三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月26日日曜日
外務省雇米国人イペシャインスミツに下し給へる勅語
(明治四年十二月一日)
今般 汝 我 外務省 ノ聘 ニ応 シ、遥 ニ米国 ヨリ来 テ仕 ニ就 ク。我邦 外国 ト交 ヲ締 フ日 タル猶 浅 シ。其規 公法 ニ於 ケルヤ、未 タ詳悉 セサル所 アリ。汝 カ学識 浩博 ナル、以 テ後来 ノ規模 ヲ開 キ、交際 ノ条理 ヲ明 ニセンコトヲ、朕 偏 ニ希望 ス。
2017年11月25日土曜日
条約締結諸国に送達の国書
(明治四年十一月四日)
大日本 帝国 天皇 睦仁 、敬 テ威望 隆盛 友誼 親密 ナル、英吉利 伊太利 荷蘭 魯西亜 瑞典 独逸 墺太利 白耳義 葡萄牙 西班牙 丁抹 布哇 皇帝 陛下 、米利堅 合衆国 仏蘭西 瑞斯 聯邦 大統領 ニ白 ス。朕 、天祐 ヲ保有 シ、万世 一系 ナル皇祚 ヲ践 ミシヨリ以来 、未 タ和親 ノ各国 ニ聘問 ノ礼 ヲ修 メサルヲ以 テ、茲 ニ朕 カ信任 貴重 ノ大臣 、右大臣 正二位 岩倉 具視 ヲ特命 全権 大使 トシ、参議 従三位 木戸 孝允 大蔵卿 従三位 大久保 利通 工部 大輔 従四位 伊藤 博文 外務 少輔 従四位 山口 尚芳 ヲ特命 全権 副使 トシ、共 ニ全権 ヲ委任 シ、貴国 及 各国 ニ派出 シ、聘問 ノ礼 ヲ修 メ、益 親好 ノ情誼 ヲ厚 クセント欲 ス。且 貴国 ト結 ヒタル条約 ヲ改正 スルノ期 、近 ク来歳 ニアルヲ以 テ、朕 カ期望 豫図 スル所 ハ、開明 各国 ニ比 シテ、人民 ヲシテ其 公権 ト公利 トヲ保有 セシメン為 メニ、従来 ノ定約 ヲ釐正 セント欲 スト雖 トモ、我国 ノ開化 未 タ浹 カラス、政律 モ亦 従 テ異 レハ、多少 ノ時月 ヲ費 スニ非 レハ、其 期望 ヲ達 スル能 ハス。故 ニ勉 メテ開明 各国 ニ行 ハルヽ諸 方法 ヲ撰 ヒ、之 レヲ我国 ニ施 スニ適宜 妥当 ナルヲ采 リ、漸次 ニ政俗 ヲ革 メ、同 一致 ナラシメンコトヲ欲 ス。於是 、我国 ノ事情 ヲ貴国 政府 ニ詢 リ、其 考案 ヲ得 テ、以 テ現今 将来 施設 スヘキ方略 ヲ商量 セシメ、使臣 帰国 ノ上 、条約 改正 ノ議 ニ及 ヒ、朕 カ期望 豫図 スル所 ヲ達 セント欲 ス。此 使臣 ハ、朕 カ貴重 信任 スル所 ナレハ、陛下 ・大統領 能 ク其 言 ヲ信聴 シ、之 ヲ寵待 栄遇 セラレンコトヲ望 ミ、且 切 ニ陛下 ・大統領 ノ康福 貴国 ノ安寧 ヲ祈 ル。
○大日本 帝国 天皇 睦仁 明治天皇は、御諱を睦仁 、祐宮 と申上げ奉つた。
○天祐 ヲ保有 シ 「天ッ神の御加護をこの身に蒙り」といふに同じ。詔勅の中に、しばしば拝する語である。「天祐」は、「天助」と同じ。「天のたすけ」である。「易経」の大有に曰ふ。「上九ハ天ヨリ之ヲ祐 ク、吉ニシテ利 ロシカラザル无シ。」また「天佑」の文字も用ゐられてゐる。
○万世 一系 ナル皇祚 「永久にかはらず一すぢにつづく天皇の御位」といふこと。「万世」は、「万代」と同じ。「永遠」の意味。「一系」は、「一統」と同じ。同じ系統の連続をいふ。「皇祚」は、「宝祚」と同じ。皇位即ち天皇の御位、古語の「あまつひつぎ」である。
○聘問 ノ礼 日常用語の「お見舞の挨拶」といふに同じ。「聘」は、「安否をとふ」また「おとづれる」といふ意味の文字である。支那では、諸侯が大夫をして他の諸侯を訪問せしめることを「聘問」といつた。「曲礼」に、「諸侯ノ大夫ヲシテ諸侯ニ問ハシメルヲ聘ト曰フ。」とあり、「儀礼」に、「大問ヲ聘ト曰ヒ、小聘ヲ問ト曰フ。」とある。
○特命 全権 大使 官名。特に大命を受けて全権を負ひ、外国に赴く使者といふ意味の名称である。
○工部 大輔 官名。「工部」は、工部省である。明治三年閏十月二十日設置。当時の各省には、卿一人、大輔一人、少輔一人その他の職員が置かれてあつた。前出。
○外務 少輔 外務省の官名。
○期望 豫図 「豫期」といふに同じ。かねてから心の中に考へ、それが実行せられるやうにと望んでゐること。
○定約 ヲ釐正 「定まつてゐる条約を改める」といふ意味の語。「釐正」は、「改正」と同じ。缺点あるものを正しく改めること。「唐書」顔師古伝に曰ふ。「秘書省ニ詔シテ考定セシムルニ、釐正スル所多シ。」
○妥当 「穏当」と同じ。極端に流れ図、おだやかにして正当と思はれることをいふ。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
謹約。「敬しんで、威望隆盛、友誼親密なる諸国の皇帝・大統領に申上げる。朕は、即位以来、未だ御挨拶の礼もつくしてゐないから、ここに特命全権大使・副使を貴国につかはし、ますます親好の交情を厚くしたいと思ふ。貴国と結んだ条約が、明年改正期になつてゐるについて、朕は、開明各国に劣らないやうに、人民の公権と公利を保たしめることに改正したいと思ふけれど、我が国の文化がまだ十分に進まず、政治や法律も異なつてゐるから、多少の時日を費さなければ、その望みを達することが出来なからう。そこで、開明各国に行はれてゐる方法を選んで、適当なものを採り、だんだんと改めて行かうと思ふ。我が国の事情を、貴国の政府に詢り、その御意見も承はり、使臣が帰国の上、協議して改正の望みを達するやうにしたい。この使臣は、朕が厚く信任してゐる者であるから、その言を信じて聴かれ、よき待遇を与へられるやうに望む。」
〔史実〕
前出「海外派遣の特命全権使臣に賜はりたる勅語」の謹解中に略説しておいたとほり、明治五年は、安政仮条約の規定により、双方の合意を以て、条約の改定をすることが出来る時機に当つてゐたので、その希望を各国の政府に通達するために、明治四年、岩倉具視以下の使節を派遣せられた。前出の勅語に、「依テ今国書ヲ付ス。其レ能ク朕カ意ヲ体シテ努力セヨ。」と仰せられてあるやうに、特命全権使臣を通じて、各国の皇帝並に大統領に国書を御送達あらせられた。ここに謹載したのが、その国書の全文である。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月24日金曜日
海外派遣の特命全権使臣に賜はりたる勅語
(明治四年十一月四日)
今般 汝等 ヲ使 トシテ、海外 各国 ニ赴 カシム。朕 素 ヨリ汝等 ノ能 ク其職 ヲ尽 シ、使命 ニ堪 フヘキヲ知 ル。依 テ今 国書 ヲ付 ス。其 能 ク朕 カ意 ヲ体 シテ努力 セヨ。朕 今 ヨリシテ、汝等 ノ無恙 帰朝 ノ日 ヲ祝 センコトヲ待 ツ。遠洋 渡航 、千万 自重 セヨ。
(明治四年十一月四日)
今般 汝等 ヲ海外 各国 ニ赴 カシメム。朕 汝等 カ能 ク其 職 ヲ奉 シ、其 任 ニ堪 フヘキヲ知 ル。黽勉 事 ニ従 フヲ望 ム。遠洋 渡航 、千万 自重 セヨ。
〔史実〕
幕末に欧米諸国の船艦がしきりに我が沿海に来航して、開港を迫つた時、幕府は、その要求を拒む力がなく、遂に米・英・仏・露・蘭の五国と通商条約を締結した。当時の幕吏は、多年の鎖国政策に禍せられて、海外の事情に通ぜず、条約文の如きも、殆ど米国使節の作製した草案をそのままに用ゐたので、我が国に不利益な条項が少くなかつた。中にも、領事裁判権や海関税率の規定の如きは、その最も甚しいものであつた。後に、幕府は、葡萄牙 ・普露西亜 ・瑞西 ・白耳義 ・伊太利 ・丁抹 の諸国とも通商条約を結び、明治維新後、更に瑞典 ・諾威 ・西班牙 ・墺太利 匈牙利 ・布哇 等の諸国と、同じくそれぞれ通商条約を結んだが、何れも前の諸国の例によつたものであつた。明治新政府は、この我が国に不利益な条約を改正することの必要を痛感し、明治二年よりしばしばこれを各国の公使に交渉したが、省みる者もなかつた。当時の条約即ち所謂安政の仮条約には、その第十三条に、
忝 い御言葉を賜はつたのである。
一行四十八名は、明治四年十一月十二日、横濱を解纜、欧米諸国歴訪の途に上り、十二月六日に、米国サンフランシスコに到著した。この大使の派遣は、条約改正の下相談をまとめ、兼ねてその準備として採用すべき欧米の文物制度を視察するのが目的であつた。しかるに、米国大統領グラントは、条約改正の結了を勧告した。岩倉大使は、その親切に感じて、用意してゐなかつた全権委任状を得るために、急遽大久保・伊藤を帰朝せしめた。しかし、廟議は、両人の提出した改正案を容れず、他日日本に於て改正を行ふことに決した。岩倉も国別に談判を開くことの不利を悟り、談判を中止した。それから、一行は、英・仏・白・蘭・普・露・丁・瑞・独・伊・墺等の諸国を歴訪し、二十三箇月を経て、明治六年九月に帰朝した。
使臣 岩倉、大久保、木戸、伊藤、井上等
特命全権大使随行理事官に下し給へる勅語
(明治四年十一月四日)
〔史実〕
幕末に欧米諸国の船艦がしきりに我が沿海に来航して、開港を迫つた時、幕府は、その要求を拒む力がなく、遂に米・英・仏・露・蘭の五国と通商条約を締結した。当時の幕吏は、多年の鎖国政策に禍せられて、海外の事情に通ぜず、条約文の如きも、殆ど米国使節の作製した草案をそのままに用ゐたので、我が国に不利益な条項が少くなかつた。中にも、領事裁判権や海関税率の規定の如きは、その最も甚しいものであつた。後に、幕府は、
今ヨリ凡ソ百七十一箇月ノ後、双方政府ノ存意ヲ以テ、両国ノ内ヨリ一箇年以前ニ通達シ、此ノ条約並ヒニ神奈川条約ノ内存シ置ク箇条及ヒ此ノ書ニ添ヘタル別冊トモニ、双方委任ノ役人実験ノ上、談判ヲ尽シ、補ヒ或ハ改ムルコトヲ得ヘシ。とあり、百七十一箇月後には、改定し得る規定が存してゐた。百七十一箇月後は、明治五年五月二十九日(太陰暦)即ち西紀一八七二年七月四日(太陽暦)に当つてゐた。そこで、政府に於ては、条約の明文に従ひ、一箇年以前に、改正の希望を各国政府に通達し、その談判を東京に開くことに決した。しかるに、この条約改正といふことは、非常に重大な問題であるから、先づ使臣を諸外国に派遣して、彼我の意見を交換することになり、明治四年十月、外務卿岩倉具視が右大臣兼特命全権大使に任ぜられ、参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口尚芳の四人が副使に任ぜられ、欧米諸国の状況視察を仰せ付けられた。これらの使臣の出発に際して、明治天皇には、ここに謹載した勅語のやうに、重大なる使命を負うて海外に赴く使臣を御激励あそばされ、且、「朕、今ヨリシテ、汝等ノ無恙帰朝ノ日ヲ祝センコトヲ俟ツ。遠洋渡航、千万自重セヨ。」といふ
