与の事等、朕、一一幕府に、其然らざる事をせむれども、幕吏奏曰そうしていはく、是皆一時の権宜けんぎにして、浪華なには開商延期の術策なりと。又奏請曰そうせいしていはく、外夷を掃殄さうてんするに、天下一心戮力りくりよくにあらずんば、為し難し、故に和宮かずのみやを以て将軍にしやうし、公武一和を天下に表し、而後戎虜剿絶さうぜつ可及およぶべき也、不然しからずんば、公武の間を隔絶せんとするの奸賊ありて、外夷拒絶に及び難しと。朕念ふに、先帝遺腹ゐふくの妹を以て、百有餘里の外にし、而も古来未曾有之武臣に尚せんこと、朕が意実に忍びざる所也。然るに幕吏しきりに内外の事情を陳謝し、朕があはれみを請て不止やまず。朕も意に不忍しのばずと雖も、祖宗の天下の事には代へ難しと、意を決して其こひを許し、十年を不出いでず、必然外夷掃除さうぢよの事を命じ、且海内大小名に朕意ちんがい伝示でんしし、武備充実せしめんとす。幕吏連署奏状そうじやうし、皆朕が命を聴く。故に去冬、和宮入城の事に及べり。然るに今春に至り、幕吏安藤対馬守、浪士の為に刺さる。是等皆、掃部頭を刺せし者と同意の者にして、如此かくのごとき輩は、死を視ること帰するが如く、実に勇豪ゆうがうの士也。嗚呼、此輩をして、少く其憤鬱ふんうつする所を押へしめて、諭すに丁寧誠実の言を以てして、暫く其勇気をたくはへしめ、他日非常の変に用ひ、其をして先鋒たらしめば、けんを衝きえいを挫くに於て、何の難きことかあらんや。誠にをしむべきの士也。然るを幕府、意をここ不著つけず、日夜猶其餘党をさぐる。是おもふに、うらみを天下に構へて、事に於て益なく、其本にかへらずして、只に威力を以て制せんとす。是をとらふれば、わざはひここに生じ、天下之変止む時なく、終に大変を激生げきせいするに至らん。是朕が深く憂慮する所也。きく、翌十六日、将軍拝廟はいべうの事あり。有司前日の変を以て、拝廟の事を延引せんと謂へり。然るに将軍、嘗て拝廟のことを不廃はいせずして、之を行へりと。朕、其寛量くわんりやうを愛し、因て思ふ。庚申三月以来、九門外に守兵を置き、又関白邸亭ていていにも兵士を置、或は参朝に密密武士をして、非常に備ふと。是等、朕、深く慙憂ざんいうする所也。因て又思ふに、往年三社に奉幣せし以来、神州の汚穢をくわい洒掃さいさうせんことを朝夕禱請たうせいして、又法楽はふらくをも、至今いまにいたるも猶之を行ふ。庶幾こひねがはくは、以て前の志願を全うして、之ををへんと。去年げんを改め、天下ととも更始かうしす。公主既に尚し、公武実に一和いちわす。此時におよんで、既往の咎めざるの教に由り、天下に大赦し、三大臣の幽閉を免じ、列藩臣の禁錮を赦し、有志の士の連座せる者をはなたんことをすみやかに告幕府ばくふにつげ、以て此挙をおこなはしめよ。是朕所深欲ふかくほつするところ也。爾後天下心を合せ、力を一にし、十年内を限り、武備充実せしめ、断然として、夷虜いりよに諭すに利害を以てし、一切に之を謝絶し、若不聴きかざれば、速に膺懲之師をあげ、海内の全力を以て、入ては守り、出ては制せば、あに神州の元気を恢復せんに難きことあらんや。若不然しからずして、ただに因循姑息、旧套に従て不改あらためず、海内疲弊の極、つひには戎虜の術中に陥り、座しながら膝を犬羊けんやうに屈し、殷鑑いんかん不遠とほからず、印度の覆轍ふくてつふまば、朕、実に何以なにをもつてか先皇在天の神霊に謝せんや。若幕府、十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師をおこさずんば、朕、実に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤ゐしように則とり、公卿百官と、天下の牧伯ぼくはくひきゐて親征せんとす。卿等けいら、其斯意このいを体して、以て朕に報ぜんことを計れ。


〔追記〕
「堀田備中守」は堀田正睦、「前将軍」は徳川家定、「一橋刑部卿」は徳川慶喜、「間部下総守」は間部詮勝、「井伊掃部頭」は井伊直弼、「安藤対馬守」は安藤信正、「関白邸亭ニモ兵士ヲ置」の「関白」は九条尚忠である。

「忠香公手録」(「孝明天皇紀」百三十一所収)に、「坂下門外変事被聞食、時勢御歎息、元来思食、方今思食被表候御帖左之通。」として、前に謹載した勅書を掲ぐ。

「村井政礼日記」(「孝明天皇紀」百三十一所収)に曰ふ。「文久二年六月七日、去月十一日詔書同時ニ被仰出候思召書之儀ハ、堂上方ヘ於禁中為見被下候耳ニテ、書写等之儀ハ、一切不相成、然ル処、薩長二藩之儀ハ、勅使東行ニ付テハ、周旋被仰付之儀故、内々一本ツツ被下之儀由、依テ極々密々久坂玄瑞ニ約定致置、今午後同人方ヘ行向、写一本借用、」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月24日日曜日

時局重大に際し三策を群臣に御諮詢の御沙汰書

(文久二年五月十一日)


