2017年10月1日日曜日

王政復古の大号令

(慶応三年十二月九日)


徳川とくがは内府ないふ従前じゆうぜん御委任ごゐにんの大政たいせい返上へんじやう将軍職しやうぐんしよく辞退じたい両条りやうでう今般こんぱん断然だんぜん被聞食きこしめされさふらふそもそも癸丑みづのとうしのとし(嘉永六年)以来いらい未曾有みぞう国難こくなんにて先帝せんてい頻年としごろ被悩宸襟しんきんをなやまされさふらう御次第おんしだい衆庶しゆうしよ所知しるところにさふらふ依之これによつて被決叡慮えいりよをけつせられ王政わうせい復古ふくこ国威こくゐ挽回ばんくわい御基おんもとゐ被為立たてさせられさふらふあひだ自今じこん摂関せつくわん幕府等ばくふとう廃絶はいぜつ即今そくこん先仮まづかり総裁そうさい議定ぎぢやう参与さんよ三職さんしよくを被置おかれ万機ばんきを可被為行おこなはせらるべく諸事しよじ神武創業じんむさうげふ之始のはじめもとづキ、縉紳しんしん武弁ぶべん堂上だうじやう地下ぢげ無別べつなく至当したう公議こうぎつくシ、天下てんか休戚きうせきおなじ可被遊あそばさるべき叡慮えいりよつきおのおの勉励べんれい旧来きうらい驕惰けうだ汚習をしふあらヒ、尽忠じんちゆう報国はうこくまこともつテ、可致奉公ほうこういたすべくさふらふこと

徳川とくがは内府ないふ 「内府」は、「だいふ」とも訓む。内大臣の異称。「権記」正暦四年正月の中に曰ふ。「参内府、大饗也。」この「徳川内府」は、徳川慶喜のことである。

将軍職しやうぐんしよく 軍を統率する職といふ意味の語である。通常、「将軍」といふ語は、征夷大将軍の略称として用ゐられてゐる。古代には、東夷征伐に派遣せられる武将を、征夷将軍といひ、征夷大将軍といつた。後鳥羽天皇の建久三年に、源頼朝が征夷大将軍に補せられ、兵馬の権を掌握してから、常置の職となり、足利氏も徳川氏も、みなこの職に就いた。

宸襟しんきん 天皇の大御心。宸衷・叡慮と同じ。「襟」は「えり」から転じて「胸」「心」の意味に用ゐられる。何遜の詩に曰ふ。「宸襟動時豫。」

国威こくゐ挽回ばんくわい 衰へてゐた国の威光を、もとのとほりにひきもどすこと。「辞源」に曰ふ。「已ニ去ル者ヲ挽引シ復返セシムルヲ謂フナリ。故事ニ将ニ収メテツトメ振興ヲ図ル者、亦挽回ト曰フ。」

摂関せつくわん 摂政関白の略。摂政も関白も共に職名。幼帝または女帝を輔けて、万機の政を摂行する職を、摂政といふ。応神天皇の御幼時に、神功皇后が摂政したまうたことにはじまる。万機の政務を総べて、天皇を輔佐し奉る職を関白といふ。関白の語は、万機に関り白すといふ意味から生じたものである。宇多天皇の御時に、藤原基経がこの職に補せられてから、代々藤原氏の専任となり、更に江戸時代の末まで続いた。「摂政」の文字は、「史記」の舜紀に、「堯老ユ、舜ヲシテ天子ノ政ヲ摂行セシム。」とあり、同じく五帝紀に、「舜挙ゲラルルヲ得テ、事ヲ用ヰルコト二十年ニシテ、堯遂に摂政セシム。」とある。また「関白」の文字は、「漢書」の霍光伝に、「諸事皆先ヅ光ニ関白シ、然ル後ニ天子ニ奏御セヨ。」とある。現今では、天皇が成年に達せられざる時、また久しき御不豫により、大政を御親らみそなはすこと能はざる時、天皇の御名によつて、大権を行ふ憲法上の御地位を、摂政と申上げてゐる。ここにある摂政が、現今の摂政と異なることはいふまでもない。

縉紳しんしん武弁ぶべん 朝廷に仕へ奉る文官と武官をいふ。「縉紳」は、「搢紳」とも書く。「搢紳家」は、「くげしゆう」とも訓んだ。「漢書」郊祀志に、「其ノ語ハ経ニ見エズ、縉紳ハ道ハズ。」とあり、顔注に、「李奇曰ク、搢ハ挿ナリ、笏ヲ紳ニ挿ス、紳ハ大帯ナリ。」とある。官位高き人の称となつてゐる。「武弁」の「弁」は、かんむりを意味する文字である。故に、「武弁」は、武官の被る冠といふ意味から、転じて「武官」「武士」「武人」を意味する用語となつたものであらう。「後漢書」輿服志に、「武冠ハ一ニ武弁ト曰ヒ、諸武官コレヲ冠ス。」とあり、「文献通考」職官門に、「校尉ハ漢ニ在リテハ、兵師要職ト為シ、而シテ後世則チ武弁ノ不歯フシスル所ノ冗秩ト為ス。」とある。