一行四十八名は、明治四年十一月十二日、横濱を解纜、欧米諸国歴訪の途に上り、十二月六日に、米国サンフランシスコに到著した。この大使の派遣は、条約改正の下相談をまとめ、兼ねてその準備として採用すべき欧米の文物制度を視察するのが目的であつた。しかるに、米国大統領グラントは、条約改正の結了を勧告した。岩倉大使は、その親切に感じて、用意してゐなかつた全権委任状を得るために、急遽大久保・伊藤を帰朝せしめた。しかし、廟議は、両人の提出した改正案を容れず、他日日本に於て改正を行ふことに決した。岩倉も国別に談判を開くことの不利を悟り、談判を中止した。それから、一行は、英・仏・白・蘭・普・露・丁・瑞・独・伊・墺等の諸国を歴訪し、二十三箇月を経て、明治六年九月に帰朝した。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月23日木曜日
華族の海外留学を奨励し給へる勅諭
(明治四年十月二十二日)
朕 惟 フニ、宇内 列国 、開化 富強 ノ称 アル者 、皆 其 国民 勤勉 ノ力 ニ由 ラサルナシ。而 シテ国民 ノ能 ク智 ヲ開 キ才 ヲ研 キ、勤勉 ノ力 ヲ致 ス者 ハ、固 リ其 国民 タルノ本分 ヲ尽 スモノナリ。今 我国 旧制 ヲ更革 シテ、列国 ト並馳 セント欲 ス。国民 一致 、勤勉 ノ力 ヲ尽 スニ非 レハ、何 ヲ以 テ之 ヲ致 スコトヲ得 ンヤ。特 ニ華族 ハ、国民 中 貴重 ノ地位 ニ居 リ、衆庶 ノ属目 スル所 ナレハ、其 履行 固 リ標準 トナリ、一層 勤勉 ノ力 ヲ致 シ、率先 シテ之 ヲ鼓舞 セサルヘケンヤ。其責 タルヤ亦 重 シ。是 今日 朕 カ汝等 ヲ召 シ、親 ク朕 カ期望 スル所 ノ意 ヲ告 クル所以 ナリ。夫 レ勤勉 ノ力 ヲ致 スハ、智 ヲ開 キ才 ヲ研 ヨリ外 ナルハナシ。智 ヲ開 キ才 ヲ研 ハ、眼 ヲ宇内 開化 ノ形勢 ニ著 ケ、有用 ノ業 ヲ修 メ、或 ハ外国 ヘ留学 シ、実地 ノ学 ヲ講 スルヨリ要 ナルハナシ。而 年壮 ヲ過 キ、留学 ヲ為 シ難 キ者 モ、一 タヒ海外 ニ周遊 シ、聞見 ヲ広 ムル、亦 以 テ智識 ヲ増益 スルニ足 ラン。且 我邦 女学 ノ制 未 タ立 タサルヲ以 テ、婦女 多 クハ事理 ヲ解 セス。殊 ニ幼童 ノ成立 ハ母氏 ノ教導 ニ関 シ、実 ニ切緊 ノ事 ナレハ、今 海外 ニ赴 ク者 、妻女 或 ハ姉妹 ヲ挈 テ同行 スル、固 ヨリ可 ナルコトニテ、外国 所在 、女教 ノ素 アルヲ暁 リ、育児 ノ法 ヲモ知 ルニ足 ルヘシ。誠 ニ能 ク人々 此 ニ注意 シ、勤勉 ノ力 ヲ致 サハ、開化 ノ域 ニ進 ミ、富強 ノ基 随 テ立 、列国 ニ並馳 スルモ難 カラサルヘシ。汝等 能 ク斯意 ヲ体 シ、各 其 本分 ヲ尽 シ、以 テ朕 カ期望 スル所 ニ副 ヘヨ。
○宇内 列国 世界の国々。
○開化 文化の進歩を意味する語。世の中がよく開けて、人の知識が進むこと。顧覬之の定命論に、「夫レ極ヲ建テ化ヲ開キ、声ヲ樹テ則ヲ貽 シ、典防之興、由来尚 シ矣。」とある。明治の初年には、西洋風に倣ふことを文明開化と称したこともあつた。
○並馳 ならびはしる。肩を並べて同じやうに進んで行くこと。
○衆庶 ノ属目 「多くの人々が目をつけてゐる」といふこと。「属目」は、「嘱目」の文字を用ゐることもある。「注目して視る」ことである。「晋書」秦献王東伝に曰ふ。「其ノ貴寵ハ天下ノ属目スル所ト為ル。」
○履行 「日常の行為」をいふ。「説苑」に、「始メ之ノ文ヲ誦シ、今履ミテ之ヲ行フ、是レ学ノ日ニ益 明カナル也。」とあるやうに、「ふみ行ふ」即ち「実行」といふ意味の文字であるが、転じては、「品行」と同じ意味に用ゐられる。
○標準 「目あてとすべきのり」即ち「手本」である。韓愈の伯夷頌に曰ふ。「聖人ハ乃チ万世之標準也。」
○鼓舞 「大いにはげます」こと。「激励」と同じ。「鼓 を鳴らして舞 はしめる」といふ字義から、人を感動させて、発奮興起せしめる意味に転用せられてゐる語。「法言」に曰ふ。「万物ヲ鼓舞スルハ、其レ唯ノ風雷乎 。万民ヲ鼓舞スルハ、其レ号令乎 。」
○聞見 「見聞」と同じ。耳で聞き目で見て、知識を収得すること。
○切緊 「緊切」と同じ。「甚だ大切」といふこと。
○挈 テ 「提」と同じ。「手に持つ」といふことから、「伴ふ」といふ意味に転用せられてゐる語である。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
謹約。「世界の諸国を観るに、開化富強といはれてゐる国は、みなその国民の勤勉の力によるものである。我が国も、旧制を改めて諸外国と並び立つには、国民が勤勉にその本分をつくさなければならない。殊に華族は国民の最高地位にあり、その行が多くの者の手本になるから、一そう勤勉といふことが肝要である。勤勉の力を発揮するには、智識を進め才能をみがかなければならない。それには、外国へ留学するのが最もよい。既に壮年を過ぎて留学し難い者も、一度海外をめぐつて見聞をひろめるやうにすることを必要とする。我が国には、まだ女学校の制度が立つてゐない。幼童の成育には、母の教導が最も大切である。故に、外国へ留学する者は、妻女か姉妹を同伴するがよい。外国の女子教育の進歩もわかり、育児の法にも通ずることが出来る。多くの華族がここに注意すれば、我が国は、ますます開化富強となり、列国と並び進むことが難くないであらう。」
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治天皇が、明治四年十月二十二日に、在京の華族を召したまうて、海外留学を御奨励あらせられた勅諭である。翌年(明治五年)六月一日には、御西巡の途次、京都府の華族にも、同じ御趣意の勅諭を下し賜はつた。勅諭の中には、「我邦女学ノ制未タ立サルヲ以テ、婦女多クハ事理ヲ解セス」と仰せられ、更に「殊ニ幼童ノ成立ハ母氏ノ教導ニ関シ、実ニ切緊ノ事ナレハ」と仰せられて、女子教育の不備とその必要を御訓諭あらせられてある。江戸時代に於ては、女子教育を全く閑却してゐた。久しき因襲により、女子教育の必要を認める者が少く、中には公然と無用論を唱へる者さへもあつた。さうした時代の趨勢に反し、明治四年、既にかくも明らかに女子教育の必要を告げさせられて、華族の反省を促したまうたのは、聖慮深慮、寔 に恐懼に堪へないことである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月22日水曜日
工部省雇外国人に下し給へる勅語
英国人カーケルに下し給へる勅語
(明治四年十月五日)英国人ブラレトンに下し給へる勅語
(明治四年十月五日)仏国人ウエルニー及びチボジーに下し給へる勅語
(明治四年十月五日)
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月21日火曜日
文部省雇外国人に下し給へる勅語
米国人フルベッキに下し給へる勅語
(明治四年十月五日)〔史実〕
明治四年十月五日には、明治維新前後に於て、我が国の文化に貢献した多くの外国人に、優渥なる勅語を賜はつた。文部省雇米国人フルベッキ、同ドイツ人ミュルラ、同ホフマン、同ホルツ、工部省雇英国人カーケル、同ブラレトン、同仏国人ウエルニー、同チボジー等は、何れもみなその優詔を拝した人々であつた。これは、米国人フルベッキに下し賜はつた勅語である。
フルベッキは、西暦紀元一八三〇年(天保元年)に、オランダのノゼリストに生れ、アメリカに渡り、アアブルの神学校に学んだ。安政六年に来朝し、幕府の命により、八年間長崎に於て教育に従事し、明治二年、大学南校に聘せられて、語学・学藝の教師となり、明治六年まで在職し、後に政府の翻訳顧問となり、元老院に職を奉じた。ナポレオン法典を紹介し、医学に関する進言をなす等、明治初年の文化に貢献した功労は、頗る著しいものがあつた。就いて学んだ者の中には、新政府の首脳として活躍した者も少くなつた。
独逸国人ミュルラ及びホフマンに下し給へる勅語
(明治四年十月五日)
独逸国人ホルツに下し給へる勅語
(明治四年十月五日)
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月20日月曜日
神器及び皇霊遷座の詔
(明治四年九月十四日)
朕 、恭 ク惟 ミルニ、神器 ハ天祖 威霊 ノ憑 ル所 、歴世 聖皇 ノ奉 シテ以 テ天職 ヲ治 メ玉 フ所 ノ者 ナリ。今 ヤ、朕 、不逮 ヲ以 テ復古 ノ運 ニ際 シ、忝 ク鴻緒 ヲ承 ケ新 ニ神殿 ヲ造 リ、神器 ト列聖 皇霊 トヲコヽニ奉安 シ、仰 テ以 テ万機 ノ政 ヲ視 ント欲 ス。爾 群卿 百僚 、其 レ斯旨 ヲ体 セヨ。
〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るのに、神器は、天祖(天照大神)の尊い御霊のやどるところで、御歴代の天皇が御奉仕なされて、天ッ神から承けつがせられた御事業を行ひたまうたところのものである。今、朕は、及ばない身を以て、国の政治が昔にかへつた時に当り、忝くも天皇の御位をついだ。新に神殿を造り、神器と御歴代天皇の御霊とを、ここに奉安し、その威を仰いで、すべての政をしようと思ふ。汝等多くの官人も、この旨を心得ておくやうにせよ。
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年九月十四日、宮中の神殿に、神器と御歴代皇霊の遷座奉安を仰せ出された詔である。