ちんおもふに、方今はうこん時勢じせい夷戎いじゆう猖獗しやうけつほしいままにし、幕吏ばくり措置そちうしなひ、天下てんか騒然さうぜんとして、万民ばんみん塗炭とたんちむとほつす。ちんふかこれうれふ。あふぎては祖宗そそうぢ、しては蒼生さうせいづ。しかるに幕吏ばくりそうしていはく、近来きんらい国民こくみん協和けうわせず、これもつ膺懲ようちようぐることあたはず、ねがはくは皇妹くわうまい大樹たいじゆ降嫁かうかせば、すなは公武こうぶ一和いちわしかして天下てんかちからあはせて、もつ夷戎いじゆう掃攘さうじやうせむと。ゆゑところゆるす。しか幕吏ばくり連署れんしよしていはく、十年じふねんうちかなら夷戎いじゆうはらはむと。ちんはなはこれよろこび、まことぬきんでてかみいのり、もつ成功せいこうつ。昨臘さくらふ和宮かずのみや関東くわんとうるや、千種ちぐさ少将せうしやう岩倉いはくら少将せうしやうをして、天下てんか大赦たいしやことさとさしめ、げていはく、国政こくせいきうりて大概たいがい関東くわんとうまかす、外夷ぐわいいことごときにいたりては、すなはくに一大いちだい重事ぢゆうじなり、國體こくたいかかはものは、ことごとちんひてしかのちさだし、あるひ二三にさん外藩臣ぐわいはんしんをして、あらかじ夷戎いじゆう所置しよちかしめよと。幕吏ばくりこたへていはく、宸意しんいことはなは重大ぢゆうだいにして、にはか奉行ほうかうがたし、しばら猶豫いうよあらむことをと。すでにして頃日このごろ列藩れつぱん謀議ぼうぎたてまつものり。さつちやう二藩にはんごときは、ことしたしくきたりてことそうす。山陽さんやう南海なんかい西国さいこく忠士ちゆうしすで蜂起ほうきして密奏みつそうしてはく、幕吏ばくり奸徒かんとおほく、正義せいぎす、しか王家わうかないがしろにして夷戎いじゆうむつぶ、物貨ぶつくわ濫出らんしゆつして、国用こくよう乏耗ばふかうし、万民ばんみん困弊こんぺいきよくほとん夷戎いじゆう管轄かんくわつくるにいたるや、ならずしてきなり、こひねがはくは旌旗せいきげて、鸞輿らんよ函嶺かんれいほうじ、幕府ばくふ奸吏かんりちゆうせむと。あるひいはく、太平たいへい浸潤しんじゆん游惰いうだへいのぞかむがために、京師けいし奸徒かんとちゆうせむと。又曰またいはく、幕府ばくふかへりみずして、攘夷じやういれい五畿ごき七道しちだう諸藩しよはんくださむと。衆議しゆうぎごときは、ことごと忠誠ちゆうせい憂国いうこく至情しじやうづといへども、ことはなは激烈げきれつにして、さつちやうはいさとして鎮圧ちんあつせしむ。幕老吏ばくらうり久世くぜ大和守やまとのかみすも、往復おうふくて、いま唯諾ゐだくげず。しかして昨臘さくらふさとところ大赦たいしやおこなふ。大樹たいじゆなほわかし。なんしつこれらむ。ただ幕吏ばくり因循いんじゆんにしてやすきぬすみ、撫馭術ぶぎよじゆつうしなふ。かくごとくならばすなは国家こくか傾覆けいふくちてきなり。ちん憂懼いうくす。所謂いはゆる一日いちにちやすきぬすみて、百年ひやくねんうれひわする、聖賢せいけん遺訓ゐくんかんがし。まさうち文徳ぶんとくをさめ、そと武衛ぶゑいそなへて、断然だんぜん攘夷じやういこうつべし。ここおい衆議しゆうぎ斟酌しんしやくし、中道ちゆうだう執守しつしゆして、徳川とくがはをして祖先そせん功業こうげふおこし、天下てんか綱紀かうきらしめむとほつす。りて三事さんじさくす。

いちいはく、大樹たいじゆをして大小名だいせうみやうひきゐて上洛じやうらくし、国家こくかをさ夷戎いじゆうはらはむことをし、かみ祖神そしん宸怒しんどなぐさめ、しも義臣ぎしん帰嚮きかうしたがひて、万民ばんみん和育わいくもとゐひらき、天下てんかをして泰山たいざんやすきせしめむとほつす。

いはく、豊太閤ほうたいかふ故典こてんりて、沿海えんかい大藩たいはん五国ごこくをして、五大老ごたいらうしようせしめ、国政こくせい咨決しけつし、夷戎いじゆう防禦ばうぎよするの所置しよちさしむれば、すなは環海くわんかい武備ぶびは、堅固けんご確然かくぜんとして、かならずや攘夷じやういこうらむ。

さんいはく、一橋ひとつばし刑部卿ぎやうぶきやうをして大樹たいじゆたすけ、越前ゑちぜん前中将さきのちゆうじやうをして大老職たいらうしよくにんじて、幕府ばくふ内外ないぐわいまつりごと輔佐ほさせしむれば、まさ左袵さじんはづかしめけざるべし。万人ばんにんのぞみにして、おそらくはたがはざらむ。

ちん三事さんじけつす。これもつ使つかひ関東くわんとうくだす。けだ幕府ばくふをして三事中さんじちゆういつえらびてもつおこなはしめむとほつするなり。これもつあまね群臣ぐんしんはかる。群臣ぐんしん忌憚きたんするところく、おのおの心丹しんたん啓沃けいよくして、よろしく讜言たうげんそうすべし。


〔追記〕
「千種少将」は千草有文、「岩倉少将」は岩倉具視、「久世大和守」は久世広周、「一橋刑部卿」は徳川慶喜、「越前前中将」は松平慶永である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月23日土曜日

