2017年10月31日火曜日

新刑律選定に関して集議院に下し給へる御下問

(明治二年九月二日)


ワガ大八洲オホヤシマ國體コクタイ創立サウリツスル、邃古スヰコオイ不論ロンゼズ神武ジンム以降イカウ二千年ニセンネン寛恕クワンジヨマツリゴトモツシモヒキヰ、忠厚チユウコウゾクモツカミホウス。大宝タイハウオヨンテ、唐令タウレイ折衷セツチユウストイヘドモ、其律ソノリツホドコスニイタツテハ、ツネ定律テイリツヨリクワンニス。其間ソノアヒダマツリゴト汙隆ヲリユウトキ治乱チランナキニアラサルモ、大率オホムネ光被クワウヒトク外蕃グワイバンオヨフ。保元ハウゲン以降イカウ乾綱ケンカウチユウキ、武臣ブシンケンモツパラニシ、法律ハフリツモツマツリゴトシ、刀鋸タウキヨモツシモヒキユ。寛恕クワンジヨ忠厚チユウコウフウツヒハラフ。イマ太政タイセイ更始カウシヨロシイニシヘカンガヘ、イマアキラカニシ、寛恕クワンジヨマツリゴトシタガヒ、忠厚チユウコウゾクフクシ、万民バンミントコロテ、国威コクヰハジメフルフヘシ。頃者コノコロ刑部ギヤウブ新律シンリツ選定センテイスルノトキヨツ茲旨コノムネタイシ、オヨソ八虐ハチギヤク故殺コサツ強盗ガウタウ放火ハウクワトウホカ異常イジヤウハフヲカスニアラサルヨリハ、大抵タイテイ寛恕クワンジヨモツ以下イカバツシヨセシメントス。ソモソモケイハ、無刑ムケイスルニリ。シユウソレ商議シヤウギシテ、モツ上聞ジヤウブンセヨ。

ワガ大八洲オホヤシマ國體コクタイ 我が大日本帝国の國體。「大八洲」は、古くから我が国の別名となつてゐる。「國體」は、国家成立の精神やその体制を総括的にいふ語。

邃古スヰコ 「太古」と同じ。おほむかし。蔡邕の文に曰ふ。「邃古ヲ仰ギ、昆後ヲ輝ス。」

寛恕クワンジヨマツリゴト 深い御仁愛の大御心をもつて、万民を治めたまふ御政治をいふ。「寛恕」は、「心が広く思ひやりのある」ことを意味する語。「後漢書」魏覇伝に曰ふ。「簡朴寛恕ヲ以テ、政ヲ為ス。」

忠厚チユウコウゾク 忠義の心の厚い習はし。「忠厚」の文字は、「忠信篤厚」即ち「まめやかにして厚き心」の意味に用ゐられることもある。

大宝タイハウ 文武天皇の御代の年号。この大宝年間に、有名な「大宝律令」が出来上つた。

唐令タウレイ折衷セツチユウ 「唐の法令のよいところを採り入れて、我が法令の缺陥を補ふ」といふこと。

リツ 昔は、国法を「律」と「令」とに分け、刑罰の制を記したもの、即ち今日の刑法に当るものを「律」といひ、その他の法令を「令」と称した。

マツリゴト汙隆ヲリユウ 政の衰へた時と盛な時。「汙隆」は、「盛衰」「隆替」と同じ。庾信の詩に曰ふ。「馳輸有盈缺、入道亦汙隆。」

光被クワウヒトク 広く世をおほふところの徳。「光被」は「あまねく世に及ぶ」といふ意味の文字である。広大無辺の徳をいふ場合に用ゐられることが多い。「書経」の堯典に曰ふ。「四表ヲ光被シ、上下ニイタル。」

外蕃グワイバン 「外国」といふに同じ。「蕃」は「えびす」である。未開の国を意味してゐる。「外蕃」は、外国を侮つていふ語として多く用ゐられる。

保元ハウゲン以降イカウ 保元この方。保元は、後白河天皇の御代の年号である。この時代には、史上に有名な保元の乱が起つた。

乾綱ケンカウチユウ 大権が天皇から離れて、世の中が乱れること。「乾綱」は、「天ののり」「帝王のおほづな」といふ字義から、「王綱」「帝綱」と同じく、君主の大権を意味する語となつてゐる。「晋書」華譚伝に、「聖人之天下ニ臨ム、乾綱ニノツトリ以テ化ヲヒロメ、谷風ニ順ヒ以テ仁ヲ興ス。」とある。「解紐」は、「結んだ紐が解ける」といふことから、政治の乱れることの喩となつてゐる。干宝の「晋紀総論」に、「名実反錯、天綱解紐。」とある。