御歴代の皇霊が、天神地祇並に八神と共に、神祇官内に鎮祭せられてゐたことは、既に明治三年正月三日の「神霊を鎮祭し給へる詔」の謹解中に述べておいた。しかるに、明治四年八月八日、官制改正の結果、神祇官が廃せられて、神祇省の設置となつた。そこで、皇霊の御遷座となつたのである。翌年(明治五年)三月には、また神祇省が廃せられて、教部省の新設となつた。かくして、神祇官に奉斎せられてゐた御歴代皇霊と、天神地祇及び八神の神霊とは、相次いで宮中の神殿に遷座せられるに至つたのである。
〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るのに、神器は、天祖(天照大神)の尊い御霊のやどるところで、御歴代の天皇が御奉仕なされて、天ッ神から承けつがせられた御事業を行ひたまうたところのものである。今、朕は、及ばない身を以て、国の政治が昔にかへつた時に当り、忝くも天皇の御位をついだ。新に神殿を造り、神器と御歴代天皇の御霊とを、ここに奉安し、その威を仰いで、すべての政をしようと思ふ。汝等多くの官人も、この旨を心得ておくやうにせよ。
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年九月十四日、宮中の神殿に、神器と御歴代皇霊の遷座奉安を仰せ出された詔である。
御歴代の皇霊が、天神地祇並に八神と共に、神祇官内に鎮祭せられてゐたことは、既に明治三年正月三日の「神霊を鎮祭し給へる詔」の謹解中に述べておいた。しかるに、明治四年八月八日、官制改正の結果、神祇官が廃せられて、神祇省の設置となつた。そこで、皇霊の御遷座となつたのである。翌年(明治五年)三月には、また神祇省が廃せられて、教部省の新設となつた。かくして、神祇官に奉斎せられてゐた御歴代皇霊と、天神地祇及び八神の神霊とは、相次いで宮中の神殿に遷座せられるに至つたのである。
〔追記〕宮地直一氏の「神社綱要」に曰ふ。「上記行政機構の改正(明治四年・五年の改正)は、頗る遠大な目的に出で、今後久しきに亘る方針の樹立を期せんとする意図の許に行はれたもののやうに思はるゝ。それは何故かと云ふに、当時神祇官の管掌した事務は、祭祀と宣教との二者に大別せらるゝ中で、先づ祭祀に就いては、永久に不変の根本的典礼として最高の取扱に出るべきであるとし、仍つて神祇省の廃止とともに、之を式部寮に移して、歳時祀典の執行に当らしめらるゝこととなつたので、之に先立つ左院の建議にも、
一、斎祀ハ皇上親シク百官トトモニ之ヲ管シ、式部寮ヲ以テ祭享ノ礼式ヲ掌判セシムヘキ事、
とある。以て当局の意向を推知するに足るであらう。因みにいふ、式部寮は当時太政官にあつたが、十年九月より宮内省に隷し、後式部職となつた。祀典のことは職内の掌典部に於て之を掌り今日に至る。」
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月19日日曜日
侍従の服制を更正し給へる勅諭
(明治四年九月四日)
朕 惟 フニ、風俗 ナル者 、移換 以 テ時 ノ宜 シキニ随 ヒ、國體 ナル者 、不抜 以 テ其 勢 ヲ制 ス。今 衣冠 ノ制 、中古 唐制 ニ模倣 セシヨリ、流 テ軟弱 ノ風 ヲナス。朕 、太 タ慨之 。夫 レ神州 ノ武 ヲ以 テ治 ムルヤ、固 ヨリ久 シ。天子 親 ラ之 カ元帥 ト為 リ、衆庶 以 テ其 風 ヲ仰 ク。神武 創業 、神功 征韓 ノ如 キ、決 テ今日 ノ風姿 ニアラス。豈 一日 モ軟弱 以 テ天下 ニ示 ス可 ケンヤ。朕 、今 断然 其 制 ヲ更 メ、其 風俗 ヲ一新 シ、祖宗 以来 、尚武 ノ國體 ヲ立 ント欲 ス。汝 近臣 、其 レ朕 カ意 ヲ体 セヨ。
○風俗 「増韻」に「上ノ化スル所ヲ風ト曰ヒ、下ノ習フ所ヲ俗ト曰フ。」とある。この「風俗」の文字は、種々の意味に用ゐられてゐる。通常、「風習」と同じく、「世の習はし」即ち「世間に古くから行はれて来た事」といふ意味に用ゐられる場合が多いが、外に、「身ぶり」即ち「動作」といふ意味の用例もあり、「衣服のよそほひ」即ち「身なり」といふ意味の用例もあり、また「風俗歌」の略称ともなつてゐる。本勅諭は、服制の更正を仰せ出されたものであるから、「身なり」といふことを主としてこの語を解してよからうかと思ふ。
○移換 「うつりかはり」または「うつしかへる」といふ意味の語である。
○不抜 以 テ其 勢 ヲ制 ス 「その勢を制するに不抜を以てする」といふに同じ。如何なる時の勢も、常に変らぬ態度で、これを抑へることをいふ。「不抜」は、その文字のとほり、「抜くことが出来ない」といふこと。堅くして動かないことの意味。「老子」に曰ふ。「善ク建テタルハ抜ケズ、善ク抱ケルハ脱セズ。」
○衣冠 衣服と冠。「服装」といふに同じ。
○中古 唐制 ニ模倣 セシヨリ 「中古に至り、唐の制度にならつてから」といふこと。「中古」は、明治十五年に「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の中に出づる「中世」と同じく、大化の改新の頃から、武家興隆の世までを、大凡に仰せられしものと拝する。「唐制」は、唐の制度、「模倣」は、「学びならふ」こと、また「まねる」こと。
○流 テ軟弱 ノ風 ヲナス 「軟弱の風に流れ」といふに同じ。おのづから弱々しい風となつて行くこと。「軟弱」は、「剛強」の反対。「弱々しい」こと。劉琨の詩に曰ふ。「咨余軟弱、弗克負荷。」
○元帥 軍人の最高統率者。「左伝」宣公十二年に、「子元帥ト為リ、師命ヲ用ヰザルハ、誰之罪ゾヤ。」とあり、「職原抄」に「大将ハ之ヲ元帥ト謂フ。」とあり、和漢ともに古くから軍の総大将を意味する語となつてゐる。今日では、専ら陸海軍大将に賜はる称号となり、また天皇を大元帥陛下と申上げ奉る。
○神武 創業 神武天皇の御創業。御東征の大業を達成したまうて、御即位あらせられたこと。
○神功 征韓 神功皇后の三韓御征伐。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、風俗といふものは、その時々に都合のよいやうに移しかへて行き、國體といふものは、如何なる時勢にならうとも決して動揺すべきでない。衣冠の制度は、中古に唐の制度にならつたので、だんだんと弱々しい風に流れて来た。朕は、これを大いに慨いてゐる。我が国が武力を政治に用ゐてゐるのは、まことに久しいことである。天皇が御自身に軍の統率者とならせられ、多くの民は、その風を仰いだ。神武天皇の御創業や、神功皇后の三韓御征伐のことを考へても、決して今日のやうな身なりではなかつた。かうした弱々しい風は、一日も天下に示しておけない。朕は、今きつぱりと服制を改めて、その風俗を一新し、祖宗から今日まで伝はつた武を尚ぶ國體を立てようと思ふ。汝等近臣よ、朕がこころを体せよ。
〔史実〕
我が国では、古来、服装といふことが重んぜられて、雄略天皇の御遺詔の中にも、「但 、朝野 の衣冠 未 だ鮮麗 なることを得ず」と仰せられてあり、その後、しばしば服装に関する詔を拝してゐる。本書の中に謹載した詔も少くない。
明治天皇には、明治四年九月四日、ここに謹載した勅諭を侍従に賜はり、服制の更正を仰せ出された。当時の服制が軟弱に流れてゐたことについて、「朕太タ之ヲ慨ス」と仰せられ、「今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来、尚武ノ國體ヲ立ント欲ス」と仰せられてある。服制御更正の聖旨をこの御言葉によつて拝察することが出来る。
〔追記〕「岩倉公実記」によれば、「上、侍従ニ勅シ、平常洋式ノ服ヲ用フルコトヲ暁諭シ給フ。」とある。また「翌壬申歳五月、車駕西巡シ給フノ時ニ於テ、始メテ新式ノ御軍服ヲ着御シ、其ノ九月七日ニ及ンテ、陸軍元帥ノ服制ヲ定メ、聖上大元帥トナリ給フトキノ御服制モ亦之ヲ設ケラル。後ニ十一月十二日ニ至リ、文官並ニ有位者及ヒ一般ノ礼服ヲ更メ、従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト定メラル。」とある。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月18日土曜日
兵部大少輔及び御親兵少佐以上に賜はりたる勅語
(明治四年九月三日)
汝等 、積年 苦労 シ、以 テ今日 ニ至 ル。所謂 実力 ナル者 、全 ク汝等 服役 スルニ在 リ。朕 、甚 タ之 ヲ嘉 トス。殊 ニ、方今 、外交 内務 、日新 ノ時 ニ当 リ、邦家 ノ盛衰 ハ実 ニ兵 ノ強弱 ニ存 ス。汝等 、深 ク朕 カ意 ヲ体 シ、弥 以 紀律 厳明 、衆心 一致 シ、励精 尽力 セヨ。
〔史実〕
明治四年九月三日、兵部大輔・兵部少輔及び少佐以上の御親兵に、この勅語を賜はり、積年(多年)の苦労を嘉みせられ、外交も内務も日々に進んで行く時勢に、その任務の重大を自覚して、ますます励精尽力するやうにと御諭告あらせられた。兵部大輔及び同少輔は、何れもみな当時の職名である。明治二年七月の官制によれば、兵部省は、海陸軍・郷兵・招募・守衛・軍備・兵学校等に関する事務を所管とし、卿一人、大輔 一人、少輔一人、外に大丞・権大丞・少丞・権少丞・大録・権大録・少録・権少録・史生・省掌・使部等の職員を置いた。「御親兵」といふのは、兵部省に直隷し、宮城の護衛に当つた軍隊の名称である。明治四年二月、この御親兵の制度が設けられ、鹿児島・山口・高知の三藩から、総数約一万人の御親兵を徴せられた。御親兵は、後に改称して、近衛兵といつた。
〔史実〕
明治四年九月三日、兵部大輔・兵部少輔及び少佐以上の御親兵に、この勅語を賜はり、積年(多年)の苦労を嘉みせられ、外交も内務も日々に進んで行く時勢に、その任務の重大を自覚して、ますます励精尽力するやうにと御諭告あらせられた。兵部大輔及び同少輔は、何れもみな当時の職名である。明治二年七月の官制によれば、兵部省は、海陸軍・郷兵・招募・守衛・軍備・兵学校等に関する事務を所管とし、卿一人、
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月17日金曜日
海陸軍律頒布の上諭
(明治四年八月二十八日)
