(明治二年五月二十一日)
皇道興隆の件
我皇国、天神天祖極ヲ立、基ヲ開キ給ヒシヨリ、列聖相承、天工ニ代リ、天職ヲ治メ、祭政維一、上下同心、治教上ニ明ニシテ、風俗下ニ美シク、皇道昭昭、万国ニ卓越ス。然ルニ中世以降、人心渝薄、外教コレニ乗シ、皇道ノ陵夷、終ニ近時ノ甚キニ至ル。天運循環、今日維新ノ時ニ及ヘリ。然レトモ紀綱未タ恢張セス、治教未タ浹洽ナラス。是皇道ノ昭昭ナラサルニ由ル所ト、深ク御苦慮被為遊、今度祭政一致、天祖以来固有ノ皇道復興被為在、億兆ノ蒼生、報本反始ノ義ヲ重シ、敢テ外誘ニ蠱惑セラレス、方嚮一定、治教浹洽候様、被為遊度思食候。其施為ノ方、各意見無忌憚可申出候事。
知藩事被任の件
版籍返上ノ儀、追追衆議被聞食候処、全ク政令一途ニ出ルノ外無之。依テ府藩県三治ノ制ヲ以テ、海内統一可被遊御旨趣ニ付、改テ知藩事ニ被任候思召ニ候間、所存無忌憚可申出候事。
蝦夷開拓の件
蝦夷地ノ儀ハ、皇国ノ北門、直ニ山丹満洲ニ接シ、経界粗定トイヘトモ、北部ニ至テハ、中外雑居致候処、是迄官吏ノ土人ヲ使役スル、甚苛酷ヲ極メ、外国人ハ頗ル愛恤ヲ施シ候ヨリ、土人往往我邦人ヲ怨離シ、彼ヲ尊信スルニ至ル。一旦民苦ヲ救フヲ名トシ、土人ヲ煽動スル者有之時ハ、其禍忽チ函館松前ニ延及スルハ必然ニテ、禍ヲ未然ニ防クハ、方今ノ要務ニ候間、函館平定ノ上ハ、速ニ開拓教導等ノ方法ヲ施設シ、人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付、利害得失、各意見無忌憚可申出候事。
○天神天祖 皇室の遠い御先祖にまします神々や天皇を仰せられたものと拝する。「天神」は、「あまつかみ」であり、「天祖」は、「あまつみおや」である。「天祖」は、「皇祖」と同じく、天照大神のことを申上げ奉る語となつてゐる。しかし、「天神天祖」とあるから、「天神」は、天照大神をはじめ奉る天にまします多くの神々、「天祖」は、神武天皇その他の天皇の御意かと拝せられる。
○極ヲ立 皇位の基をお定めなされたこと。「極」は、「きはみ」即ち「はて」といふ意味から、種々の意味に転用せられてゐて、用例が非常に広い。「皇極」「埤極」の如く、最も大いなる正しき道即ち大中至正の公道を意味する語ともなり、「易経」繫辞伝にいふ「三極之道」
(天・地・人の三才)の如く、最上の原理を意味する語ともなり、「北極星」「南極星」の如く、星の名ともなつてゐる。和漢ともに、
夙くから皇位の意味に用ゐられ、崇神天皇の詔には、「
我が
皇祖・
諸天皇等、
宸極を
光臨すことは、
豈一身の
為ならむや。」とあり、唐の呉兢の「貞観政要」には、「登極ヨリ以来、大事三数件。」とある。「論語」の為政篇に、「
譬ヘバ北辰ノ其ノ所ニ居テ、衆星ノ之ニ
共フガ如シ。」とあるやうに、北極星
(北辰)が衆星の中心に在るといふところから、これが天子の象を意味する語となつたのであらう。「極を立て」は、「道徳の大本を立てる」といふ意味に用ゐられることもある。「書経」の洪範に曰ふ。「皇ハ其ノ有極ヲ建ツ。」しかし、ここに「極」とあるのは、前述の如く、皇位の御意に拝せられる。
○基ヲ開キ 国の基をはじめてお開きなされること。「肇国」と同じ。
○天工ニ代リ 神々の御事業を神に代つて成し遂げたまふこと。「天工」は、「人工」に対する語である。「天造」または「神造」と同じ。造物者のつくり上げたもの。自然に成れるもの。陸倕の新漏刻銘に、「神道無跡、天工罕代。」とあり、趙孟頫の放煙火詩に、「人工巧藝奪天工。」とある。
○天職ヲ治メ 「天から賜はつたつとめをはたす」といふ意味の語。尊い天皇の御地位にあらせられて、国家を統治したまふ御事の意味に拝する。
○祭政維一 「祭政一致」と同じ。神を祭ることと政治の道とが一致してゐること。
○皇道昭昭 「皇国の大道が最も明らかである」といふこと。「昭昭」は、最も明らかなる貌をいふ語である。「韓詩外伝」に、「昭昭乎若日月之光明。」とある。
