2017年11月1日水曜日

徳川慶喜・松平容保等を寛宥し給へる詔

(明治二年九月二十八日)


チンキク明君メイクントクモツシモヒキヒ、庸主ヨウシユハフモツヒトツ。オモフニ乱賊ランゾクツネラス、君徳クントク奈何イカンニアルノミ。イマ北疆ホクキヤウハジメタヒラキ、天下テンカホボサダマル。慶喜ヨシノブ容保カタモリ以下イカゴトキ、オノオノヨロシク寛宥クワンイウスルトコロアツテ、ミヅカラアラタニセシメ、モツ天下テンカ更張カウチヤウセン。


〔大意〕
朕が聞いてゐるところによれば、明君は、徳を修めて下の者を率ゐ、庸主は、法を厳しくして人を扱ふといふことである。思ふに、国を乱す悪人といふものがいつもあるわけではない。君に徳があるかどうかといふことにあるのみである。今は北の境の地方の乱も静まり、国中が大かたをさまつた。慶喜や容保やその外の者も、それぞれどうか寛大にしてやり、自分から心を改めさせて、さうして、天下の者がみな一しよに国の勢を盛にするやうにしよう。


〔史実〕
明治維新の直後、大義名分を誤つて叛臣となつた徳川慶喜・松平容保等は、既に寛刑の恩命に浴してゐる。徳川慶喜は、水戸に謹慎を命ぜられ、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮の処刑を受けた。然るに、蝦夷地に拠つて、最後まで抵抗をした榎本武揚等が降服して、天下の平定を見るに至り、重ねてこれらの叛臣を寛宥すべき旨仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。詔の中には、「乱賊常ニ有ラス、君徳奈何ニアルノミ」と仰せられてある。争乱の原因を君徳に帰したまうたのは、誠に恐懼に堪へぬことである。
   宥典録(明治二年「太政官日誌」百三より)
法律ハ国家之重事ニ候処、昨年犯逆之罪ニ於テハ、名義紊乱ノ後ヲ承ケ、政教未洽ミカフノ際ニツキ、聖上深ク御反躬被為在アラセラレ、専ラ非常寛典ニ被処シヨセラレ候次第、就テハ、今度深キ思食オボシメシヲ以テ、詔書之トホリ、更ニ被仰出オホセイダサレ候間、名義ヲ明ニシ、順逆ヲツマビラカニシ、反省自新、盛意ニ対膺タイオウ可致イタスベキ候事。
徳川慶喜
先般謹慎被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、被免メンゼラレ候事。
静岡藩知事 徳川家達
徳川慶喜儀、別紙之通被仰付オホセツケラレ候条、此段可相達アヒタツスベキ事。
飯野藩知事 保科正益
松平容保儀、先般城地被召上メシアゲラレ、父子永預ナガアヅケ被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下タテクダサレ候間、血脈之者相撰アヒエラビ可願出ネガヒイヅベキ事。
各通 鳥取藩知事 池田慶徳
   久留米藩知事 有馬頼威
松平容保儀、先般城地被召上メシアゲラレ、父子永預ナガアヅ被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下タテクダサレ候間、血脈之者相撰アヒエラビ可願出ネガヒイヅベキ被仰出オホセイダサレ候間、此段為心得ココロエノタメ相達アヒタツシ候事。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

1 件のコメント:

  1. 明治2年の宥典は、慶喜、容保、伊達慶邦らの元大名以上の偉い人達が恩恵を受けたようですが、明治3年4月まで函館で謹慎させられた凡そ500人の箱館戦争の静岡藩、仙台藩の降伏人達には適用されてない、と見えるが、いかがですか。またその理由をご教授ください。飯田、

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