朕 惟 フニ、兵民 途 ヲ分 チ寛猛 治 ヲ異 ニス。其 律 ヲ定 メ法 ヲ設 クルニ於 テ、豈 斟酌 商量 、以 テ其 宜 ヲ制 セサル可 ケンヤ。頃 、海陸 軍律 撰輯 竣 ヲ告 グ。朕 、之 ヲ閲 スルニ、損益 要 ヲ得 、軽重 度 ニ合 セリ。依 テ頒布 シ、有司 ヲシテ遵守 シ、軍人 ヲシテ懲誡 スル所 アラシム。
○兵民 途 ヲ分 チ 軍人と一般国民とは、職分が異なつてゐるといふこと。
○寛猛 治 ヲ異 ニス 寛大に治めるのと厳格に治めるのとのちがひがあるといふこと。「寛猛」は、「寛厳」と同じ。
○律 ヲ定 メ法 ヲ設 ク 「律」は、刑罰を定めた規則即ち刑法、「法」は、その他の法令である。
○斟酌 商量 事情を考へてはかり定めること。「斟酌」は、「参酌」と同じ。いろいろな情実をくみとつて事をきめることをいふ。「周語」に曰ふ。「耆艾 之ヲ修メ、而ル後ニ王斟酌ス焉。」
○撰輯 文または詩歌等を撰びあつめることをいふ。「撰集」と同じ。
○閲 スル 「閲 」は、「検 」の音の転じたもの。「検 めて見る」ことをいふ。
○損益 要 ヲ得 「繁簡要を得」といふに同じ。詳しく説く必要のあるところは、これを詳しく説き、簡単でよいところは、簡単にしてあつて、よくその趣意が徹底してゐること。
○軽重 度 ニ合 セリ 大切なところとさほど大切でないところを見分けて、適度に取扱つてあること。
○頒布 多くの者に分けてひろめる。
○有司 それぞれの係の者。
○懲誡 こらしめいましめる。不正な行為に対して制裁を加へること。「懲戒」の文字が用ゐられることもある。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔史実〕
ここに掲げ奉つたのは、新に撰輯した海陸軍律の草案を御親閲あそばされて、明治四年八月二十八日、これを頒布せしめたまうた時の上諭である。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月16日木曜日
廃藩置県の詔
(明治四年七月十四日)
朕 惟 フニ、更始 ノ時 ニ際 シ、内 以 テ億兆 ヲ保安 シ、外 以 テ万国 ト対峙 セント欲 セハ、宜 ク名実 相副 ヒ、政令 一 ニ帰 セシムヘシ。朕 、曩 ニ諸藩 版籍 奉還 ノ議 ヲ聴納 シ、新 ニ知藩事 ヲ命 シ、各 其職 ヲ奉 セシム。然 ルニ数百年 因襲 ノ久 キ、或 ハ其名 アリテ、其実 挙 ラサル者 アリ。何 ヲ以 テ億兆 ヲ保安 シ、万国 ト対峙 スルヲ得 ンヤ。朕 、深 ク之 ヲ慨 ス。仍 テ今更 ニ藩 ヲ廃 シ県 ト為 ス。是 レ務 テ冗 ヲ去 リ簡 ニ就 キ、有名 無実 ノ弊 ヲ除 キ、政令 多岐 ノ憂 無 ラシメントス。汝 群臣 、其 レ朕 カ意 ヲ体 セヨ。
○更始 ノ時 ニ際 シ 「すべてのことを改めて新にはじめる時に当つて」といふこと。「維新の際」といふに同じ。
○万国 ト対峙 ス 諸外国と対等の地位を保つこと。「対峙」は、「対立」と同じ。「むかひ合つて高く立つ」こと。楊炯の賦に曰ふ。「擘波心、而対峙。」
○名実 相副 ヒ 名と実際とが一致すること。世の評判がよくなり、その世評のとほりに内容が充実することの意味。「名実」といふ語は、また「名誉と実功」の意味にも用ゐられ、「孟子」の告子章に、「夫子三卿の中に在リ、名実未ダ上下ニ加ハラズ。」とある。
○政令 一 ニ帰 セシム 「政府の命令がすべてみな同じところから出るやうにする」といふこと。一つの中央政府からすべての命令が発せられるやうにすることの意味。「政令」は、「政府の命令」であるが、また「政治上のおきて」といふ意味に用ゐて、憲法をはじめとし、すべての法律命令を総称することもある。
○版籍 奉還 諸侯が私有してゐた土地と人民を朝廷に還し奉ること。
○聴納 その文字のとほり、「きき入れる」といふ意味の語である。「唐書」劉洎伝に曰ふ。「虚心聴納。」
○知藩事 諸侯が版籍を奉還した後、諸藩に置かれた官名。主として諸侯に旧領地を統治せしめられたもの。
○因襲 ノ久 キ 「久しき因襲」といふに同じ。「ながくつづいてゐる習慣」といふこと。「因襲」は、従来のしきたりに従ふこと。「習慣」と同じ意味の語。劉歆の移譲太常博士書に曰ふ。「仲尼之道又絶エ、法度因襲スル所無シ。」
○其名 アリテ其実 挙 ラサル 後に出づる「有名無実」と同じ。一般にいはれてゐることが、実際には行はれてゐないこと。「名実相副ひ」の反対。名と実とが副はぬこと。版籍を奉還したとはいへ、旧藩主が知藩事となつて、その藩を統治してゐれば、実際は、もとのやうに版籍を私有してゐるのと同じことである。「その名ありてその実挙らざるもの」とは、これを仰せられたのであらう。
○冗 ヲ去 リ簡 ニ就 キ 無駄なことを省いて簡単にする。
○政令 多岐 ノ憂 政府の命令が多方面から出る心配。各藩を知藩事が支配してゐるために、中央政府の命令が徹底せず、知藩事の命令と対立することもあることの意味。
〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、すべての事を改めて新らしくはじめるに当り、内に於て万民を安らかにをさめ、外に於て諸外国と対等の地位を保つて行かうと思へば、先づ名と実際とが一致し、政府の命令がすべて同じところから出るやうにしなければならない。朕は、さきに諸藩が私有の土地や人民を奉還すると申して来たことをきき入れ、新らしく知藩事を任命し、それぞれその職につとめさせた。しかるに、数百年の久しい間つづいた習慣のために、ただ版籍を奉還したといふ名ばかりで、実際は、そのとほりに行はれず、もとの政治と変りのないものもある。それで、どうして、万民を安らかにし、諸外国と対等の地位を保つことが出来ようか。朕は、ふかくこれを慨いてゐる。よつて、今また藩を廃して県とすることにした。これは、出来るだけ、政治上の無駄を省いて簡単にし、名のみあつて実のないやうな悪い習慣を去り、政府の命令が多方面から出る心配のないやうにするためである。汝等多くの臣下の者も、朕がおもふところをよく心得ておくやうにせよ。
〔史実〕
明治二年六月、明治天皇は、諸藩の版籍奉還を聴許あらせられて、その旧藩主を各藩の知藩事に任じ、管内の政務を執らしめたまうたので、ここに全国の地方行政の統一が成り、府・藩・県の三治制度が布かれるに至つた。しかし、旧藩主が知藩事となり、旧藩の重臣がそれぞれの要職に就いてゐるこの制度では、ただ版籍を奉還したといふのみに過ぎず、知藩事と一般士民の間に、依然として主従の関係が残り、因襲的の情実を離れることが出来なかつた。従つて、封建制の名は滅びても、封建の実はなほ存在し、三治の一致を称すれども、全国統一の実は挙らなかつた。全国を統一して、中央政府の勢力を強化し、王政復古の精神を徹底せしめて、新政の基礎を固めるには、断然、藩を廃して県を置く必要があつた。廃藩置県を断行しなければ、画竜点睛の憾みあることは、夙 に識者の認めるところであつたが、急にこれを実現すれば、諸藩の不平を誘発して、大乱を醸成する虞 れもなしとせず、時機の到るを待つより外はなかつた。この大改革には、明治維新の大業の功労者として最も勢力を有する薩・長の二藩主が先づ同意しなければ、到底実現の可能性がないものと思はれた。しかるに、たまたま木戸孝允と大久保利通の意見が一致し、その頃藩政改革の意見を藩主に提出してゐた土佐の板垣退助もこれに賛同し、鳥尾小弥太 ・野村靖・山県狂介(有朋)は、西郷隆盛を説いて、共に尽力を誓ふといふやうに、朝廷の重臣に支持者が多くなり、時機が漸く熟したのであつた。その結果、明治天皇には、明治四年七月十四日、在京の知藩事を召したまひ、廃藩置県を仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。かくして、一時に全国二百六十三藩の知藩事の職を解かれ、東京に移住せしめられた。この廃藩置県により、全国府県の数は、旧来の府県を合はせて、三府(東京・京都・大阪)・三百一県となつたが、同年(明治四年)十一月、府県の廃合が行はれて、三府・七十二県となつた。さうして、新に人材を抜擢して、府には府知事、県には県令を任命し、政務を掌らしめられたので、封建の餘習も全くここに消滅して、中央政府の威令が徹底し、郡県の制度が確立して、王政維新の実が挙るに至つた。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、すべての事を改めて新らしくはじめるに当り、内に於て万民を安らかにをさめ、外に於て諸外国と対等の地位を保つて行かうと思へば、先づ名と実際とが一致し、政府の命令がすべて同じところから出るやうにしなければならない。朕は、さきに諸藩が私有の土地や人民を奉還すると申して来たことをきき入れ、新らしく知藩事を任命し、それぞれその職につとめさせた。しかるに、数百年の久しい間つづいた習慣のために、ただ版籍を奉還したといふ名ばかりで、実際は、そのとほりに行はれず、もとの政治と変りのないものもある。それで、どうして、万民を安らかにし、諸外国と対等の地位を保つことが出来ようか。朕は、ふかくこれを慨いてゐる。よつて、今また藩を廃して県とすることにした。これは、出来るだけ、政治上の無駄を省いて簡単にし、名のみあつて実のないやうな悪い習慣を去り、政府の命令が多方面から出る心配のないやうにするためである。汝等多くの臣下の者も、朕がおもふところをよく心得ておくやうにせよ。
〔史実〕
明治二年六月、明治天皇は、諸藩の版籍奉還を聴許あらせられて、その旧藩主を各藩の知藩事に任じ、管内の政務を執らしめたまうたので、ここに全国の地方行政の統一が成り、府・藩・県の三治制度が布かれるに至つた。しかし、旧藩主が知藩事となり、旧藩の重臣がそれぞれの要職に就いてゐるこの制度では、ただ版籍を奉還したといふのみに過ぎず、知藩事と一般士民の間に、依然として主従の関係が残り、因襲的の情実を離れることが出来なかつた。従つて、封建制の名は滅びても、封建の実はなほ存在し、三治の一致を称すれども、全国統一の実は挙らなかつた。全国を統一して、中央政府の勢力を強化し、王政復古の精神を徹底せしめて、新政の基礎を固めるには、断然、藩を廃して県を置く必要があつた。廃藩置県を断行しなければ、画竜点睛の憾みあることは、