石清水八幡宮に内憂外患を祈禳し給へる宣命

(元治元年九月十七日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ石清水いはしみづ御座ましませる八幡大菩薩はちまんだいぼさつ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをしたまはくとまをさく。七月しちぐわつ不意ゆくりなく禁門きんもんちか干戈かんくわうごかすのわざはひおこりて、民屋みんをくおほうしなひ、武士ぶし東西とうざいみだはしり、公民おほみたから遠近をちこちはしのがれ、こと躁驚さやぎぬるを、ふか御意おほみこころなやましめたまひしが、不日ひならず静謐せいひつりぬれど、叡慮えいりよなほやすまりたまはず。周防すはう長門ながと凶徒等きようとらを、はらしづたまはむとおもほしめす。しかるにまた戎虜じゆうりよ来寇らいかうすと聞食きこしめす。かれこれひ、皇国くわうこく患難くわんなんここいたるは、ちん不徳ふとくまねところかと、昼夜ちうや間無ひまなうれおもなげたまふ。かくごとわざはひはらのぞくことは、人力じんりよくおよばざるところなり。けまくもかしこ大菩薩だいぼさつはや神威しんゐきて、はら退ほろぼたまひ、天下てんか安国やすくにたひらたまをさたまはむことを、あふいのいのたまふ。。ここもつて、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正二位しやうにゐかう権大納言ごんだいなごんけん大宰権帥だざいごんのそつ藤原ふぢはら朝臣あそみ俊克としかつ差使さしつかはして、金銀きんぎん御幣みてぐらささたしめて奉出給まつりいだしたまふ。さまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、たとひ時世じせい禍乱くわらんなりとも、すみやかたけいつ霊験れいげんたまひ、戎夷じゆうい凶徒きようとはら退しづおさたまひて、いまより已後いごくに災害さいがいたみ憂患いうくわんを、皆悉みなことごといまきざさざるのほかはらのぞたまひて、四海しかいたひらけく公民おほみたからやすらけく、宝祚あまつひつぎ延長えんちやうに、武運ぶうん悠久いうきうに、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはあはれたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

禁門きんもん 宮城の御門のこと。「宮門」または「禁闕」と同じ。

戎虜じゆうりよ 文の終にある「戎夷」と同じ。「えびす」即ち野蛮国を意味する語。異国人を軽侮する時に用ゐられてゐる。

天下てんか安国やすくにたひら 天下を平定して安らかにをさまれる国にすること。中臣寿詞に曰ふ。「豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけくしろしめして。」


〔史実〕
幕府の勢威が失墜して、尊皇攘夷論が盛になるにつれて、種々の事件が相次いで勃発した。朝命黙し難く、幕府が攘夷決行の期日と定めた文久三年(1863)五月十日になると、長州藩は、米国船を砲撃し、その翌々月、薩摩藩もまた英国軍艦と砲火を交へた。しかるに、同年八月十八日に至り、朝議が俄に一変し、京都守護職松平容保が禁門を警衛し、尊皇攘夷論の首魁者たる長州藩主毛利敬親の入京を停め、長州藩士を悉く解任した。尊皇の志士は、幕府の措置に憤慨して、兵を挙げる者が各地に起つた。松本奎堂は大和の五条に、平野国臣は但馬の生野に、藤田小四郎は常陸の筑波に、それぞれ同志を糾合して、討幕の魁をしたが、何れもみな力尽きて滅びた。

長州藩士福原越後ゑちご国司くにし信濃しなの・益田右衛門介うゑもんのすけ等は、朝議の復旧を志し、元治元年、兵を率ゐて東上し、藩主以下の赦免を奏請したが許されなかつた。伏見街道を北上した福原は、大垣の兵に遮ぎられ、嵯峨を発して蛤御門に向つた国司と、山崎から堺町御門に向つた益田は、会津・桑名・薩摩の兵の迎撃を受けて、何れも敗走した。蛤御門の戦闘は、最も激烈を極め、恐れ多くも銃丸が御所に達したこともあつたといふ。これを世に蛤御門の変といつてゐる。

この内憂外患に深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、蛤御門の変が鎮静してから間もない元治元年九月十七日に、石清水八幡宮に奉幣したまうて、国難を祈禳あらせられた。ここに謹載したのがその宣命である。

なほこの元治元年から、慶応二年にかけて、諸社に奉幣したまうたことは、十餘回の多きに及んでゐる。本巻には、この宣命を謹載するのみに止めたが、他の多くの宣命を拝誦して、いかに重大時局の難関に大御心を悩ませたまうたかを察し奉る時、我等は胸の痛み来るを感ずる。

その他に、天皇の大御心を最もよく拝し奉ることの出来るのは、当時、輔弼の重臣に賜はつた宸翰である。その中の二三を次に謹載奉誦することにする。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月22日金曜日

大神宮に外患を祈禳し給へる宣命

(文久三年三月一日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみした磐根いはねに、大宮柱おほみやばしら広敷立ひろしきたて、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほかみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをさく。夷俘いふ日本国につぽんこく汚穢をくわいかろんじあなどるのこころ今更いまさらえずして、ややもすればもどろえりひだりするのはぢけむと、おもつつしふかおそたまふ。加之しかのみならず頃日このごろ英夷えいい軍艦ぐんかんすとなむ聞食きこしめす。さまたづぬるに、むさぼすき覬覦うかがふの心情こころあきらかにしるし。りて許多あまた軍将ぐんしやうもつ沿海えんかいまもらしめ、夷賊等いぞくら軍争ぐんさうおさしづめ、皇威くわうゐうみそとかがやかし、なが夷賊等いぞくらあなど覬覦うかがふのねんたしめむとおもほしめす。皇太神すめおほかみは、みかど太祖おほみおや御座ましまして、らしたままもたまふにりて、なほ擁護ようごちかひあきらかにいのたまふとなむ。ここもつて、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、従二位行じゆにゐかう権中納言ごんちゆうなごん藤原ふぢはら朝臣あそみ光愛みつよし従四位上じゆしゐじやうかう侍従じじゆう藤原ふぢはら朝臣あそみ実梁さねむね差使さしつかはして、内外宮ないげくうつかまつらしめたまふ。けまくもかしこ皇大神すめおほかみさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、夷賊等いぞくら軍艦ぐんかんきたすも、激浪げきらうげ、飈風へうふうおこし、千里せんりそとはら退ただよしづたまひて、皇御孫命すめみまのみことの御国みくに常磐ときは堅磐かきはに、天地あめつちともひさしく、日月にちげつともあきらかに、弥継継いやつぎつぎ御世みよ御世みよも、くに浦浦うらうら賤民しづがたみも、安穏あんをん泰平たいへいに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまへと、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをす。