○万国ニ卓越ス 「世界中のどの国よりもすぐれてゐる」といふこと。「卓越」は、一つのものが他のもの以上にすぐれてゐることを意味する語である。「晋書」に曰ふ。「州郡ニ貢薦之挙アリ、猶ホ未ダ出羣卓越之人ヲ獲ズ。」
○中世以降 中世このかた。「中世」は、政権が武門に帰してから七八百年の間をいふ。
○人心渝薄 「人の心がかはつて軽薄になる」こと。
○外教コレニ乗シ 「外国の宗教が軽薄になつた人の心につけ込んで入り来る」こと。「外教」といふ場合の「教」は、多く宗教をいふ。古来、外教といへば、キリスト教を指すことが多い。
○陵夷 「だんだん衰へる」こと。「陵」は「丘」である。丘が次第に平かになつてゐることに喩へ、盛であつたものが次第に衰へることを「陵夷」といふ。「漢書」成帝紀に曰ふ。「帝王之道、日ニ以テ陵夷ス。」
○天運循環 「自然に時節がめぐつて来る」こと。「循環」は、「めぐるたまき」である。「たまき」が端のないやうに、いく度も窮りなく反復するものを喩へて、この「循環」の語を用ゐてゐる。「史記」の高祖紀賛に曰ふ。「三王之道ハ、循環スルガ若ク、終リテ復タ始ム。」
○浹洽ナラス 「十分に行きわたらない」といふこと、「浹」は「うるほす」であり、「洽」は「あまねし」である。水がものをうるほすやうに、あまねく行きわたることを、「浹洽」といふ。「漢書」礼楽志に、「是ニ於テ教化浹洽シ、民用テ和睦ス。」とある。
○億兆ノ蒼生 「多くの民」といふに同じ。「蒼生」は、古語の「あをひとぐさ」である。「百姓」と同じく、万民をいふ。多くの民を蒼々として衆き草木に喩へた語である。「書経」の益稷に、「海隅ニ至ルマデ蒼キモノ生ズ。」とあり、「晋書」には、「安石出デズンバ、天下蒼生ヲ如何セン。」とある。「億兆」は極めて多い数の名称である。無限の数を意味する語として用ゐられ、またこれだけでも、万民を意味する語となつてゐる。
○報本反始 本に報い始に反る。先人の創業を偲んで、その恩に報いることの意味。「礼記」に曰ふ。「社ニハ粢盛ヲ供ス、本ニ報イ始メニ反ル所以ナリ。」
○蠱惑 「まどふ」こと、または「たぶらかされる」こと。「蠱」は、虫の名であるが、虫害を受ける器といふ意味に転用せられ、更に害毒を意味する語となり、その外にも種々の用例を生じてゐる。
○版籍返上 私有してゐた土地とその土地に住する人民を、朝廷にお返しすること。「版籍」の「版」は版図、「籍」は戸籍である。土地と人民とを併称する語として用ゐられてゐる。「唐書」揚炎伝に曰ふ。「賦ハ斂ヲ加ヘズシテ入ヲ増シ、版籍造ラズ、而シテ其ノ虚実ヲ得、吏誠ナラズシテ姦取ル所無シ。」
○山丹満洲 共に地名。
○中外雑居 「内地人と外国人とがまじつて住んでゐる」こと。「中外」は、「内外」と同じ。国内と外国とを綜括していふ語。ここは、次に「雑居」とあるから、内地人と外国人の意味に拝せられる。
○苛酷 「きびしくむごい」といふ語義。厳酷・残酷と同じ。「後漢書」王常伝に曰ふ。「政令苛酷、百姓之心ヲ失フ。」
○怨離 うらみはなれる。「うらみを抱いて人心が離れて行く」こと。
○煽動 人をおだてて事を起さしめること。
○必然 必ずさうあるべきことをいふ。
○禍ヲ未然ニ防ク 禍が未だ起らない中に防ぐ。
○開拓 未墾の土地を開いて耕地とすること。転じて、新らしき文化を創造する意味にも用ゐられる。
〔大意〕
この御下問は、皇道興隆の件・知藩事被任の件・蝦夷開拓の件の三件に分れてゐる。大要を次に謹約する。
〔皇道興隆の件〕我が皇国は、皇祖が皇位を定め国の基をひらきたまうてから、御歴代の天皇が、その大御心を承けつがせられて、この国を治めたまひ、祭政一致、上下同心、皇道昭々、世界中の各国に卓越してゐる。然るに、中世このかた、人心が軽薄になつたところへつけ込んで、外来の宗教が入り来り、皇道がだんだんおとろへ、近時、最も甚しくなつたが、時節がめぐつて来て、今日の維新となつた。しかし、まだ国の政治が充分に行はれてゐないのを、深く御心配あそばされ、今度、皇祖以来伝はつてゐる皇道を復興あそばされて、万民が報本反始の義を重んじて、外教にまどはされぬやうにする方針を定めたまふおぼしめしであらせられるから、その方法について、忌憚なき意見を申し出ること。