〔追記〕「岩倉公実記」に曰ふ。「是日 (明治四年七月十四日)具視 外務卿ト為ルヲ以テ之ヲ外国公使ニ通報ス。英国公使(サー・ヘンリー・パークス)永歎シテ曰ク、藩ヲ廃シ県ヲ置クハ非常ノ英断ニ出ツ。誠ニ貴国ノ為ニ賀スヘシ。吾カ欧羅巴洲ニ於テ、此 ノ如キ大事業ヲ成サント欲セハ、幾年カ兵馬ノ力ヲ用ウルニ非ラサレハ、其成功ヲ期スルコト能 ハサルナリ、今マ貴皇帝ハ一紙ノ詔書ヲ以テ、二百餘藩ノ実権ヲ収復ス、宇宙間未曾有ノ盛事ナリ、貴皇帝ハ真神ノ能力ヲ有ス、決シテ人為ノ企テ及フ所ニ非ラサルナリ。」
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月15日水曜日
副島種臣を魯国に遣はし給へる勅
(明治四年五月二十二日)
我国 、魯国 ト壌土 最 近 シ。交誼 最 厚 フスヘシ。殊 ニ樺太 地方 ノ如 キハ、彼我 人民 雑居 往来 、各 其利 ヲ営 ム。之 ヲ保全 スルノ道 ニ於 テ、豈 心 ヲ尽 サヽルヘケンヤ。曩 ニ嘉永 五年 、魯帝 、全権 使臣 ヲ派 シ、経界 ヲ定 メンコトヲ議 ス。而 レトモ互 ニ事故 アリテ其 議 成 ラス。爾後 慶応 三年 ニ至 リ、彼得堡 ニ於 テ仮 リニ雑居 ノ約 ヲ結 ヘリ。朕 、窃 ニ方今 樺太 ノ形状 ヲ察 スルニ、言語 意脈 ノ通 セサルヨリ、民心 疑惑 、或 ハ争隙 ヲ生 シ、怨讐 ヲ醸 シ、遂 ニ両国 交誼 ノ際 、懇親 ノ意 ヲ失 フニ至 ランカ。是 経界 ヲ定 ムルノ最 急務 ニシテ、独 朕 ノ深 ク憂 フルノミナラス、魯帝 モ又 嘗 テ大 ニ心 ヲ労 セシ所以 ナリ。因 テ爾 種臣 ニ命 シ、委 スルニ全権 ヲ以 テシ、往 テ経界 ヲ定 ムルヲ議 セシム。爾 種臣 、其 レ機宜 ニ従 ヒ、其事 ヲ正 シ、両国 人民 ヲシテ其 慶福 ヲ保 タシメ、且 ツ以 テ交誼 ノ益 厚 ク、永久 渝 ラサランコトヲ。是 朕 カ深 ク望 ム所 ナリ。爾 種臣 、篤 ク此旨 ヲ体 セヨ。
○魯国 ロシヤ帝国の略称。
○壌土 「国土」といふに同じ。
○彼我 人民 雑居 往来 ロシヤ人と日本人とが入りまじつて住み互に往つたり来たりしてゐること。
○経界 「境堺」と同じ。「さかひ」である。「孟子」の滕文公章に曰ふ。「夫レ仁政ハ必ズ経界ヨリ始マル。」
○彼得堡 帝政時代のロシヤの首都。セントピータースブルグとも訓んだ。
○言語 意脈 言葉やその意味のすぢ。
○民心 疑惑 民の心に疑 ひがおこること。
○怨讐 ヲ醸 シ 「怨 みを抱いて敵視するやうになる」といふこと。「怨讐」は、その文字のとほり、「うらみとあだ」をいふのであるが、また「うらみのあるかたき」といふ意味にも用ゐられる。「宋史」孫永伝に、「人トノ交ハリ、終身怨讐無シ。」とあり、「左伝」にも、「我三怨有リ、怨讐已 ニ多シ、将 ニ何ヲ以テ戦フベキカ。」とある。「醸 シ」は、蒸した米を、麴や水に和して醱酵せしめ、酒につくり上げることから、何事かを「おこす」ことや「成しとげる」ことの意味に転用せられる語である。
○機宜 ニ従 ヒ 「その場合に適したよい方法に従ふ」といふこと。「機宜」は、「機に応じて宜しきを得る」といふ意味の語である。嵆康の絶交書に曰ふ。「人情ヲ識ラズ、機宜に闇 シ。」
〔大意〕
謹約。「我が国は、ロシヤ帝国と、国土が最も接近してゐるから、交誼を最も厚うしなければならない。殊に樺太地方の如きは、両国の人民が雑居往来して、それぞれ利を営んでゐるから、これを保全する道に、心をつくさなくてはならない。嘉永五年に、ロシヤ皇帝から、全権使臣を遣はして、国境を定めようとの相談があつたが、事故のために成り立たず、慶応五年にペテルブルグで雑居の仮条約を結んだ。今、樺太の様子を見るに、言語が通じないために、民心に疑ひが起り、争ひを生じ、怨みを抱くやうになり、両国の親善が失はれる。国境を定めることは、急務であつて、朕が深く憂ひてゐるのみならず、ロシヤ皇帝も大いに心を労せられてある。よつて汝種臣に全権を委任して、国境を定めることを協議せしめる。」
〔史実〕
樺太及び千島の日露両国境界問題は、幕末から明治初年へかけての重大な懸案となつてゐた。著々と東方侵略の歩を進めたロシヤ帝国は、幕末に至つて、我が北辺に魔手を延ばして来た。安政元年にロシヤ使節プーチャーチンが来朝した時、幕府は、国境問題について談判し、「日露両国の境界を択捉 ・得撫 二島の間とし、樺太は旧に依りて界を分たざること」とした。しかるに、その後、ロシヤの東部シベリヤ総督ムラヴィヨフは、黒竜江一帯の地を領有し、進んで樺太をも全然露領とする意志を以て、安政六年七月、自ら軍艦を率ゐ、品川に来り、宗谷海峡を両国の境界とすべきことを、幕府に迫つた。幕府は、これを拒絶した。その後、文久二年七月に至り、幕府は、外国奉行竹内保徳(下野守)・外国奉行兼神奈川奉行松平康直(石見守)・京極能登守を露都ペテルブルグに派遣して、樺太境界を議せしめた。その結果、北緯五十度を以て、日露両国の境界とし、翌年双方より吏員を派遣し、臨地劃定することに決した。しかるに、次第に国内が多事となつたために、幕府は、北辺を顧みる遑 がなくなり、翌年委員を樺太に派遣しなかつた。そこで、慶応二年十二月、幕府は、また函館奉行小出秀実(大和守)及び目附石川駿河守をペテルブルグに遣はし、国境問題を議せしめた。ロシヤの委員、亜細亜局長スツレモウホフは、得撫近傍の三島を代償として我に譲り、樺太全部を露領とすることを主張したが、我が委員は、これを承諾しなかつたので、旧に依りて、樺太を日露両国の属領とし、同三年二月二十八日に、仮条約の調印を了 つた。その文中には、次のやうにある。
この条約は、大体に於て、安政の条約と同じく、ただ細則を定めたのみに過ぎなかつた。かくの如く、幕府の意図は、北緯五十度以南を以て我が領土とするにあつたが、それを成し遂げない中に滅びて、明治の新政となつたのである。
樺太島が日露両国の所属となつたので、露人は、しきりに南進して来て、従来、我が所属となつてゐたところにまで家屋を建て、我が官吏の制することも聴かなかつた。それがために、両国の人民の間に紛争が絶えなかつた。
それで、明治四年五月二十二日、ここに謹載した勅を、外務卿副島種臣に賜はり、国境決定のために、露都へ御差遣を仰せ出されたのである。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
謹約。「我が国は、ロシヤ帝国と、国土が最も接近してゐるから、交誼を最も厚うしなければならない。殊に樺太地方の如きは、両国の人民が雑居往来して、それぞれ利を営んでゐるから、これを保全する道に、心をつくさなくてはならない。嘉永五年に、ロシヤ皇帝から、全権使臣を遣はして、国境を定めようとの相談があつたが、事故のために成り立たず、慶応五年にペテルブルグで雑居の仮条約を結んだ。今、樺太の様子を見るに、言語が通じないために、民心に疑ひが起り、争ひを生じ、怨みを抱くやうになり、両国の親善が失はれる。国境を定めることは、急務であつて、朕が深く憂ひてゐるのみならず、ロシヤ皇帝も大いに心を労せられてある。よつて汝種臣に全権を委任して、国境を定めることを協議せしめる。」
〔史実〕
樺太及び千島の日露両国境界問題は、幕末から明治初年へかけての重大な懸案となつてゐた。著々と東方侵略の歩を進めたロシヤ帝国は、幕末に至つて、我が北辺に魔手を延ばして来た。安政元年にロシヤ使節プーチャーチンが来朝した時、幕府は、国境問題について談判し、「日露両国の境界を
第一条 樺太島ニ於イテ、両国人民ハ睦シク誠意ニ交ハル可シ。万一、争論アルカ、マタハ不和ノ事アラハ、裁断ハ其ノ所ノ双方ノ司人共ニ任スヘシ。若シ其ノ司人ニテ決シ難キ事件ハ、双方近傍ノ奉行ニテ裁断スヘシ。
第二条 両国ノ所領タル上ハ、露西亜人・日本人トモ、全島往来勝手タルヘシ。且、未タ建物及ヒ庭園ナキ所、又ハ総テ産業ノ為メニ用ヒサル場所ヘハ、移住・建物等、勝手タルヘシ。
第三条 島中ノ土民ハ、其ノ身ニ属セル物、並ヒニ附属所持ノ品々トモ、全ク其ノ者ノ自由タルヘシ。又土民ハ、其ノ者ノ承諾ノ上、露西亜人・日本人トモニ、之レヲ雇フコトヲ得ヘシ。若シ日本人又ハ露西亜人ヨリ、土民、金銀或ハ品物ニテ、是レマテ既ニ借リ受ケシカ、又ハ現ニ借財ヲ為スコトアラハ、其ノ者ノ望ミノ上、前以テ定メタル期限ノ間、職業或ハ使行ヲ以テ、之レヲ償フコトヲ許スヘシ。(第四条以下略)
この条約は、大体に於て、安政の条約と同じく、ただ細則を定めたのみに過ぎなかつた。かくの如く、幕府の意図は、北緯五十度以南を以て我が領土とするにあつたが、それを成し遂げない中に滅びて、明治の新政となつたのである。
樺太島が日露両国の所属となつたので、露人は、しきりに南進して来て、従来、我が所属となつてゐたところにまで家屋を建て、我が官吏の制することも聴かなかつた。それがために、両国の人民の間に紛争が絶えなかつた。
それで、明治四年五月二十二日、ここに謹載した勅を、外務卿副島種臣に賜はり、国境決定のために、露都へ御差遣を仰せ出されたのである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月14日火曜日
清国皇帝への国書
(明治四年五月)
大日本国 天皇 、敬 テ大清国 皇帝 ニ白 ス。方今 、寰宇 ノ間 、交際 日日 盛 ナリ。我邦 、既 ニ泰西 諸国 ト信 ヲ通 シテ往来 セリ。況 ンヤ隣近 貴国 ノ如 キ、固 リ宜 シク親善 ノ礼 ヲ修 ムヘキナリ。而 シテ未 タ使幣 ヲ通 シ、和好 ヲ結 フコトアラサルヲ、深 ク以 テ憾 ト為 ス。乃 チ特 ニ欽差 大臣 従二位 行 大蔵卿 藤原 朝臣 宗城 ヲ派 シ、以 テ貴国 ニ遣 ハシテ誠信 ヲ達 セシム。因 テ委 スルニ全権 ヲ以 テシ、便宜 事 ヲ行 ハシム。冀 クハ、貴国 交誼 ヲ思 ヒ、隣交 ヲ篤 クシ、即 チ全権 大臣 ヲ派 シ、会同 酌議 シ、条約 ヲ訂立 シテ、両国 慶 ヲ蒙 リ、永久 渝 ラサランコトヲ。乃 チ名璽 ヲ具 ヘ、敬 テ白 ス。伏 シテ祈 ル、皇帝 ノ康寧 万福 ナランコトヲ。
