2017年10月29日日曜日

供御を節して救恤に充て給へる詔

(明治二年八月二十五日)


チン登祚トウソ以降イカウ海内カイダイ多難タナン億兆オクテウイマ綏寧スヰネイセス。加之シカノミナラズ今歳コトシ淫雨インウノウガイシ、タミマサセイトグトコロナカラントス。チンフカク怵惕ジユツテキス。依而ヨツテミヅカ節倹セツケンスルトコロアツテ、モツ救恤キウジユツアテントス。主者シユシヤ施行シカウセヨ。

登祚トウソ 「登極」と同じ。御即位のこと。「南史」謝霊運伝に曰ふ。「大祖登祚。」

綏寧スヰネイ 「綏安」と同じ。「やすらか」「やすんずる」といふ意味の語。司馬光の詩に曰ふ。「疲俗待綏寧。」

淫雨インウ 「霖雨」と同じ。なが雨。「礼記」の月令に曰ふ。「天、沈陰多ク、淫雨早ク降ル。」

怵惕ジユツテキ 「おそれて心の安らかならぬ」こと。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「皆ナ怵惕惻隠之心有リ。」

救恤キウジユツ 「すくひあはれむ」といふ意味の文字である。「あはれな者を救ひ助ける」ことをいふ。「救済」「救助」と同じ。


〔史実〕
明治元年・二年は、各地に水害が多く、農民が大いなる苦痛を蒙り、農村の疲弊が甚しかつた。これをきこしめされた明治天皇には、明治二年八月二十五日、ここに謹載した詔を賜はり、恐れ多くも、御みづから諸般の節約を行はせられて、窮民の救恤を仰せ出されたのであつた。

恐懼感激した政府は、同日左のとほりに布告した。
詔書被仰出オホセイダサレトホリ、兵馬之後、庶民未タ安堵ニ至ラサル折柄、当年諸道不作、物価日増ヒマシニ騰貴、無告之窮民ハ勿論、一同之難渋差迫リ、殊更東京ハ近来衰微之ミギリ、人口ハ従前之トホリ莫大ニテ、遊民モツトモ多ク、漸次産業ニ基クヘキ御施法モ、未タ行届カセラレサル中、今日ノ姿ニ相成アヒナリ、且又京都ニ於テハ、即今御留守ト相成アヒナリ、自然職業ヲ失ヒ、困窮ニ立至リ候者モ不少スクナカラズ、全ク時勢之変遷、無拠ヨンドコロナキ次第トハマヲシナカラ、必至難渋、彼是カレコレ以テフカク被為悩シンキンヲ宸襟ナヤマセラレ、格別之御節倹被遊アソバサレ、既ニ餔饌ホセン供給ヲモ御減少被為在アラセラレ、窮民御扶助被遊アソバサレ候、就而ツイテ於諸官シヨクワンニオイテモ、官禄之内ヲ以テ、救恤ニ被充アテラレヤウ願出候段、神妙之儀ニ被聞食キコシメラレ候、右ハ御不本意ニ被為在アラセラレ候得共サフラヘドモ、願之趣、至誠貫通セサルモ御残念ニ被思食オボシメラレ、当年之所、夫々減少返上之儀、御許容相成アヒナリ、両京救荒ニ可宛行アテユクベキ旨御沙汰候事。
タダシ救荒ハ、一時之変ニ処スル事ニテ、総而ソウジテ遊手徒食之者無之コレナキ様仕法タテモツトモ可為急務キフムトナスベキ事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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