夷俘いふ 「とりこ」といふ意味の語であるが、ここに仰せられてあるのは、「夷狄」即ち「えびす」の意味に拝する。「えびす」は野蛮人といふこと。外国人を軽蔑していふ語である。

もどろえりひだり いれずみをし左前に衣服を著るといふことで、異国人が野蛮人として取扱はれる最大の恥辱を喩へた語。「文身」は「いれずみ」(刺青)である。「礼記」の王制に、「東方、夷ト曰フ、被髪文身、火食セザル者有リ。」とある。「左袵」は「左衽」とも書く。「左前」即ち襟を左合せにして衣服を著ることをいふ。夷の衣服の著方といはれてゐる。「論語」の憲問篇に、「管仲カリセバ、吾其レ被髪左衽セン」とある。

飈風へうふう はげしいつむじ風のこと。「爾雅」に曰ふ。「暴風、下ヨリ上スルヲ飈風ト曰フ。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、文久三年三月一日、伊勢大神宮に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。

安政五年(1858)六月、勅許を待たずして、日米通商条約に調印した幕府の専断に対しては、これを非難する声が四方に起つた。特に尊皇論者は、鋭く幕府の違勅を責めて、盛に討幕論を唱へ、また攘夷説を叫んだ。大老井伊直弼は、この囂々たる世論を鎮圧するために、尊王の志士を捕へて、所謂安政の大獄を起し、天下の耳目を聳動せしめたが、時代の大勢を逆行することは出来なかつた。幕府の威信は、ますます地に墜ち、士気はいよいよ頽廃し、ただ朝命のままにこれを遵奉する能なく、既に事変に対処する実力を失つた。

尊皇攘夷論が勢力を占むるに至り、朝廷に於かせられては、文久二年(1862)十月、勅使を東下せしめられて、幕府に攘夷を命じたまうた。将軍家茂は、遂に攘夷の時期を翌年五月十日と定めてこれを奏上し、遍く列藩に布告した。

攘夷論者の中には、外国人に対して反感を抱く者が多く、不祥な事件もしばしば生じた。文久二年十二月には、長州藩士が江戸品川の英国公使館を焼いた。種々の流言蜚語も乱れ飛んだ。英国の艦隊が大挙して侵寇するといふ風評もあつた。その不穏な空気は、現代人の想像を絶してゐた。

かうした世相に宸襟を悩ませたまうて、皇大神宮に祈請したまうたこの宣命は、我が国民が永遠に忘るべからざるものである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月21日木曜日

大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命

(安政五年六月十七日)


けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみした磐根いはねに、大宮柱おほみやばしら広敷立ひろしきたて、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほかみ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをしてまをさく。統仁をさひと薄徳はくとくもつて、みだり洪基こうきまもるとも、せいなほ童蒙どうもうなり。とくほどこすこといま四海しかいあまねからずして、天日嗣あまつひつぎつたへ、古今ここんかへりみてひとおそるとも、ひとへあつ御恤おんめぐみひろ御助おんたすけきなり。ここぬる嘉永かえいとしより以往このかた蛮夷ばんいしばしばきたれども、こと墨夷ぼくい魁首くわいしゆて、ふかくに和親わしんところ後年こうねん併吞へいどんきざしまた邪教じやけう伝染でんせんまたおそし。もとめさからへば、戦争せんさうおよきのよしまをす。じつ安危あんきあひだけつがたおもわでらふところ、東武とうぶいて応接おうせつおよび、方今いまこばきのこころもなく、時勢じせい変革へんかくもつて、貿易ばうえき通交つうかう許容きよようせむとほつす。すなは天下てんか国家こくか汚辱をぢよく禍害くわがいとほからずと、ひるともよるともく、めてもうれねてもうれふ。兵船へいせんきたるべくらば、皇太神すめおほかみはや照察せうさつたまひ、こと神徳しんとく擁護ようごもつて、蒙古もうこ旧蹤きうしようごとく、神風かみかぜほどこたまひ、賊船ぞくせんただよしづめしめ、鎮護ちんごちかひたがはずして、天変てんぺん地妖ちえうくわいきなりとも、のぞたまひて、泰平たいへい延長えんちやうに、公武こうぶ和熟わじゆくし、うたがひざんり、不正ふせい流言りうげんおこらず、臣庶しんしよ黎民れいみんいたるまで、姦計かんけいさしはさみ、国恩こくおんむくいざるものは、神罰しんばつかうむらしむきなり。ねがはくは冥助みやうじよあふぎ、霊験れいげんたのきにりて、幣使へいし発遣はつけんせしめ、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正二位行しやうにゐかう権大納言ごんだいなごん藤原ふぢはら朝臣あそみ公純きみずみ差使さしつかはして、礼代ゐやしろ幣帛おほみてぐらいつかささたしめて、御馬みうまへて奉出まつりいだしたまふ。皇太神すめおほかみさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、國體こくたいあやまらずして、禍乱くわらんのぞたまひ、四海しかい静謐せいひつ万民ばんみん娯楽ごらくなが戎狄じゆてきうれひなく、五穀ごこく豊熟ほうじゆくにして、宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまへと、かしこかしこみもまをしてまをす。