刀鋸タウキヨモツシモヒキ 刑罰を厳しくして民を服従させること。「刀鋸」は、その文字の如く、かたなのこぎりである。昔、支那では、「割」即ち勢を割く刑に刀を用ゐ、げつ即ち足を斬る刑に鋸を用ゐたので、「刀鋸」の文字が刑罰の意味に転用せられるやうになつたのである。司馬遷の報任安書に曰ふ。「奈何イカニシテ刀鋸之餘ヲシテ天下豪傑ニ薦メシメン。」韓愈の送李愿帰盤谷序に曰ふ。「刀鋸加ヘズ、理乱知ラズ。」

ハラ 「地を掃き清める」といふことから、「残るところなく尽きはててしまふ」ことの意味に転用せられてゐる語。「漢書」魏豹伝の賛に曰ふ。「秦六国ヲ滅シ、而シテ上古之遺烈、地ヲ掃ヒテ尽ク矣。」

刑部ギヤウブ 刑部省のこと。明治二年七月の官制改定によつて置かれた六省の一。獄を断じ、刑名を定め、疑獄を決することを、所管事務とした。

八虐ハチギヤク故殺コサツ強盗ガウタウ放火ハウクワ 何れもみな古来伝はれる罪名である。「八虐」は、罪の極めて重きもの。「大宝律」に於ては、謀反ぼうはん謀大逆ぼうたいぎやく謀叛むほん・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義を八虐とした。「故殺」は、故意に人を死に至らしめた罪。

異常イジヤウハフ 正常の法律と異なる特殊の法。

寛恕クワンジヨ 心をひろくして思ひやりを深くするといふ意味の文字。

 流罪のこと。

無刑ムケイスル 刑罰を無しにすること。刑罰を加へる必要がないやうに、民を善導するといふ意味。

商議シヤウギ はかり定めること即ち相談をすること。


〔大意〕
謹約。「神武天皇以後二千年の間は、寛大な思ひやりの深い御政治をなされて、万民をお治めになり、万民も厚い忠義の心を捧げて、天皇にお仕へ申しあげた。大宝(文武天皇の御代)になつてから、唐の法律や制度を折衷せられたが、刑の施行は、定められた法文よりもなほ寛大であつた。保元(後白河天皇の御代)以後は、世が乱れて、武家が政権を握り、刑罰を厳しくしたので、昔の美風が全く消え失せた。今、大政を一新するに当り、再び古の美風にかへし、万民が安心して生活し得るやうにしなければならない。刑部省が新らしい刑法を定めるに当つては、よくこのことを心得、非常な重罪にあらざる限り、流以下の寛大な罰に処するやうにさせたいと思ふ。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治二年九月二日、新刑律の選定について、集議院に御下問あらせられた詔である。

明治元年十月、新政府に於ては、仮に幕府の旧法を改めて、死・流・徒・笞の四刑を定めた。さうして、刑罰をやや寛大にし、梟首を以て火刑に代へ、徒刑を以て追放に代へ、大逆に非ざれば磔刑に処せず、死刑は、すべて勅許を得て行ふこととした。当時、未だ俄かに新刑法を定めるに至らなかつたが、刑部大輔参議江藤新平は、大いにこれが制定の急務を論じた。そこで、明治二年七月、官制改正、刑部省の設置とともに、新律の制定を命ぜられるに当り、先づ集議院に、この御下問を発したまうたのである。「刑ハ無刑ニ帰スルニ在リ」といふ簡単な御言葉の中に、優渥な大御心が拝せられる。

この優渥なる聖旨を奉じて、商議の結果、制定せられたのが、「新律綱領」六巻であつた。

 〔備考〕明治三年十二月二十日、「新律綱領頒布の上諭」謹解参照。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月30日月曜日

贋金処分に関して集議院に下し給へる御下問

(明治二年九月二日)


