2017年10月23日月曜日

政始に百官将士に賜はりたる詔

(明治二年一月四日)


チンオモンミルニ、在昔ムカシ神皇ジンノウモトヰハジメシヨリ、列聖レツセイ相継アヒツキ、モツチンオヨフ。チン否徳ヒトク夙夜シユクヤ兢業キヨウゲフ先皇センノウシヨオトサンコトヲ之懼コレオソル。曩者サキニ兇賊キヨウゾクメイカウシ、億兆オクテウ塗炭トタンクルシム。サイハヒナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシチカラリ、スミヤカ戡定カンテイコウソウシ、万姓バンセイヤスンスルニイタル。今茲コトシトシ在己巳キシサン三元ゲンケイ啓端タンニアリ上下シヤウカ乂寧ガイネイ遠邇ヱンジ来賀ライガス。チンナンヨロコビコレシカン。オモフニ天道テンダウ靡常ツネナク一治イツチ一乱イチラン内安ウチヤスケレハカナラズソトウレヒアリ。戒慎カイシンセサルベケンヤ。チンマスマス祖業ソゲフ恢弘クワイコウシ、ヒイ中外チユウグワイカウムラシメ、モツナガ先皇センノウ威徳ヰトク宣揚センヤウセンコトヲ庶幾シヨキス。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシ勉励ベンレイ不懈オコタラズオノオノ其職ソノシヨクツクシ、アヘ忌憚キタンナクチン闕漏ケツロウ匡救キヤウキウセヨ。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシソレ勉旃コレヲツトメヨ

オモンミルニ 「思ひみるに」である。「惟」は「思」と同じ。深く思ふといふ場合に「惟」の文字を用ゐる。

神皇ジンノウ 天照大神と神武天皇とを仰せられてあるものと拝察する。

モトヰハジ 皇国の基をはじめて開きたまうたこと。

列聖レツセイ 御歴代の天皇。

夙夜シユクヤ兢業キヨウゲフ 朝夕おそれいましめる。「夙夜」は、「朝早く起き夜おそく寝る」といふ意味の文字である。「終日」といふ意味に多く用ゐられる。「兢業」は、「兢々」と同じく、おそれ戒める有様をいふ語である。

先皇センノウシヨ 先の天皇の遺したまうた御事業。「先皇」は、先代の天皇であるが、必ずしも先代と限らず、御先祖の天皇といふ意味に用ゐられる場合もある。

兇賊キヨウゾクメイカウ 「悪人どもが大命に反抗した」といふこと。「兇賊」は「凶賊」と同じ。不逞なことを企てる乱暴な悪人をいふ。「梗」は「抗」と同じ。「反抗」の意味。

億兆オクテウ塗炭トタンクルシム 「万民が非常に苦しんだ」といふこと。

戡定カンテイコウ 「敵を討ち滅ぼして乱を平定した手がら」といふこと。「戡定」は、「戦に勝つて乱を定める」といふ意味の文字である。「書経」の康王之誥に「戡定厥功(ノ功ヲ定ム)。」とある。

万姓バンセイヤスンスル 「万民が安心する」といふこと。「万姓」は「百姓」と同じ。多くの民をいふ。「堵ニ安スル」は、「安堵」即ち「安心」である。

己巳キシ つちのとみの年。「己」は十干の第六位、「巳」は十二支の第六位。明治二年は、己巳の年に当つてゐた。

三元啓端サンゲンケイタン 「正月元日早々」といふこと。「三元」は、正月元日の称。年・月・日の三つの始めといふ意味。「元」は「はじめ」である。「玉燭宝典」に曰ふ。「正月ヲ瑞月ト為シ、其ノ一日ヲ上日ト為シ、マタ三元ト曰フ、歳之元、時之元、月之元ナリ。」この「三元」といふ語は、また「上元」(一月十五日)・「中元」(七月十五日)・「下元」(十月十五日)の総称にも用ゐられ、天・地・人の三才を称することもある。「啓端」は、その文字のとほり、「ひらけはじめ」である。

上下シヤウカ乂寧ガイネイ 「上に在る者も下の者もみな安らかである」といふこと。「天下太平」の意味。「乂寧」は、世の中が安らかによく治まつてゐることを意味する文字である。「元史」刑法志に曰ふ。「百年之間、天下乂寧。」

遠邇ヱンジ来賀ライガ 遠いところの者や近いところの者が祝ひを述べに来ること。「遠」は、外国のことであらう。明治元年に外交の新方針が定まり、諸外国公使に入京参朝を仰せ付けられたので、この年にもフランス、オランダその他の公使が朝賀に列したことと思はれる。

天道テンダウ靡常ツネナク 自然に行はれる世の移り変りは、豫め定まつてゐないといふこと。「天道」は、自然の道即ち自然の道理である。

祖業ソゲフ恢弘クワイコウ 「御先祖から承けついだ業を更に一そうひろめる」といふ意味の語。「天業恢弘」と同じ。

闕漏ケツロウ匡救キヤウキウセヨ 及ばないところを補ひ助けるやうにせよ。「闕漏」は、その文字のとほり、「かけてもれる」こと。「手落」の意味。諸葛亮の出師表に、「闕漏ヲ裨補ヒホス。」とある。

勉旃コレヲツトメヨ 「旃」(せん)は、「これ」と訓む。「せん」の音は、「」・「えん」二字の合音である。「勉旃」は、人を激励する語。高適の詩に曰ふ。「行矣各勉旃、吾当挹餘烈。」


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、昔、神皇がこの国をお肇めになつてから、御歴代の天皇がこれをつがせられて、さうして朕の身に及んだのである。朕は、徳のない者で、毎日、いましめつつしんで、先皇の御事業を保ち得ないやうなことがあつてはならぬとおそれてゐる。先に、悪人どもが大命にそむいて、万民が大いに苦しんだ。幸ひに汝ら多くの文武官の力によつて、速に乱を平げることが出来て、万民も安心するやうになつた。今年は、己巳の年であつて、正月元日早々、天下太平にして、遠近の者が祝賀に来た。朕にとつて、これほど喜ばしいことはない。考へて見るのに、自然の道理といふものは、人の思ふやうにならず、よく治まることもあれば、また乱れることもあり、国内が平安になれば、外国との間に憂ふべきことを生ずるものである。深くいましめつつしまなければならない。朕は、ますます祖先から承けついだ大業をひろめ、それを国の内外に及ぼし、さうして永く先代の天皇の御威徳を高めるやうにと願つてゐる。汝ら多くの文武官も勉励して怠らずに、その職務をつくし、少しも憚るところなく、朕の及ばないところを補ひたすけるやうにせよ。汝ら多くの文武官、これをつとめよ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、王政復古第二年の初頭に当る明治二年一月四日の政始まつりごとはじめに、文武百官に賜はり、戒慎と自重とを促したまうた詔である。「政始」は、また「政事始」ともいふ。新年にはじめて政治を行はせたまふ時の御儀式である。毎年一月四日と定められてある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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