堂上だうじやう地下ぢげ 「堂上」は、「殿上」と同じ意味の語である。五位以上の公卿の中、昇殿を許されたものを「殿上人」といひ、これを「地下」に対して、「堂上」または堂上方ともいつた。「地下」は、昇殿を許されない官人のことである。またこれを「地下人」ともいつた。「堂上」は、転じて禁裏に仕へる公卿の称となり、「地下」は、転じてこれらの公卿が、それ以外の者を称する語となつた。ここに「堂上地下」とあるのも、この意味に用ゐられてあるものと思ふ。

休戚きうせき 「喜びと愁ひ」または「善きことと悪しきこと」を意味する語である。「字典」に曰ふ。「休ハ、美善也。慶也。戚ハ、哀也。憂也。」

叡慮えいりよ 天皇の大御心。聖慮・宸慮・宸襟と同じ。「保元物語」に曰ふ。「一官重仁親王を位に即奉らんとや思召けむ叡慮計がたし。」

驕惰けうだ汚習をしふ 「おごりなまける悪い習慣」といふこと。「驕惰」は、敖惰・驕怠と同じく、おごつて為すべき事を怠ることである。「宋史」韓琦伝に曰ふ。「鼓行シテススミ、賊ノ驕惰ニ乗ズレバ、之ヲ破ルコト必矣。」


〔大意〕
徳川内府が、前から御委せになつてあつた大政を返上し、将軍職を辞退するといふ二つのことを、このたびきつぱりとお聞き入れなされた。そもそも嘉永六年この方、今までにかつて一度もなかつた国の災難のために、先帝(孝明天皇)が、毎年深く大御心を悩ませたまうたことは、多くの人々のみな知つてゐるところである。よつて、御決心あそばされ、古へのとほりに、大政を天皇の御手にとりたまひ、衰へた国の威光をもとのやうに引きもどす基をお定めなされたから、これから摂政・関白・幕府等の官職は、廃してしまひ、今のところ、先づ仮に総裁・議定・参与の三職を置かれて、すべての政務を行はせられ、万事、神武天皇がこの国をおひらきになつたはじめにもとづき、文官と武官、朝臣とその他の者との区別なく、だれが考へても正しいと思はれる意見によつて相談をまとめ、天下の万民と喜びも憂ひもともになされる大御心と拝し奉るによつて、みなそれぞれ自分の職務を励み、今までのやうなおごり怠つてゐる悪い習慣を、洗ひ流してしまひ、君の御為国の為につくすといふまごころをもつて御奉公いたされたい。


〔史実〕
内外の時局がますます紛糾して、内乱が一度ひとたび起らば、外患がこれに乗じて必ず到らうとしてゐる幕末の危機に、前土佐藩主山内豊信は、将軍徳川慶喜に、大政の奉還を建白した。つとに天下の情勢を察知して、国家の前途を憂慮してゐた徳川慶喜は、豊信の建白を容れ、断然、意を決して、慶応三年十月十四日、上表して大政の奉還を奏請した。その上表文は、次のとほりであつた。
臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候ニ、昔シ王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移リテヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト不少スクナカラズ、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳之所致イタストコロ、不堪慙懼候。況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候。臣慶喜国家ニ所尽、是ニ不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸侯ヘ相達置候。依之此段謹而奏聞仕候。以上。
御践祚後間もなき明治天皇には、慶喜の奏請を御嘉納あらせられたので、ここに十五代二百六十五年の間続いた徳川幕府の政治が終焉を告げて、王政復古の御代となつた。源頼朝が鎌倉幕府を創立して、政権が武門に移つてから、六百八十年の歳月を経てゐる。

かくして、その年(慶応三年)十二月九日に発せられたのが、ここに掲げ奉つた王政復古の大号令である。これは、他の詔勅とその性質を異にしてゐる。詔を奉じて、君側の重臣がその聖旨を万民に公布したものである。しかし、この大号令の中には、維新の皇謨が明らかに示されてゐる。諸事神武天皇御創業の始に基づき、上下の別なく、至当の公議を竭さしめて、庶政を一新あそばされようとする宏遠雄深なる御経綸を、この大号令の中に窺ひ奉ることが出来る。故に、これを詔勅と同じやうに謹載して奉誦するのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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