2017年11月16日木曜日

廃藩置県の詔

(明治四年七月十四日)


チンオモフニ、更始カウシトキサイシ、ウチモツ億兆オクテウ保安ホアンシ、ソトモツ万国バンコク対峙タイヂセントホツセハ、ヨロシ名実メイジツ相副アヒソヒ、政令セイレイイツセシムヘシ。チンサキ諸藩シヨハン版籍ハンセキ奉還ホウクワン聴納チヤウナフシ、アラタ知藩事チハンジメイシ、オノオノ其職ソノシヨクホウセシム。シカルニ数百年スウヒヤクネン因襲インシフヒサシキ、アルヒ其名ソノナアリテ、其実ソノジツアガラサルモノアリ。ナニモツ億兆オクテウ保安ホアンシ、万国バンコク対峙タイヂスルヲンヤ。チンフカコレガイス。ヨツ今更イマサラハンハイケンス。ツトメジヨウカンキ、有名イウメイ無実ムジツヘイノゾキ、政令セイレイ多岐タキウレヒナカラシメントス。ナンヂ群臣グンシンチンタイセヨ。

更始カウシトキサイ 「すべてのことを改めて新にはじめる時に当つて」といふこと。「維新の際」といふに同じ。

万国バンコク対峙タイヂ 諸外国と対等の地位を保つこと。「対峙」は、「対立」と同じ。「むかひ合つて高く立つ」こと。楊炯の賦に曰ふ。「擘波心、而対峙。」

名実メイジツ相副アヒソ 名と実際とが一致すること。世の評判がよくなり、その世評のとほりに内容が充実することの意味。「名実」といふ語は、また「名誉と実功」の意味にも用ゐられ、「孟子」の告子章に、「夫子三卿の中に在リ、名実未ダ上下ニ加ハラズ。」とある。

政令セイレイイツセシム 「政府の命令がすべてみな同じところから出るやうにする」といふこと。一つの中央政府からすべての命令が発せられるやうにすることの意味。「政令」は、「政府の命令」であるが、また「政治上のおきて」といふ意味に用ゐて、憲法をはじめとし、すべての法律命令を総称することもある。

版籍ハンセキ奉還ホウクワン 諸侯が私有してゐた土地と人民を朝廷に還し奉ること。

聴納チヤウナフ その文字のとほり、「きき入れる」といふ意味の語である。「唐書」劉洎伝に曰ふ。「虚心聴納。」

知藩事チハンジ 諸侯が版籍を奉還した後、諸藩に置かれた官名。主として諸侯に旧領地を統治せしめられたもの。

因襲インシフヒサシ 「久しき因襲」といふに同じ。「ながくつづいてゐる習慣」といふこと。「因襲」は、従来のしきたりに従ふこと。「習慣」と同じ意味の語。劉歆の移譲太常博士書に曰ふ。「仲尼之道又絶エ、法度因襲スル所無シ。」

其名ソノナアリテ其実ソノジツアガラサル 後に出づる「有名無実」と同じ。一般にいはれてゐることが、実際には行はれてゐないこと。「名実相副ひ」の反対。名と実とが副はぬこと。版籍を奉還したとはいへ、旧藩主が知藩事となつて、その藩を統治してゐれば、実際は、もとのやうに版籍を私有してゐるのと同じことである。「その名ありてその実挙らざるもの」とは、これを仰せられたのであらう。

ジヨウカン 無駄なことを省いて簡単にする。

政令セイレイ多岐タキウレヒ 政府の命令が多方面から出る心配。各藩を知藩事が支配してゐるために、中央政府の命令が徹底せず、知藩事の命令と対立することもあることの意味。