〔史実〕
これは、安政五年(1858)六月十七日、伊勢大神宮に奉幣あらせられて、外患を祈禳したまうた宣命である。

嘉永六年(1853)、アメリカの使節ペリーが浦賀に来り、再訪を約して帰国してから、対外関係は、最大の難局に直面した。翌年(安政元年)正月、ペリーは再び浦賀に来り、開港を強要した。対策に窮した幕府は、三月三日、日米和親条約に調印して、下田と函館の二港を開いた。そこで、安政三年(1856)七月、米国総領事ハリスは、下田に来りて玉泉寺を領事館とし、十月、将軍に謁して国書を呈し、老中堀田正睦を訪ひ、世界の形勢を語り、通商条約締結の必要を説いた。その間には、露国の使節、英国の使節等も、しばしば来朝して、それぞれの要求を提出した。大勢に抗し難きことを察した幕府は、ハリスの提言を容れて、通商条約を議し、遂に神奈川・兵庫・長崎・函館・新潟の五港を開き、公使・領事の駐剳、外人の信教自由、治外法権を認め、輸出・輸入等に関する規則を定めて、勅裁を奏請した。しかるに、当時、徳川斉昭をはじめ、攘夷の説を高調して、幕府の外交策に反対する者が多かつたので、朝廷に於かせられては、幕府の奏請を許したまはず、更に諸大名の衆議を尽くして上奏するやうにと勅答あらせられた。一方に於ては、ハリスが条約の調印を強硬に迫つてやまなかつたので、幕府もここに進退きはまり、安政五年六月十九日、勅許を待たずして条約に調印した。

ここに謹載した宣命は、この幕府の条約調印二日前の詔である。この緊迫した時局を察して本詔を拝する時、国家の前途を深く憂ひたまうた大御心が一そう畏く偲ばれる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月20日水曜日

賀茂例祭に外患を祈禳し給へる宣命

(安政五年四月十六日)


天皇すめら御命おほみことせ、けまくもかしこ賀茂かも皇太神すめおほがみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをさく。大神おほかみたすたままもたまふにりて、天皇すめら朝廷みかどは、たひらけく大坐おほましまして、食国をすくに天下あめのした事無ことなしとてなむ、つねすすむる宇都うづ大幣おほみてぐらを、正五位下しやうごゐげ内蔵頭くらんどのかみけん摂津守せつつのかみ大江おほえの朝臣あそみ俊有としありささたしめて、阿礼乎止己あれをとこ阿礼乎止女あれをとめ走馬はしりうますすめらると、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。頃年このごろ以来より諸夷しよいしばしばきたうちにしも、墨夷ぼくいは、伊豆いづ下田しもだきたり、うち覬覦きゆこころいだき、そと和交わかうよしみむすび、港口こうこうひらき、商館しやうくわんてむことをもとむ。応接おうせつ聞食きこしめすに、事情じじやうはなは驕慢けうまんにして、れいくこともし。まこと皇国くわうこく大患たいくわん天下てんか深憂しんいうにして、安危あんきあひだ治乱ちらんもとなれば、ゆるがせにすからざるときなり。くのごと國體こくたいにもかかはりなむとする危難きなんいたることは、ちん菲徳ひとくりていたところか、敬神けいしんあさきがいたところかと、めてもねてもあやぶたまおそたまひ、あふいで祖宗そそうみちおもひ、して億兆おくてうこころさつし、あした群臣ぐんしんはかり、ゆうべ叡慮えいりよらしめたまふ。けまくもかしこ大神おほかみ此状このさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、ひろ御助おんたすけをたまひ、昊天かうてん慈雨じうくだすがごとく、はや神州しんしう汚辱をぢよくあらたまひ、すすたまひて、いまより以往のち天下てんかいよいよ泰平たいへいに、国家こくかますます安全あんぜんに、宝祚はうそ長久ちやうきう万民ばんみん娯楽ごらくならむことを、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

御命おほみこと 「仰せられる御言葉でござると」といふこと。「坐す」は、「在り」「居る」の敬語である。「御命に坐せ」は、前に謹載した宣命の中にも、しばしばこれを拝してゐる。

阿礼乎止己あれをとこ 「阿礼男」である。「阿礼」は、奉幣といふ意味の語。毎年四月、賀茂祭に際し、神前に捧げる榊に、綵帛を垂れ、綱をつけて引いて行くのを、「あれひき」といふ。「阿礼男」は、奉斎をする男といふこと。賀茂祭の祭主の称ともいふ。

阿礼乎止女あれをとめ 「阿礼少女」である。「奉斎する少女」の意味。「阿礼」は、「阿礼男」の「阿礼」と同じ。賀茂の斎宮いつきのみや内親王の異称を、「阿礼少女」といつた。「類聚国史」巻五に、天長八年十二月、賀茂の斎内親王を替へたまうたことを記して、「阿礼乎止売に(中略)時子女王を卜定うらへさだめてまゐらする状を」とあり、「三代実録」巻第三十、元慶元年二月の条に、「可令奉仕つかまつらしむべき物なりとてなも、敦子内親王を卜定めて、阿令乎度女に進状を」とある。

走馬はしりうま 「疾く走り行く馬」といふ字義。「くらべうま」「うまかけ」「競馬」等の意味にも用ゐられてゐる。「左右馬寮式」に、「凡賀茂二社祭、走馬十二匹」とあり、賀茂祭には、古くからこれを捧げるのが神事になつてゐたものと思はれる。