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年五月、大蔵卿伊達宗城を欽差大臣として清国に遣はされ、修好条約を締結せしめたまうた時、清国皇帝に賜はつた国書である。修好条約の締結については、前勅「伊達宗城を清国に遣はし給へる勅」の中に、その顚末を略述しておいた。本勅は、文辞平易、聖旨も明らかに拝し得られる。
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年五月、大蔵卿伊達宗城を欽差大臣として清国に遣はされ、修好条約を締結せしめたまうた時、清国皇帝に賜はつた国書である。修好条約の締結については、前勅「伊達宗城を清国に遣はし給へる勅」の中に、その顚末を略述しておいた。本勅は、文辞平易、聖旨も明らかに拝し得られる。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月13日月曜日
伊達宗城を清国に遣はし給へる勅
(明治四年五月十五日)
我国 、清国 ト壌土 隣 ヲ為 ス。宜 ク親交 往来 スヘシ。爰 ニ、爾 宗城 ヲ以 テ、欽差 大臣 ト為 シ、清国 ニ往 キ隣好 ヲ修 メ、条約 ヲ訂 メ、委 スルニ全権 ヲ以 テシ、便宜 事 ヲ行 ハシム。爾 宗城 、其 能 ク両国 ノ好 ヲ為 シ、以 テ朕 カ望 ニ副 ヘヨ。
○壌土 隣 ヲ為 ス 「国が隣りあつてゐる」といふこと。「壌土」は、「国土」といふに同じ。この文字は、別に、「農作物に適する土」といふ意味にも用ゐられる。しかし、「壌」は、「つち」(土)の外に、「ところ」(場所)「くに」(国土)を意味する文字であるから、「壌土」を国土の意味に用ゐる場合が多い。
○欽差 大臣 外交官の名称。当時、勅命を奉じて、対外交渉の任に当つた最高地位の外交官。「欽差」は、「天子の御使」を意味する文字である。「正字通」に曰ふ。「御音ヲ欽勅ト曰ヒ、御使ヲ欽命ト曰ヒ、俗ニ欽差ト曰フ、皆敬意ヲ取レリ。」
〔史実〕
我が国と支那との関係は、古くから国史に伝へられてゐる。隋・唐の頃、既に使節の往復が行はれたことは、本書に謹載した国書によつても明らかである。豊臣秀吉の外征以来、相互の国交は杜絶し、江戸時代に入りても、彼の国の商船が長崎に来て貿易をしたのみに過ぎなかつた。
明治維新後、開国の国是によつて、諸外国と交通をするに及び、おのづから支那との国交も考慮せられるに至つた。明治三年六月、外務権大丞柳原前光 は、命を受けて、支那の上海に赴いて、通商を求めた。当時、支那は、国号を清と称してゐた。外務卿沢宣嘉 から、清国の総理外国事務大臣に送れる書には、
かくの如く、既に交渉が成立したので、明治四年四月、朝廷に於かせられては、大蔵卿伊達宗城を欽差全権大臣に任じたまうて、清国へ遣はされた。外務大丞柳原前光・権大丞津田真道は、副として随従した。宗城等は、五月、東京を発して、清国に至り、彼の国の欽差全権大臣李鴻章と会見して、修好条約を議し、七月二十九日に調印を了 つた。条約本文は、十八条より成り、別に通商章程を定めた。
ここに謹載したのは、明治四年五月二十五日、欽差大臣を拝命して清国に赴く伊達宗城に賜はつた勅である。
○
○
〔史実〕
我が国と支那との関係は、古くから国史に伝へられてゐる。隋・唐の頃、既に使節の往復が行はれたことは、本書に謹載した国書によつても明らかである。豊臣秀吉の外征以来、相互の国交は杜絶し、江戸時代に入りても、彼の国の商船が長崎に来て貿易をしたのみに過ぎなかつた。
明治維新後、開国の国是によつて、諸外国と交通をするに及び、おのづから支那との国交も考慮せられるに至つた。明治三年六月、外務権大丞柳原
大日本従三位外務卿清原宣嘉・従四位外務大輔藤原宗則ら、謹みて書を大清国総理外国事務大憲台下に呈す。方今、文明の化これによつて明らかなるが如く、柳原前光等は、修好通商条約締結の豫備協議に派遣せられたものであつた。前光等は、上海より天津に至り、十月、清国政府の回答を得た。清国政府は、我が要求を容れ、他日、我が国より特派した使節と商議して、条約を締結し、両国の親善を進めるといふのであつた。そこで、前光等は、使命を果して帰朝した。大 に開け、交際の道日 に盛に、宇宙の間遠邇 あることなし。我が邦近歳泰西諸国と互に盟約を訂 し、共に有無を通ず。況んや、隣近貴国の如き、宜しく最先に情好を通じ、和親を結ぶべし。而かるに、たゞ商船の往来あるのみにして、未だ嘗て交際の礼を修めず、また一大闕典 ならずや。曩 に我が邦政治一新の始め、即ち欽差公使を遣はして盟約を修めんと欲す。内地多事に因りて、遅延して今に至る。深く此れを憾 みと為す。茲 に奏准を経て、特に従四位外務権大丞柳原前光・正七位外務権少丞藤原義質・従七位文書権正鄭永寧 等を貴国に遣はす。豫前に通信事宜を商議し、以て他日我が公使と貴国と和親条約を定むるの地と為す。伏して冀 はくは、貴憲台下、右官員等を歓接し、其の陳述する所を取載せよ。謹白。明治三年庚午七月。
かくの如く、既に交渉が成立したので、明治四年四月、朝廷に於かせられては、大蔵卿伊達宗城を欽差全権大臣に任じたまうて、清国へ遣はされた。外務大丞柳原前光・権大丞津田真道は、副として随従した。宗城等は、五月、東京を発して、清国に至り、彼の国の欽差全権大臣李鴻章と会見して、修好条約を議し、七月二十九日に調印を
ここに謹載したのは、明治四年五月二十五日、欽差大臣を拝命して清国に赴く伊達宗城に賜はつた勅である。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月10日金曜日
新律綱領頒布の上諭
(明治三年十二月二十日)
朕 、刑部 ニ勅 シテ律書 ヲ改撰 セシム。乃 チ綱領 六巻 ヲ奏進 ス。朕 、在廷 諸臣 ト議 シ、以 テ頒布 ヲ允 ス。内外 有司 、其 レ之 ヲ遵守 セヨ。
〔備考〕明治二年九月二日「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」謹解参照。
〔史実〕
既に述べたとほり、明治維新の直後には、江戸時代の刑法を改めて、暫定的にこれを適用した。しかし、新刑法の制定を急務とする者も少くなかつたので、明治二年、刑部省に勅してこれが選定を命ぜられたことは、「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」の謹解中に略説しておいた。刑部省に於ては、勅命を奉じて、新刑法の選定に着手し、明治三年十二月、「新律綱領」の草案を奏進した。そこで、十二月二十日に、この上諭を賜はり、これを頒布せしめたまうたのである。
「新律綱領」は、大宝の古律に、明及び清の刑律を参酌し、寛恕軽減の聖旨を体して、時代に適応するやうに立案したものである。六巻より成り、律名を掲げて、(一)名例律(上下)、(二)職制律、(三)戸婚律、(四)賊盗律、(五)人命律(上下)、(六)闘殴律、(七)罵詈律、(八)訴訟律、(九)受贓律、(一〇)詐偽律、(一一)犯姦律、(一二)雑犯律、(一三)捕亡律、(一四)断獄律の十四律とし、八図・一百九十二条とした。正刑を死・流・徒・杖・笞の五種に分ち、別に閏刑 として、謹慎・閉門・禁錮・辺戍・自裁を挙げ、士族に科するものとし、官吏及び華族には、贖金の制を設けたが、更に笞・杖以下に懲役法を設け、一定の場所に於て、苦役に服せしめることとした。この「新律綱領」六巻は、未だ欧米の法制の影響を受けない純然たる東洋風の刑法典であつた。
〔備考〕明治二年九月二日「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」謹解参照。
〔史実〕
既に述べたとほり、明治維新の直後には、江戸時代の刑法を改めて、暫定的にこれを適用した。しかし、新刑法の制定を急務とする者も少くなかつたので、明治二年、刑部省に勅してこれが選定を命ぜられたことは、「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」の謹解中に略説しておいた。刑部省に於ては、勅命を奉じて、新刑法の選定に着手し、明治三年十二月、「新律綱領」の草案を奏進した。そこで、十二月二十日に、この上諭を賜はり、これを頒布せしめたまうたのである。
「新律綱領」は、大宝の古律に、明及び清の刑律を参酌し、寛恕軽減の聖旨を体して、時代に適応するやうに立案したものである。六巻より成り、律名を掲げて、(一)名例律(上下)、(二)職制律、(三)戸婚律、(四)賊盗律、(五)人命律(上下)、(六)闘殴律、(七)罵詈律、(八)訴訟律、(九)受贓律、(一〇)詐偽律、(一一)犯姦律、(一二)雑犯律、(一三)捕亡律、(一四)断獄律の十四律とし、八図・一百九十二条とした。正刑を死・流・徒・杖・笞の五種に分ち、別に
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月9日木曜日
惟神の大道を宣揚し給へる詔
(明治三年一月三日)
朕 、恭 しく惟 みるに、天神 ・天祖 ・極 を立 て統 を垂 れ、列皇 相承 け、之 を継 ぎ之 を述 ぶ。祭政 一致 、億兆 同心 、治教 上 に明 らかにして、風俗 下 に美 はし。而 るに、中世 以降 、時 に汙隆 有 り、道 に顕晦 有 り。治教 の洽 からざるや久 し。今 や天運 循環 し、百度 維 れ新 なり。宜 しく治教 を明 らかにして、以 て惟神 の大道 を宣揚 すべきなり。因 つて新 に宣教使 を命 じ、天下 に布教 せしむ。汝 群臣 衆庶 、其 れ斯 の旨 を体 せよ。
○天神 天祖 皇室の遠い御先祖にまします神々や天皇を仰せられたものと拝する。明治二年五月二十一日の「皇道興隆等に関する御下問」謹解参照。
○極 を立 て統 を垂 れ 皇位を確立してそれを後世にお伝へなされること。