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、すべての事を改めて新らしくはじめるに当り、内に於て万民を安らかにをさめ、外に於て諸外国と対等の地位を保つて行かうと思へば、先づ名と実際とが一致し、政府の命令がすべて同じところから出るやうにしなければならない。朕は、さきに諸藩が私有の土地や人民を奉還すると申して来たことをきき入れ、新らしく知藩事を任命し、それぞれその職につとめさせた。しかるに、数百年の久しい間つづいた習慣のために、ただ版籍を奉還したといふ名ばかりで、実際は、そのとほりに行はれず、もとの政治と変りのないものもある。それで、どうして、万民を安らかにし、諸外国と対等の地位を保つことが出来ようか。朕は、ふかくこれを慨いてゐる。よつて、今また藩を廃して県とすることにした。これは、出来るだけ、政治上の無駄を省いて簡単にし、名のみあつて実のないやうな悪い習慣を去り、政府の命令が多方面から出る心配のないやうにするためである。汝等多くの臣下の者も、朕がおもふところをよく心得ておくやうにせよ。


〔史実〕
明治二年六月、明治天皇は、諸藩の版籍奉還を聴許あらせられて、その旧藩主を各藩の知藩事に任じ、管内の政務を執らしめたまうたので、ここに全国の地方行政の統一が成り、府・藩・県の三治制度が布かれるに至つた。しかし、旧藩主が知藩事となり、旧藩の重臣がそれぞれの要職に就いてゐるこの制度では、ただ版籍を奉還したといふのみに過ぎず、知藩事と一般士民の間に、依然として主従の関係が残り、因襲的の情実を離れることが出来なかつた。従つて、封建制の名は滅びても、封建の実はなほ存在し、三治の一致を称すれども、全国統一の実は挙らなかつた。全国を統一して、中央政府の勢力を強化し、王政復古の精神を徹底せしめて、新政の基礎を固めるには、断然、藩を廃して県を置く必要があつた。廃藩置県を断行しなければ、画竜点睛の憾みあることは、つとに識者の認めるところであつたが、急にこれを実現すれば、諸藩の不平を誘発して、大乱を醸成するおそれもなしとせず、時機の到るを待つより外はなかつた。この大改革には、明治維新の大業の功労者として最も勢力を有する薩・長の二藩主が先づ同意しなければ、到底実現の可能性がないものと思はれた。しかるに、たまたま木戸孝允と大久保利通の意見が一致し、その頃藩政改革の意見を藩主に提出してゐた土佐の板垣退助もこれに賛同し、鳥尾小弥太こやた・野村靖・山県狂介(有朋)は、西郷隆盛を説いて、共に尽力を誓ふといふやうに、朝廷の重臣に支持者が多くなり、時機が漸く熟したのであつた。その結果、明治天皇には、明治四年七月十四日、在京の知藩事を召したまひ、廃藩置県を仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。かくして、一時に全国二百六十三藩の知藩事の職を解かれ、東京に移住せしめられた。この廃藩置県により、全国府県の数は、旧来の府県を合はせて、三府(東京・京都・大阪)・三百一県となつたが、同年(明治四年)十一月、府県の廃合が行はれて、三府・七十二県となつた。さうして、新に人材を抜擢して、府には府知事、県には県令を任命し、政務を掌らしめられたので、封建の餘習も全くここに消滅して、中央政府の威令が徹底し、郡県の制度が確立して、王政維新の実が挙るに至つた。
〔追記〕「岩倉公実記」に曰ふ。「是日コノヒ(明治四年七月十四日)具視トモミ外務卿ト為ルヲ以テ之ヲ外国公使ニ通報ス。英国公使(サー・ヘンリー・パークス)永歎シテ曰ク、藩ヲ廃シ県ヲ置クハ非常ノ英断ニ出ツ。誠ニ貴国ノ為ニ賀スヘシ。吾カ欧羅巴洲ニ於テ、カクノ如キ大事業ヲ成サント欲セハ、幾年カ兵馬ノ力ヲ用ウルニ非ラサレハ、其成功ヲ期スルコトアタハサルナリ、今マ貴皇帝ハ一紙ノ詔書ヲ以テ、二百餘藩ノ実権ヲ収復ス、宇宙間未曾有ノ盛事ナリ、貴皇帝ハ真神ノ能力ヲ有ス、決シテ人為ノ企テ及フ所ニ非ラサルナリ。」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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