墨夷ぼくい アメリカ人のこと。アメリカに亜墨利加の文字を当ててゐたからである。

覬覦きゆ 隙をうかがつて非望を遂げようとすること。「左伝」の桓公二年に、「民其ノ上ニ服事シテ、下覬覦スルコトナシ。」とあり、註に「下上位ヲ冀望セズ。」とある。

昊天かうてん 「夏の空」または単に「空」を意味する語。「爾雅」の釈天に、「夏ヲ昊天ト為ス。」とあり、「周礼」の春官に、「禋祀ヲ以テ昊天上帝ヲ祀ル。」とある。

慈雨じう めぐみの雨。転じては、庶人に遍く恩恵の及ぶことの喩に用ゐられる語。梁簡文帝の「請武帝御講啓」に曰ふ。「油然慧雲、霈然ハイゼン慈雨、光斯盛業、導彼蒼生。」


〔大意〕
天皇の仰せであると、まことにたふとくまします賀茂の皇大神の御前に、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。大神の御助けと御護りによつて、我が皇室は御安泰にましまし、我が国家も無事であるとのおぼしめしから、例年上りたまふ大幣を、正五位下内蔵頭兼摂津守大江朝臣俊有に捧げ持たしめて、神宮に奉仕する男女や、走馬等を進め奉るのであるといふことを、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。この頃から、諸国の異人が度々来るその中でも、アメリカ人は、伊豆の下田に来て、心の中に我が隙をうかがつて、非望を遂げようとする野心をもち、うはべに和交の好を結んで、港を開き、商館を建てたいといふことを乞ひ求めてゐる。その応接の態度を聞しめすに、すべての事がらが甚だ驕慢であり、無礼であり、この上もなく不埒である。まことに、皇国の大いなる災難であり、天下のために深く心配すべきことであり、安危のわかれるところ、治乱の本ともなるから、軽々しいことをしてはならない時である。かやうに、國體にも関係しようといふ危難が生じたことは、朕の徳が薄いためであらうか、神を敬ふ心が浅いためであらうかと、てもさめても、御不安におぼしめされ、仰いでは、御先祖にまします天皇の道をおかんがへになり、俯しては、万民の心をお察しになり、朝には多くの臣と御相談なされ、夕には大御心を悩ませられる。まことにたふとくあらせられる大神には、このありさまを平けく安けく聞しめして、厚い御めぐみと、大いなる御助けを垂れたまひ、夏の空からめぐみの雨が降るやうに、早く我が日本の汚辱を洗ひたまひ、すすぎたまうて、これから後、天下はいよいよ泰平に、国家はますます安全に、天皇の御位が永久につづき、万民が楽しんでくらすやうに、御護りなさつて、幸福をお与へ下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。


〔史実〕
これは、安政五年(1858)四月十六日、賀茂神宮の例祭に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。

嘉永六年(1853)に、再訪を約して帰国した米国使節は、翌年(安政元年)正月、再来して開港を要求した。その後の経緯は、次に謹載する「大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命」の後に略述する。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月19日火曜日

安政改元の詔

(安政元年十一月二十七日)


けだく、皇猷くわういうよろしき寰宇くわんう乂安がいあんなれば、すなは天地てんち祥瑞しやうずゐおうあらはし、庶政しよせいあきらかならずして民人みんじん疾苦しつくせば、すなは陰陽いんやう災眚さいせいへんしめすと。嗚呼ああつつしまざるけむや。ちんみだり眇眇べうべうもつて、つつしみて元元げんげんうへたくす。鴻業こうげふぎてより、たび寒暑かんしよけみし、夙夜しゆくやつつしおそれて、底寧ていねいいとまあらず。しかるにまことものかんぜず、くわとほおよばず。元気げんき鬱塞うつそくして、祝融しゆくゆうたたりし、宮闕きゆうけつ蕩然たうぜんとして、わざはひ閭閻りよえんおよび、洋夷やうい出没しゆつぼつして、腥羶せいせん薫騰くんとうし、辺海へんかいやすからずして、士夫しふ勤労きんらうす。加之しかのみならず六月ろくぐわつ以来いらい坤徳こんとくつねさからひて、近畿きんき地震ちふるひ、餘動よどうきやうおよびて、いまいままず。つまびらかおもふに、咎徴きうちよう予一人よいちにんり。大和たいわ導迎だうげいして、もつ衆変しゆうへん弭消びせうせしめむことをおもふ。よろしく冠元くわんげんへて、あまね宥過いうくわたくほどこすべし。嘉永かえい七年をあらためて安政あんせい元年ぐわんねんし、天下てんか大赦たいしやせよ。今日こんにち昧爽まいさう以前いぜん大辟たいへき以下いかつみ軽重けいぢゆうく、已発覚いはつかく未発覚みはつかく已結正いけつしやう未結正みけつしやうは、ことごとみな赦除しやぢよせよ。ただし犯八虐はんはちぎやく故殺こさつ謀殺ぼうさつ私鋳銭しちうせん強窃二盗がうせつにたう常赦じやうしやゆるさざるところものは、かぎりらず。また天下てんか今年こんねん半徭はんえうふくせよ。老人らうじんおよ僧尼そうにとし百歳ひやくさい以上いじやうには、こく四斛しこくあたへよ。九十くじふ以上いじやうには三斛さんごく八十はちじふ以上いじやうには二斛にこく七十しちじふ以上いじやうには一斛いちこくとせよ。庶幾こひねがはくは、いまよりものとも一新いつしんし、かみ天譴てんけんこたへ、しも人望じんばうかなひ、六府りくふをさまり、万方ばんぱううれひからむことを。天下てんか布告ふこくして、ちんらしめよ。主者しゆしや施行しかうせよ。


寰宇くわんう乂安がいあん 天下太平または国家平安と同じ。「寰宇」は国のうち、「乂安」は安らかに治まること。

災眚さいせいへん 「災変」と同じ。「災眚」は「わざはひ」である。「後漢書」に、「災眚ヲ消救シ、黎元ヲ安輯セヨ。」とある。「眚」は過失を意味する文字で、過失及び災難による犯罪を「災眚」また「眚災」といふこともある。