○時 に汙隆 有 り 時代によつて衰へたり盛になつたりすることがある。「汙隆」は、「盛衰」と同じ。
〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るに、我が遠い御先祖にまします神々や天皇は、皇位を定めて後の世にお伝へになり、御歴代の天皇は、これをうけつがせられた。祭祀と政治とは一致し、万民はみな心をあはせ、上の御政治や御教化が正しく行きわたり、下の風俗がまことに美はしかつた。しかるに、中世このかた、世の中が衰へたり盛になつたりして、道の明らかによく行はれることと暗くなつて行はれないこととがあつた。今では、自然に時節がめぐつて来て、すべてのことがみな新らしくなつた。この際政治教化のことを明らかにして、さうして神代から伝はつて来た大道を大いに広く知らせなければならない。そこで、新に宣教使を任命して、天下に布教せしめるのである。汝等多くの臣も一般国民も、よくこの旨を心得よ。
〔史実〕
神霊鎮祭の詔を賜はつたその日、即ち、明治三年正月三日、明治天皇には、この祭祀尊重の御精神を広く一般国民の間に宣布したまふために、宣教使を任命して布教せしむべき旨仰せ出された。ここに謹載したのが、その詔である。これは、大教宣布の詔とも申上げてゐる。
○
○
○
○道 に顕晦 有 り 道が明らかになつたり暗くなつたりすることがある。固有の道がよく行はれる時と行はれない時とがあるといふ意味。「顕晦」は、「明暗」と同じ。転じては、「世にあらはれると隠れる」ことの意味にも用ゐられる。「晋書」隠逸伝にある「君子之行 ハ塗 ヲ殊 ニス、顕晦之謂 也。」は、この用例である。
○惟神 の大道 神代から伝はれる大いなる正しい道。天照大神の遺したまうた皇道の意味。前出。
○宣教使 神道布教のために任命せられた者。
○
○
〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るに、我が遠い御先祖にまします神々や天皇は、皇位を定めて後の世にお伝へになり、御歴代の天皇は、これをうけつがせられた。祭祀と政治とは一致し、万民はみな心をあはせ、上の御政治や御教化が正しく行きわたり、下の風俗がまことに美はしかつた。しかるに、中世このかた、世の中が衰へたり盛になつたりして、道の明らかによく行はれることと暗くなつて行はれないこととがあつた。今では、自然に時節がめぐつて来て、すべてのことがみな新らしくなつた。この際政治教化のことを明らかにして、さうして神代から伝はつて来た大道を大いに広く知らせなければならない。そこで、新に宣教使を任命して、天下に布教せしめるのである。汝等多くの臣も一般国民も、よくこの旨を心得よ。
〔史実〕
神霊鎮祭の詔を賜はつたその日、即ち、明治三年正月三日、明治天皇には、この祭祀尊重の御精神を広く一般国民の間に宣布したまふために、宣教使を任命して布教せしむべき旨仰せ出された。ここに謹載したのが、その詔である。これは、大教宣布の詔とも申上げてゐる。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月8日水曜日
神霊を鎮祭し給へる詔
(明治三年一月三日)
朕 、恭 しく惟 みるに、大祖 の業 を創 むるや、神明 を崇敬 し、蒼生 を愛撫 す。祭政 一致 、由来 する所 遠 し。朕 、寡弱 を以 て、夙 に聖緒 を承 け、日夜 怵惕 して、天職 の或 は虧 けむことを懼 る。乃 ち祇 みて天神 ・地祇 ・八神 曁 び列皇 の神霊 を、神祇官 に鎮祭 し、以 て孝敬 を申 ぶ。庶幾 はくは、億兆 をして矜式 する所 有 らしめむことを。
○大祖 「皇祖」と同じ。大祖といふのは、初代の帝王の称である。しかし、本詔に「大祖」と仰せられてあるのは、遠い祖先にまします天皇の御意かと拝察する。
○神明 を崇敬 し 神々を敬ひたふとぶ。「神明」は、「神 」といふに同じ。「左伝」の中にも、「之ヲ敬フコト神明ノ如ク、之ヲ畏ルルコト雷霆 ノ如シ。」とある。
○蒼生 を愛撫 す 万民を深く愛すること。「蒼生」は、「多くの民」である。古語では、「おほみたから」とも「あをひとぐさ」とも訓んだ。「愛撫」は、「撫でるやうに愛する」こと即ち深く愛することをいふ。
○由来 する所 よつて来れるもと。「原因」といふに同じ。
○寡弱 徳のすくない力の弱い者といふ御謙遜の御言葉である。この「寡弱」の文字は身よりのない年の若い者といふ意味にも用ゐられる。
○聖緒 「皇緒」と同じ。天皇の御系統即ち皇統のこと。また天皇の御事業といふ意味にも用ゐられる。
○怵惕 「おそれうれふる」こと。心に大いなる不安を感ずることを称する語。
○天神 ・地祇 ・八神 前に謹載した「天神地祇鎮座の宣命」の謹解中に述べてある。「天神」は天ッ神、「地祇」は国ッ神、「八神」は、「祈年祭祝詞」に出づる八柱の神である。
○曁 び 「及び」と同じ。「及」の古字。
○列皇 の神霊 御歴代の天皇の尊い御霊。
○神祇官 に鎮祭 し 神祇官に鎮座してお祭りすること。「神祇官」は、明治初年に於ける中央政府の一官庁である。明治元年閏四月二十一日の官制では、太政官を七官に分ち、神祇官をその一官としたが、明治二年七月の官制改革により、二官六省を置き、太政官と神祇官とを二官とし、祭典・諸陵・宣教・祝部・神戸等の監督を、神祇官の所管とした。
○孝敬 孝心をもつて神を敬ふこと。「敬神崇祖」といふに同じ。
○矜式 「つつしんで則る」こと。まごころをつくしてそのとほりに行ふことの意味。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「諸大夫国人ヲシテ皆矜式スル所有 ラシム。」
〔大意〕
朕が恭しく考へて見るのに、遠い祖先の方々が、この国を治める大業をおはじめなさつた時には、神々を敬ひたふとび、万民を深く愛したまうたのである。祭政一致のおこりといふものは、甚だ遠い。朕は、徳もすくなく力も弱い身をもつて、皇統をうけついだので、日夜心配して、この尊い天職にかけるやうなことはないかとおそれてゐる。そこで、つつしんで天神・地祇・八神及び御歴代の天皇の御霊を、神祇官の中に鎮めまつり、さうして神を敬ひ祖先を崇ぶ心をあらはさうと思ふ。天下の万民にも、みなこれにならふやうにさせようと思つてゐる。
〔史実〕
明治天皇には、敬神崇祖を非常に重んじたまひ、祭政一致の御政道を御回復あらせられて、明治新政の基礎を定めたまうたのであつた。この敬神崇祖の御精神から、明治元年十月、東京に行幸あらせられるや、十七日に勅書を下し賜はり、武蔵国大宮駅氷川神社を当国の鎮守として御親祭の旨仰せ出されて、二十七日に行幸御参拝あらせられた。その勅書は、前に謹載してある。
官制の変遷を顧みるに、明治元年正月十七日の官制では、三職・七科を置き、神祇科をその一科とし、同年二月三日、七科を改めて七局とし、神祇科を神祇事務局とし、同年閏四月二十一日、更に太政官官制を公布し、太政官を分ちて七官とし、神祇官をその一官とした。その後、二回の小改正が行はれたが、神祇官は、常に太政官の管下に属する一官となつてゐた。しかるに、明治二年七月八日、また官制の大改革が行はれて、二官六省の制度となつた。この制度は、大宝の古制に則り、従来の七官中の行政官を太政官と改めて、神祇官を太政官以外に独立せしめ、この太政官・神祇官を二官とし、他の五官を廃して民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を設置したものであつた。かくして、明治の政府は、神事尊重の聖旨を奉じて、新政の緒に就いたのである。
この年(明治二年)十二月、明治天皇には、新に神殿を神祇官内に御建立あらせられて、天神地祇並に八神と共に、御歴代の皇霊を鎮祭したまうた。翌年(明治三年)正月三日に渙発あらせられたのが、ここに謹載した鎮祭の詔である。神祇官人は、この詔を奉じて、天神地祇並に八神及び御歴代天皇の神霊に奉仕することになり、祭祀の根基がここに確定したのであつた。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
朕が恭しく考へて見るのに、遠い祖先の方々が、この国を治める大業をおはじめなさつた時には、神々を敬ひたふとび、万民を深く愛したまうたのである。祭政一致のおこりといふものは、甚だ遠い。朕は、徳もすくなく力も弱い身をもつて、皇統をうけついだので、日夜心配して、この尊い天職にかけるやうなことはないかとおそれてゐる。そこで、つつしんで天神・地祇・八神及び御歴代の天皇の御霊を、神祇官の中に鎮めまつり、さうして神を敬ひ祖先を崇ぶ心をあらはさうと思ふ。天下の万民にも、みなこれにならふやうにさせようと思つてゐる。
〔史実〕
明治天皇には、敬神崇祖を非常に重んじたまひ、祭政一致の御政道を御回復あらせられて、明治新政の基礎を定めたまうたのであつた。この敬神崇祖の御精神から、明治元年十月、東京に行幸あらせられるや、十七日に勅書を下し賜はり、武蔵国大宮駅氷川神社を当国の鎮守として御親祭の旨仰せ出されて、二十七日に行幸御参拝あらせられた。その勅書は、前に謹載してある。
官制の変遷を顧みるに、明治元年正月十七日の官制では、三職・七科を置き、神祇科をその一科とし、同年二月三日、七科を改めて七局とし、神祇科を神祇事務局とし、同年閏四月二十一日、更に太政官官制を公布し、太政官を分ちて七官とし、神祇官をその一官とした。その後、二回の小改正が行はれたが、神祇官は、常に太政官の管下に属する一官となつてゐた。しかるに、明治二年七月八日、また官制の大改革が行はれて、二官六省の制度となつた。この制度は、大宝の古制に則り、従来の七官中の行政官を太政官と改めて、神祇官を太政官以外に独立せしめ、この太政官・神祇官を二官とし、他の五官を廃して民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を設置したものであつた。かくして、明治の政府は、神事尊重の聖旨を奉じて、新政の緒に就いたのである。