〔知藩事被任の件〕版籍(土地・人民)返上の儀を御聞き入れになり、政令が一途に出るやうに、府・藩・県三治の制によつて海内を統一あそばされる御旨趣で、改めて知藩事を御任命のおぼしめしであるから、忌憚なき所存を申し出ること。
〔蝦夷地開拓の件〕蝦夷地は、我が国の北門に当り、外国と地続きになつてゐる。堺もほぼ定まつてゐるが、北部には、内地人と外国人が雑居し、これまで我が官吏が甚だ苛酷に土人を使役してゐたのに反し、外国人は、頗る愛恤につとめた。それがために、土人は、邦人を怨んで離れ、外国人を尊信するやうになつた。若し土人を煽動する者があつたら、その禍が忽ち函館や松前まで及んで来ることが明らかである。禍の起らない前にこれを防ぐは、今日最も大切なことであるから、函館平定の上は、速に開拓教導等の方法を施し、人民の繁栄をはかりたまふおぼしめしである。それらの利害得失についても、忌憚なき意見を申し出ること。
〔史実〕
明治天皇には、明治二年五月二十一日、上局会議を開かせたまひ、行政官・六官・学校・待詔局・府県の五等官以上及び親王・公卿・麝香間祇候諸侯に、皇道興隆・知藩事新置・蝦夷地開拓の三条を御下問あらせられた。ここに謹載したのが、その御下問書である。これは、本文を拝誦すれば、おのづから明らかであるが、政府が勅旨を伝達した形式になつてゐる。当時は、かうした形式の御下問書が、外にもまだ少くなかつた。
版籍の返上といふことは、明治維新の大業の完遂に最も重要な問題であつた。徳川幕府が政権を奉還しても、天下の諸侯が、従前のとほりに、土地・人民を私有してゐては、統一的な新政治が行はれないからである。しかし、事甚だ重大であり、容易に実現すべき性質の問題ではなかつた。
明治元年
(慶応四年)四月、徳川慶喜が恭順した後、幕府の領土を収めて、悉く朝廷の直轄地となし、新に慶喜の継嗣となつた家達を駿府
(静岡)に封ぜられたが、同年閏四月、官制を改革し、旧来の朝廷の直轄地と新に収めた幕府の旧領土とを分ちて府・県とし、府に知府事・県に知事を置いて、これを治めしめた。かくして、従来、幕府の支配を受けてゐた諸侯は、朝廷に直属してその命を奉ずるに至つたが、なほ依然として土地・人民を私有してゐた。従つて、全国統一の政治を施行することが出来ず、諸藩の政治は、従前の如く、これを藩主に一任した。当時、全国には、二百七十三の藩が存在してゐた。前述の府・県とこの二百七十三藩の行政を、地方三治と称した。
速に全国統一の政治を施行しなければ、一度成れる維新の大業も、忽ち蹉跌のおそれあることを看破した総裁局顧問木戸孝允は、明治元年二月、先づ岩倉具視・三条実美に建言し、次いで自ら山口に帰り、長州藩老侯毛利敬親に説いて、版籍返上の決意を促した。また大久保利通も同じく薩州藩主を説いた。かくして、薩・長二藩主の意が決し、更に土・肥二藩主がこれに応じ、明治二年正月二十三日、薩州侯島津忠義・長州侯毛利敬親・肥州侯鍋島直正・土州侯山内豊範の連名を以て、版籍奉還の請願を上奏した。王政復古の元勲たる四藩が建議した以上、他の諸藩も躊躇することは出来ず、忽ちこれに傚つて、版籍の奉還を奏請する者が、二百有餘藩の多きに及んだ。
明治天皇には、二月二十四日、優詔して諸藩の忠誠を
嘉みせられ、五月二十一日開会の上局会議に、前に謹載したやうに、勅問したまうたのである。かくして、版籍返上の廟議がほぼ決定し、六月十七日、各藩の奏請を御聴許あり、未だ奏請せざる者には、特に諭して奉還せしめられ、前田
慶寧・島津忠義以下二百六十人を知藩事に任命したまうた。知藩事は、藩内の社祠戸口名籍を知とり、士民を字養し教化を布き、風俗を敦くし、租税を収め、賦役を督し、賞刑を判ち、僧尼の名籍を知とり、兼て藩兵を管する事を掌るといふのが、当時の官制の大要であつた。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)