底寧ていねいいとまあら 心を安んずる暇がないといふこと。「底寧」は、「寧に至る」即ち安心である。

祝融しゆくゆうたたり 火事が起ることの喩。「祝融」は火の神である。転じて火災の意味に用ゐられてゐる語。「左伝」の昭公二十九年に、「火正ハ祝融ト曰フ。」とある。

わざはひ閭閻りよえんおよ 多くの民が災難を蒙つたといふこと。「閭閻」は、里中の門を意味する語。村里の人々といふ意味に転用せられる。「史記」の李斯伝に曰ふ。「斯ハ閭閻ヲ以テ、諸侯ヲ歴テ、入リテ秦ニ事フ。」

洋夷やうい出没しゆつぼつ 外国人が往来すること。幕末から明治初年には、外国人のことを洋夷と称した。

腥羶せいせん薫騰くんとう なまぐさい獣肉がくすぼりあがるといふ意味の語。不快不穏な空気が漂ふことの喩。「腥羶」は「なまぐさい獣」である。その獣肉を食ふ外国人を罵る語として用ゐられた。「薫騰」は「熏騰」と同じ。「薫」は「熏」に通ずる。

坤徳こんとくつねさから 地上に異変を生ずることをいふ。「坤徳」は、万物を育成する大地の徳である。

衆変しゆうへん弭消びせう 多くの災変が再び起らないやうにすること。「弭消」は、「とどめ消す」といふ意味の語である。

六府りくふをさまり 天地がしづかに穏かになること。「六府」は天地の蔵の意味。財用の出づる六つのもの即ち水・火・金・木・土・穀の総称となつてゐる。「書経」の大禹謨に曰ふ。「地平天成ニシテ、六府三事ハマコトニ治マル。」とある。

万方ばんぱう 四方の国々をいふ。書経の湯誥に、「アア爾万方ノ有衆」とある。


〔史実〕
孝明天皇の嘉永七年(1854)十一月二十七日、その年を安政元年と改元の旨を仰せ出された。ここに掲げ奉つたのが、その詔である。

嘉永六年六月には、米国の使節ペリーが、軍艦四隻を率ゐて浦賀に来り、国書を齎らして通商を強要し、同年七月には、露国の使節プゥチャーチンが長崎に来り、国境の確定、通商の開始を望む等、外交上の問題が日毎に錯綜した。天皇の御深憂一方ならざりし折柄、嘉永七年六月以来、近畿にしばしば震災が起つたので、本詔の如く、改元を仰せ出されて、天下に大赦を命じたまうたのであつた。

しかるに、天は無情にも災禍を止めず、安政二年十月に至り、江戸に大地震が起り、死傷者が十万餘人の多きに及んだ。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月18日月曜日

神嘗祭に外患を祈禳し給へる宣命

(嘉永六年九月十一日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみ下津したつ磐根いはね大宮柱おほみやばしら広敷ひろして、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほがみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申賜まをしたまへとまをさく。つね奉賜たてまつりたま九月くぐわつ神甞かんなめ御幣おほみてぐらを、王位わうくらゐ姓名せいめい中臣なかとみ官位くわんゐ姓名せいめいたち差使さしつかはして、忌部いむべくらゐ姓名せいめい弱肩よわかた太繦ふとだすき取懸とりかけて、礼代ゐやしろ御幣おほみてぐら持斎もちゆまはりささたしめて、奉出まつりいだたまふ。此状このさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりに、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。近年きんねん奈何いかにや、夷船えびすのふね東海とうかいわたきたりぬ。既去いに六月ろくぐわつ相模国さがみのくに浦賀うらがきたりしが、ひろ御恤おんめぐみのしるしにやは、かれたちままかりぬれど、また八月はちぐわつに、西海さいかいきたきぬとなむ聞食きこしめす。くのごとことしばしばりぬれば、諸国しよこく諸人しよにんこころをも、奈何いかにやはと、となくとなくおそたまあやぶたまふ。かんながらも此状このさま聞食きこしめして、たふとしるしあらはたまひて、いまきたらざるわざはひをもはらのぞたまひて、四海しかいいよいよしづかに、國體こくたいいよいよやすらけく、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。


伊勢いせ度会わたらひ 「渡会」は地名。

下津したつ磐根いはね 磐のやうに堅い地の底といふ意味の語であらう。基礎の鞏固なことの喩。「底津磐根」といふに同じ。「祈年祭祝詞」に、「下磐根に宮柱太知り立て、」とあり、「大殿祭祝詞」に、「此れの敷坐しきま大宮地おほみやどころは、底津磐根そこついはねきはみ下津綱根したつつなね這ふ虫のわざはひなく、」とある。

大宮柱おほみやばしら広敷ひろし 宮殿の柱をゆつたりと立てるといふ意味の語。宏大な神殿を建築すること。「大宮」は、「皇居」や「神宮」の尊称である。「広敷」は、敷地を広くするといふ語義の文字であらう。江戸の時代には、広間の一名ともなつてゐた。