この年(明治二年)十二月、明治天皇には、新に神殿を神祇官内に御建立あらせられて、天神地祇並に八神と共に、御歴代の皇霊を鎮祭したまうた。翌年(明治三年)正月三日に渙発あらせられたのが、ここに謹載した鎮祭の詔である。神祇官人は、この詔を奉じて、天神地祇並に八神及び御歴代天皇の神霊に奉仕することになり、祭祀の根基がここに確定したのであつた。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月2日木曜日
天神地祇鎮座の宣命
(明治二年十二月)
天皇命 の大御命 に坐 せ。天神 ・地祇 八百万 の大前 に正四位 行 宮内 権大丞 平朝臣 信成 を使 と為 して、恐 み恐 みも白 し給 はくと白 さく。今年 東京 に新宮 を造給 ひ、八柱 の神等 を祭 り給 ふに因 て、大神等 をも同 じ殿 に招 き奉 り、坐 せ奉 りて、年 の緒 長 く絶 ゆる事 なく、闕 くる事 なく、祭 り給 はむ事 を弥高 に聞食 して、大朝廷辺 を堅磐 に常磐 に守 り給 ひ、百官 人等 をも過 ち犯 す事 なく、仕 へ奉 らしめ給 ひ、新代 の大 き御政 は国 の八十国 至 らぬ隈 なく、足御代 の伊加志 御代 に成 し幸 はへ給 へと、宇豆 の御幣 を称辞 竟 へ奉 らくと宣 る天皇命 の大御命 を甘 らに聞食 せと白 す。
○天神 ・地祇 前にしばしば述べてある。天にまします神または天から降りませる神を天ッ神(天神)といひ、国土に生 れませる神を国ッ神(地祇)といふ。
○八百万 非常に大いなる数の名である。神々の数の甚だ多いことから、「八百万の神」といふ語が、古くから伝へられてゐる。「古事記」上巻に、「是を以て八百万の神、天ノ安之河原に神集 ひ集ひて、高御産巣日神 の子 思金 ノ神に思はしめて」とあり、「万葉集」巻二の長歌には、「天の河原に八百万千万神の神つどひ」とある。
○新宮 新らしいお宮即ち新らしい神殿のこと。
○八柱 の神 高皇産霊 ノ神・神皇産霊 ノ神・玉積産霊 ノ神・生産霊 ノ神・足産霊 ノ神・大宮売 ノ神・御食津 ノ神・事代主 ノ神の八神。「祈年祭祝詞」の中に出づ。
○年 の緒 「年」といふに同じ。年 が長くつづくことを、緒に擬していふ語である。「万葉集」巻四に、「わが形見見つつしのばせあらたまの年の緒長く我も思はむ」とあり、その他にも、和歌の中には、用例が頗る多い。
○堅磐 に常磐 に 「堅磐 」は「堅きいは」であり、「常磐 」は「常 いは」即ち「常にかはらぬいは」である。「堅磐常磐」は、物事の永久にかはらぬことをいへる語。宣命にも、祝詞にも、多く用ゐられてゐる。
○八十国 「多くの国々」といふこと。「八十」は、「多くの数」を意味する語である。「鎮火祭祝詞」に曰ふ。「国 の八十国 、嶋 の八十嶋 を生み給ひて」
○足御代 の伊加志 御代 何事も充ち足れる盛大な御代をいふ。
○宇豆 の御幣 「宇豆」は「珍 」である。「珍 」は「厳 」と通ずる。厳しく、高く、貴く、めでたいこと。「玉篇」に、「珍、貴也、美也、重也。」とある。「御幣」は、「御手座 」の義ともいひ、「充座」の義ともいひ、「御栲座 」の約語ともいふ。もと神に奉る物の総名であつたが、後に絹帛などを串に挟みて神に捧げるものをいふ名となり、更にまた絹帛を紙に代へるやうになつた。「うづの御幣」といふ語は、宣命にも祝詞にも、常に用ゐられてゐる。
〔大意〕
天皇の大御命であると、八百万の天神地祇の御前に、正四位行宮内権大丞平朝臣信成を使として、つつしみつつしんで申上げよと仰せられることを申上げる。今年東京に新らしいお宮をお造りなされて、八柱の神々を祭りたまふによつて、大神をも同じお宮にお招き申して、御鎮座をお願ひして、長い年月の間絶えることなく、闕くこともなく、お祭をなされたいといふことをお聞き入れ下され、朝廷を磐石のやうにお守りなされて、多くの役人どもが過ををかすことなくお仕へするやうになされて、この新らしい御政治が、国内にも至らぬところのないやうにして、すべてのものが十分に足る盛な御代になる幸福を与へたまふやうにと、うづの御幣を捧げて、お願ひごとを申上げよと仰せられる天皇の大御命を、どうぞお聞き入れ下さるやうにと申上げる。
〔史実〕
明治二年十二月神祇官中に神殿を建てたまひ、天神地祇・八神及び御歴代の皇霊を鎮祭したまふに当り、宮内権大丞平信成を勅使として遣はされ、天神地祇に告げさせたまうた宣命である。後に掲げ奉る神霊鎮祭の詔の謹解中にこれを述べる。
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〔大意〕
天皇の大御命であると、八百万の天神地祇の御前に、正四位行宮内権大丞平朝臣信成を使として、つつしみつつしんで申上げよと仰せられることを申上げる。今年東京に新らしいお宮をお造りなされて、八柱の神々を祭りたまふによつて、大神をも同じお宮にお招き申して、御鎮座をお願ひして、長い年月の間絶えることなく、闕くこともなく、お祭をなされたいといふことをお聞き入れ下され、朝廷を磐石のやうにお守りなされて、多くの役人どもが過ををかすことなくお仕へするやうになされて、この新らしい御政治が、国内にも至らぬところのないやうにして、すべてのものが十分に足る盛な御代になる幸福を与へたまふやうにと、うづの御幣を捧げて、お願ひごとを申上げよと仰せられる天皇の大御命を、どうぞお聞き入れ下さるやうにと申上げる。
〔史実〕
明治二年十二月神祇官中に神殿を建てたまひ、天神地祇・八神及び御歴代の皇霊を鎮祭したまふに当り、宮内権大丞平信成を勅使として遣はされ、天神地祇に告げさせたまうた宣命である。後に掲げ奉る神霊鎮祭の詔の謹解中にこれを述べる。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
2017年11月1日水曜日
徳川慶喜・松平容保等を寛宥し給へる詔
(明治二年九月二十八日)
朕 聞 、明君 徳 ヲ以 テ下 ヲ率 ヒ、庸主 法 ヲ以 テ人 ヲ待 ツ。顧 フニ乱賊 常 ニ有 ラス、君徳 奈何 ニアルノミ。今 ヤ北疆 始 テ平 キ、天下 粗 定 ル。慶喜 容保 以下 ノ如 キ、各 宜 シク寛宥 スル所 アツテ、自 新 ニセシメ、以 テ天下 ト更張 セン。
〔大意〕
朕が聞いてゐるところによれば、明君は、徳を修めて下の者を率ゐ、庸主は、法を厳しくして人を扱ふといふことである。思ふに、国を乱す悪人といふものがいつもあるわけではない。君に徳があるかどうかといふことにあるのみである。今は北の境の地方の乱も静まり、国中が大かたをさまつた。慶喜や容保やその外の者も、それぞれどうか寛大にしてやり、自分から心を改めさせて、さうして、天下の者がみな一しよに国の勢を盛にするやうにしよう。
〔史実〕
明治維新の直後、大義名分を誤つて叛臣となつた徳川慶喜・松平容保等は、既に寛刑の恩命に浴してゐる。徳川慶喜は、水戸に謹慎を命ぜられ、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮の処刑を受けた。然るに、蝦夷地に拠つて、最後まで抵抗をした榎本武揚等が降服して、天下の平定を見るに至り、重ねてこれらの叛臣を寛宥すべき旨仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。詔の中には、「乱賊常ニ有ラス、君徳奈何ニアルノミ」と仰せられてある。争乱の原因を君徳に帰したまうたのは、誠に恐懼に堪へぬことである。
〔大意〕
朕が聞いてゐるところによれば、明君は、徳を修めて下の者を率ゐ、庸主は、法を厳しくして人を扱ふといふことである。思ふに、国を乱す悪人といふものがいつもあるわけではない。君に徳があるかどうかといふことにあるのみである。今は北の境の地方の乱も静まり、国中が大かたをさまつた。慶喜や容保やその外の者も、それぞれどうか寛大にしてやり、自分から心を改めさせて、さうして、天下の者がみな一しよに国の勢を盛にするやうにしよう。
〔史実〕
明治維新の直後、大義名分を誤つて叛臣となつた徳川慶喜・松平容保等は、既に寛刑の恩命に浴してゐる。徳川慶喜は、水戸に謹慎を命ぜられ、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮の処刑を受けた。然るに、蝦夷地に拠つて、最後まで抵抗をした榎本武揚等が降服して、天下の平定を見るに至り、重ねてこれらの叛臣を寛宥すべき旨仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。詔の中には、「乱賊常ニ有ラス、君徳奈何ニアルノミ」と仰せられてある。争乱の原因を君徳に帰したまうたのは、誠に恐懼に堪へぬことである。
宥典録(明治二年「太政官日誌」百三より)
法律ハ国家之重事ニ候処、昨年犯逆之罪ニ於テハ、名義紊乱ノ後ヲ承ケ、政教未洽 ノ際ニ付 、聖上深ク御反躬被為在 、専ラ非常寛典ニ被処 候次第、就テハ、今度深キ思食 ヲ以テ、詔書之通 、更ニ被仰出 候間、名義ヲ明ニシ、順逆ヲ審 ニシ、反省自新、盛意ニ対膺 可致 候事。
徳川慶喜先般謹慎被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、被免 候事。
静岡藩知事 徳川家達徳川慶喜儀、別紙之通被仰付 候条、此段可相達 事。
飯野藩知事 保科正益松平容保儀、先般城地被召上 、父子永預 被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下 候間、血脈之者相撰 、可願出 事。
各通 鳥取藩知事 池田慶徳久留米藩知事 有馬頼威松平容保儀、先般城地被召上 、父子永預 ケ被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下 候間、血脈之者相撰 、可願出 旨被仰出 候間、此段為心得 相達 候事。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
登録:
投稿 (Atom)