2017年10月31日火曜日

新刑律選定に関して集議院に下し給へる御下問

(明治二年九月二日)


ワガ大八洲オホヤシマ國體コクタイ創立サウリツスル、邃古スヰコオイ不論ロンゼズ神武ジンム以降イカウ二千年ニセンネン寛恕クワンジヨマツリゴトモツシモヒキヰ、忠厚チユウコウゾクモツカミホウス。大宝タイハウオヨンテ、唐令タウレイ折衷セツチユウストイヘドモ、其律ソノリツホドコスニイタツテハ、ツネ定律テイリツヨリクワンニス。其間ソノアヒダマツリゴト汙隆ヲリユウトキ治乱チランナキニアラサルモ、大率オホムネ光被クワウヒトク外蕃グワイバンオヨフ。保元ハウゲン以降イカウ乾綱ケンカウチユウキ、武臣ブシンケンモツパラニシ、法律ハフリツモツマツリゴトシ、刀鋸タウキヨモツシモヒキユ。寛恕クワンジヨ忠厚チユウコウフウツヒハラフ。イマ太政タイセイ更始カウシヨロシイニシヘカンガヘ、イマアキラカニシ、寛恕クワンジヨマツリゴトシタガヒ、忠厚チユウコウゾクフクシ、万民バンミントコロテ、国威コクヰハジメフルフヘシ。頃者コノコロ刑部ギヤウブ新律シンリツ選定センテイスルノトキヨツ茲旨コノムネタイシ、オヨソ八虐ハチギヤク故殺コサツ強盗ガウタウ放火ハウクワトウホカ異常イジヤウハフヲカスニアラサルヨリハ、大抵タイテイ寛恕クワンジヨモツ以下イカバツシヨセシメントス。ソモソモケイハ、無刑ムケイスルニリ。シユウソレ商議シヤウギシテ、モツ上聞ジヤウブンセヨ。

ワガ大八洲オホヤシマ國體コクタイ 我が大日本帝国の國體。「大八洲」は、古くから我が国の別名となつてゐる。「國體」は、国家成立の精神やその体制を総括的にいふ語。

邃古スヰコ 「太古」と同じ。おほむかし。蔡邕の文に曰ふ。「邃古ヲ仰ギ、昆後ヲ輝ス。」

寛恕クワンジヨマツリゴト 深い御仁愛の大御心をもつて、万民を治めたまふ御政治をいふ。「寛恕」は、「心が広く思ひやりのある」ことを意味する語。「後漢書」魏覇伝に曰ふ。「簡朴寛恕ヲ以テ、政ヲ為ス。」

忠厚チユウコウゾク 忠義の心の厚い習はし。「忠厚」の文字は、「忠信篤厚」即ち「まめやかにして厚き心」の意味に用ゐられることもある。

大宝タイハウ 文武天皇の御代の年号。この大宝年間に、有名な「大宝律令」が出来上つた。

唐令タウレイ折衷セツチユウ 「唐の法令のよいところを採り入れて、我が法令の缺陥を補ふ」といふこと。

リツ 昔は、国法を「律」と「令」とに分け、刑罰の制を記したもの、即ち今日の刑法に当るものを「律」といひ、その他の法令を「令」と称した。

マツリゴト汙隆ヲリユウ 政の衰へた時と盛な時。「汙隆」は、「盛衰」「隆替」と同じ。庾信の詩に曰ふ。「馳輸有盈缺、入道亦汙隆。」

光被クワウヒトク 広く世をおほふところの徳。「光被」は「あまねく世に及ぶ」といふ意味の文字である。広大無辺の徳をいふ場合に用ゐられることが多い。「書経」の堯典に曰ふ。「四表ヲ光被シ、上下ニイタル。」

外蕃グワイバン 「外国」といふに同じ。「蕃」は「えびす」である。未開の国を意味してゐる。「外蕃」は、外国を侮つていふ語として多く用ゐられる。

保元ハウゲン以降イカウ 保元この方。保元は、後白河天皇の御代の年号である。この時代には、史上に有名な保元の乱が起つた。

乾綱ケンカウチユウ 大権が天皇から離れて、世の中が乱れること。「乾綱」は、「天ののり」「帝王のおほづな」といふ字義から、「王綱」「帝綱」と同じく、君主の大権を意味する語となつてゐる。「晋書」華譚伝に、「聖人之天下ニ臨ム、乾綱ニノツトリ以テ化ヲヒロメ、谷風ニ順ヒ以テ仁ヲ興ス。」とある。「解紐」は、「結んだ紐が解ける」といふことから、政治の乱れることの喩となつてゐる。干宝の「晋紀総論」に、「名実反錯、天綱解紐。」とある。