千木ちぎ高知たかし 「千木」は、「大言海」に、「一名氷木ヒギ。上代ノ家作ニ、切棟作リノ屋根ノ、左右ノ端ニ用ヰル長キ材ニテ、其本ハ、前後ノ軒ヨリ上リテ、棟ニテ行合フヲ組交ヘ、其組目以上、其梢ヲ、ソノママ長ク出シテ空ヲ衝クモノ。其組目ヨリ下ハ、タルキト並ビ、又、屋ノ妻ニテハ、搏風ハフトナル、千木ハ、今、神社ニノミ用ヰル。其梢ノ一角ヲ殺グヲ、かたそぎト云フ。伊勢ノ内宮ナルハ内角ヲ殺ギ、外宮ナルハ外角ヲ殺グ、共ニ風穴ヲ明ク。」とある。「高知り」の「高」は称辞、「知」は、「領有」「治める」といふ意味の語。故に、「高知り」は、「治めたまふ」といふことである。「千木高知り」は、千木を高くをさめたまふといふこと。高くりつぱな建築を営みたまふことの意味である。「日本書紀」の神武紀に、「高天原に搏風ちぎ峻峙たかしりて」とあり、「祈年祭祝詞」にも、「高天原に千木高知りて」とある。「五十鈴の河上の下津磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて」の文字は、伊勢の大神宮に奉幣の宣命に、しばしば拝するところである。前出、伏見天皇の「大神宮に国難を祈禳し給へる宣命」の中にも、これを拝したが、後に掲ぐる宣命の中にこれを拝するものが多い。

称辞たたへごと 御神徳を崇め奉つる詞。「祈年祭祝詞」に曰ふ。「皇御孫命すめみまのみことのうづの幣帛みてぐらを、朝日の豊栄登とよさかのぼりに、称辞たたへごとたてまつらくとる。」

神甞かんなめ御幣おほみてぐら 神嘗祭に上るところの幣帛。神嘗祭は、その年の新穀を伊勢の神宮に上らせたまふ御祭事である。もとは陰暦九月十一日に行はせられたが、今日では十月十七日と定められてある。「御幣」は、神に上るもの。前に度々出てゐる。

弱肩よわかた太繦ふとだすき取懸とりか 「弱肩」は、その文字のとほり、弱々しい肩である。「太繦」は、「大言海」に「たすき」の美称としてある。「たすき」は、「繦」「襁」「襷」等の文字を当ててゐる。「天治字鏡」巻四に、「繦ハ、児ヲ負フ帯ナリ。須支すき。」とある。しかし、これは、肩にかけて手の力を助けるといふことから生じた語であらうといふ。上代から、神事には、肩に紐の如きものをかけて、謹んで物を上る手の力を助け、これを「たすき」と称した。「古事記」上巻に、「天香山あめのかぐやま天之日影あめのひかげ手次たすきけて」とある。「弱肩に太繦取懸け」といふのは、神事に奉仕する者の労を尽くせるさまを称する語として、「祈年祭祝詞」にも、「大殿祭祝詞」にも、「六月月次祝詞」にも出てゐる。

持斎もちゆまはり 「ゆまはる」といふのは、「斎まふ」の延語である。ものいみすること。穢きことを忌み避け、清く身を持して慎しむことをいふ。「大殿祭祝詞」に、「斎玉作いむたまつくり持斎もちゆまはり持浄もちきよまはりつくつかまつれる」とあり、「祈年祭祝詞」に、「忌部いむべ弱肩よわかた太襷ふとだすき取挂とりかけて持ゆまはり仕へ奉れる」とあり、「高橋氏文」に、「天津御食みけを、斎忌いはひゆまはり取持ちて」とある。

諸国しよこく諸人しよにん 天下の万民といふに同じ。国内のすべての民を仰せられてあるものと拝する。


〔大意〕
謹約。「天皇の仰せのとほりに、いともたふとい伊勢の度会の五十鈴の河上の高く荘厳な神殿にまします天照大神の御前につつしみつつしんで申上げる。例年のとほりに、九月の神嘗祭の御幣を、王の某、中臣某を差しつかはし、忌部某がうやうやしく身を浄めて捧げ奉るやうに持たしめてお出しなされる。このことを平安に聞しめして、天皇の御位が永遠にゆるぎないやうに、夜も昼もおまもり下されるやうに、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。近年どうしたことか、異国の船が東海に渡つて来た。去る六月、相模国浦賀に来たが、ありがたい御めぐみのしるしにより、忽ち去つてしまつたのに、また八月になつて、西海に来り著いたと聞しめし、かうしたことが、度々あると、天下の民の心も、動揺するであらうと、毎日毎夜、御不安におぼしめされてある。大神にもこのありさまを聞しめして、尊いしるしをあらはしたまうて、まだ禍の来らないうちに、これを攘ひ除き下されて、天下太平に、國體が安定するやうに、おまもり下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。」


〔史実〕
嘉永六(1853)年六月三日、浦賀に来航した米国東印度艦隊司令長官ペリーに対して、幕府は、最初、国書の受理を拒んだが、ペリーの強要により、やむなく、これを受理するに至つた。国書の授受をへると、ペリーは、明春の再渡を告げ、全艦隊を率ゐてと先づ東京湾を退去した。

米国が日本に使節を送つたといふ情報は、俄然、欧洲諸国の注意を惹いた。はやくから我が北辺を窺つてゐた露国は、海軍中将エウフィーミー・プゥチャーチンを使節として、我が国に派遣した。嘉永六年七月十八日、露使は、四隻の軍艦を率ゐて長崎に来り、穏和な態度を以て、国書の受領を求めた。それは、米艦退去の翌月であつたから、上下の驚愕も甚しかつた。八月十九日、幕府の回訓により、長崎奉行大沢定宅は、露使を引見して、国書を受理した。国書には、千島及び樺太の境界を定めることと、通商を要求することが認められてあつた。幕府は、国事繁劇のために、即答し難き旨を告げておいて、その措置を議し、老中に返書を起草せしめた。境界の決定には、実地踏査の必要があること、通商は、国法の禁ずるところであるから、世界の大勢を考慮して、利害を調査した上で決定すること等が、その回答の要旨であつた。

かうした時局に、深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、九月十一日、神嘗祭に伊勢の神宮に奉幣、ここに謹載した宣命のやうに、国難を御祈攘あらせられたのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)