2017年10月16日月曜日

氷川神社御親祭の詔

(明治元年十月十七日)


神祇しんぎたふとひ、祭祀さいしおもんずるは、皇国くわうこく大典たいてん政教せいけう基本きほんなり。しかるに、中世ちゆうせい以降いかう政道せいだうやうやおとろへ、祀典してんあがらず、つひ綱紀かうき不振ふしん馴致じゆんちす。ちんふかこれがいす。方今はうこん更始かうしあきあらた東京とうきやうき、したしくのぞみてまつりごとる。まさ祀典してんおこし、綱紀かうきり、もつ祭政さいせい一致いつちみちふくせむとす。すなは武蔵国むさしのくに大宮駅おほみやえき氷川ひかは神社じんじやもつて、当国たうごく鎮守ちんじゆし、したしくみゆきしてこれまつる。いまより以後いごとしごとに奉幣使ほうへいしつかはし、もつ永例えいれいせ。

神祇しんぎ 天地の神々。「天神地祇」の略。古語では、「神祇」の文字を「あまつかみくにつかみ」と訓み、また「あまつやしろくにつやしろ」と訓んでゐる。

祭祀さいし 「祭」も「祀」も「まつり」と訓む。期日を定めず、供物を捧げてまつる場合には、「祭」の文字を用ゐ、期日の定まれるまつりには、「祀」の文字を用ゐる。しかし、今日では、さうした区別なく並用せられてゐる。「孝経」の疏に、「祭ハ際ナリ、人神相接シ、故ニ際ト曰フナリ。」とある。「書経」の洪範には、「八政、三ニ祀ト曰フ。」とある。「事物紀原」に曰ふ。「包犠鬼物ヲ使ヒ以テ羣祠ニ致シ、犠牲ヲ以テ百神ニ登薦スルハ、則チ祭祀之始ナリ。」

皇国くわうこく大典たいてん 我が国に於て最も重んぜられてゐる儀式。

政教せいけう基本きほん 政治や教育のもと。

中世ちゆうせい以降いかう 中世このかた。「中世」は、明治十五年「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の、「中世なかつよに至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ」の「中世」と同じく、大化の新政頃から平安朝の末期までを、大凡に仰せられたものと拝する。故に、「中世以降」は、それ以後のこと、即ち、政権が武門に移つてからのこと。同じく軍人勅諭にも、「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり。」と仰せられてある。

祀典してん 「祭典」と同じ。まつりの儀式である。「礼記」に曰ふ。「此ノ族ニ非ザレバ、祀典ニ在ラズ。」

綱紀かうき不振ふしん 治国の基礎となるおきてが十分に行はれないこと。

馴致じゆんち 「おのづから招いた」といふこと。「馴致」は、「次第にうつりかはる」といふ意味の文字である。「易経」の坤卦に曰ふ。「履霜リサウ堅冰ケンピヨウ、陰始メテ凝ルナリ。其ノ道ヲ馴致スレバ、堅冰ニ至ルナリ。」

更始かうし 旧きものを改めて新しく始めること。

祭政さいせい一致いつち 政事と神事の一致。我が国に於ては、古来、祭祀を通じて政治が行はれ、政治のことを「まつりごと」ともいつてゐる。我が國體の本義に基づく特殊の政道である。

鎮守ちんじゆ その土地を鎮め守ります神またはその社。「源平盛衰記」の一院女院厳島行幸事の中に曰ふ。「是れ当国第一の鎮守に御座す。」

永例えいれい いつまでも守るべき定め。「永式」と同じ。


〔大意〕
天地の神々をうやまひ、そのまつりを重んずるは、我が国の大切な儀式で、政治教育のもとである。しかるに、中世このかた政治の道が衰へて、祭の儀式がおろそかになり、国のおきてもだんだんと行はれないやうになつた。朕は、これを深く慨いてゐる。今、すべてのことを改めようといふ時、新しく東京に都を定めて、親しく政をすることになつた。これから、先づ祭の儀式をおこし、国のおきてを引きしめ、祭と政とが一致してゐた昔の道にかへさうと思ふ。そこで、武蔵国大宮駅の氷川神社を、その国の鎮守とし、親ら行幸してこれを祭ることにする。今後は、毎年、奉幣使を遣はすやうにして、それを永くかはらぬ例とせよ。


〔史実〕
明治元年十月十七日、武蔵国氷川神社の御親祭を仰せ出されたのが、ここに謹載した詔である。氷川神社の創設は、その年代が甚だ古く、孝昭天皇の勅願によつて建立せられたものともいひ、日本武尊が御東征に際して勧請せられたものともいふ。由緒ある古社の一である。東京に遷幸後、直ちに御親祭を仰せ出されたのは、厚き敬神の大御心のあらはれと拝し奉る。詔の中には、「祭政一致の道を復せむとす。」と、固有の政道を明らかに宣示あらせられてある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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