刀鋸タウキヨモツシモヒキ 刑罰を厳しくして民を服従させること。「刀鋸」は、その文字の如く、かたなのこぎりである。昔、支那では、「割」即ち勢を割く刑に刀を用ゐ、げつ即ち足を斬る刑に鋸を用ゐたので、「刀鋸」の文字が刑罰の意味に転用せられるやうになつたのである。司馬遷の報任安書に曰ふ。「奈何イカニシテ刀鋸之餘ヲシテ天下豪傑ニ薦メシメン。」韓愈の送李愿帰盤谷序に曰ふ。「刀鋸加ヘズ、理乱知ラズ。」

ハラ 「地を掃き清める」といふことから、「残るところなく尽きはててしまふ」ことの意味に転用せられてゐる語。「漢書」魏豹伝の賛に曰ふ。「秦六国ヲ滅シ、而シテ上古之遺烈、地ヲ掃ヒテ尽ク矣。」

刑部ギヤウブ 刑部省のこと。明治二年七月の官制改定によつて置かれた六省の一。獄を断じ、刑名を定め、疑獄を決することを、所管事務とした。

八虐ハチギヤク故殺コサツ強盗ガウタウ放火ハウクワ 何れもみな古来伝はれる罪名である。「八虐」は、罪の極めて重きもの。「大宝律」に於ては、謀反ぼうはん謀大逆ぼうたいぎやく謀叛むほん・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義を八虐とした。「故殺」は、故意に人を死に至らしめた罪。

異常イジヤウハフ 正常の法律と異なる特殊の法。

寛恕クワンジヨ 心をひろくして思ひやりを深くするといふ意味の文字。

 流罪のこと。

無刑ムケイスル 刑罰を無しにすること。刑罰を加へる必要がないやうに、民を善導するといふ意味。

商議シヤウギ はかり定めること即ち相談をすること。


〔大意〕
謹約。「神武天皇以後二千年の間は、寛大な思ひやりの深い御政治をなされて、万民をお治めになり、万民も厚い忠義の心を捧げて、天皇にお仕へ申しあげた。大宝(文武天皇の御代)になつてから、唐の法律や制度を折衷せられたが、刑の施行は、定められた法文よりもなほ寛大であつた。保元(後白河天皇の御代)以後は、世が乱れて、武家が政権を握り、刑罰を厳しくしたので、昔の美風が全く消え失せた。今、大政を一新するに当り、再び古の美風にかへし、万民が安心して生活し得るやうにしなければならない。刑部省が新らしい刑法を定めるに当つては、よくこのことを心得、非常な重罪にあらざる限り、流以下の寛大な罰に処するやうにさせたいと思ふ。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治二年九月二日、新刑律の選定について、集議院に御下問あらせられた詔である。

明治元年十月、新政府に於ては、仮に幕府の旧法を改めて、死・流・徒・笞の四刑を定めた。さうして、刑罰をやや寛大にし、梟首を以て火刑に代へ、徒刑を以て追放に代へ、大逆に非ざれば磔刑に処せず、死刑は、すべて勅許を得て行ふこととした。当時、未だ俄かに新刑法を定めるに至らなかつたが、刑部大輔参議江藤新平は、大いにこれが制定の急務を論じた。そこで、明治二年七月、官制改正、刑部省の設置とともに、新律の制定を命ぜられるに当り、先づ集議院に、この御下問を発したまうたのである。「刑ハ無刑ニ帰スルニ在リ」といふ簡単な御言葉の中に、優渥な大御心が拝せられる。

この優渥なる聖旨を奉じて、商議の結果、制定せられたのが、「新律綱領」六巻であつた。

 〔備考〕明治三年十二月二十日、「新律綱領頒布の上諭」謹解参照。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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