贋金ガンキン天下テンカ蔓延マンエンス。シバシバ厳禁ゲンキンアレトモ、イマコレシヨスルハウス。クワンアルヒ真貨シンクワモツ引替ヒキカヘ換ンカ、コレカンヒラアクヲシフルナリ。アルヒコトゴトコレハイセンカ、其種ソノシユハナハダオホシ。美悪ビアク並廃ヘイハイス、オイオコナハレシ。アルヒ其質ソノシツセキシ、元估ゲンコモツコレハンカ、是稍コレヤヤ人情ニンジヤウチカキモ、ヨク其方ソノハウスンハ、カヘツ怨謗ヱンバウマネカン。ソレ貨幣クワヘイ流通リウツウハ、国家コクカヨツヤスンスルトコロナリ。シカルニ上下シヤウカ困弊コンペイ如此カクノゴトシ加之シカノミナラズ互市ゴシサイ紛紜フンウンナキコトアタハス。ソノ皇威クワウヰソンスルマタスクナカラス。方今ハウコンナンサクコレスクヒ、公私コウシ両便リヤウベンン。ヨロシク商議シヤウギシテモツ上聞ジヤウブンセヨ。

贋金ガンキン にせがね。贋造貨幣のこと。

真貨シンクワ 正しい貨幣。

シツセキ その内容を計り分ける。貨幣に含まれてゐる金属を分析して成分を明らかにすること。

元估ゲンコ 「元価」と同じ。もとね。「估」は、「あたひ」(価)「うる」(売)「かふ」(買)等の意味を有する文字である。

怨謗ヱンバウ その文字のとほり、「うらみそしる」こと。「漢書」五行志に、「怨謗之気、歌謡ニ発ス。」とある。

互市ゴシ 国と国との貿易をいふ。「後漢書」の烏恒伝に、「歳時互市」といふ語があり、唐代には、互市監と称する役所が設けられ、外国との貿易事務を掌つた。故に、この「互市」は、古くから外国貿易の意味に用ゐられた語である。

紛紜フンウン ものの乱れるありさまや、盛なるありさまをいふ語である。事件がもつれて解決が出来ない場合に、この語が多く用ゐられる。

商議シヤウギ 「互に相談しあつて謀を練る」ことをいふ。


〔大意〕
にせ金が国中にはびこりひろがつてゐる。たびたび厳しく禁じてあるが、まだこれを処分する法が立たない。政府に於て、正しい貨幣と引きかへることにすれば、不都合なことをする智慧をつけ、悪いことををしへるやうになる。悉くこれを廃してしまふには、その種類が甚だ多く、またよいものも悪いものも、一しよに廃するといふことが、道理から考へても行はれない。貨幣の地金をはかつて、元値もとねで買ふのは、やや人情に近いが、その方法がよくないと、かへつて怨みを抱かせて非難を招くであらう。貨幣の流通によつて、国家は安定するものである。しかるに、上も下もかやうに困つてゐるのみならず、外国と貿易をするにも、かれこれと面倒なことが起つて来る。皇国の威光を損することもまた少くない。今の場合に、どういふ方法によれば、この弊をすくひ、政府も万民も、双方便利を得ることが出来ようか。よろしく互に相談して謀り、その結果を上聞せよ。


〔史実〕
江戸時代の貨幣制度は、頗る紊乱してゐた。徳川幕府が初期に鋳造した所謂慶長判は、その品質も比類なく良いものであつたが、太平の世がつづいて、奢侈の風を生じ、国帑こくどが窮乏するに従ひ、改鋳し新鋳する毎に、貨幣の質が劣悪になつた。徳川吉宗が将軍職を継ぐに至つて、弊政の改革を断行し、貨幣の如きも、慶長判と殆ど優劣なき享保判を新鋳した。しかし、積年の弊風は、容易に除却し難く、吉宗の薨去後、忽ち改鋳が行はれて、品質がますます劣悪となつて行つた。しかも、幕府は、貨幣の改鋳を以て、一種の財源となし、国帑の窮乏を感ずる毎に、劣悪な貨幣を鋳造し、在来の良貨と交換し、その差額を以て益金とした。全国の諸藩の中にも、久しき太平にれ、驕奢に耽り、財用の不足に苦しんでゐるものが多かつたが、幕末の風雲が険悪を告げるに至つては、兵器を整へ、軍隊を練り、非常に備へる必要を生じて来た。窮餘の策として、藩札を発行し、一時を弥縫するの計を立てたのみならず、幕府の威令が漸く衰ふるに及び、貨幣の偽造・贋造を企てて、急を救ふものも少くなかつた。

かやうな乱脈な状態にあつたので、明治維新の当時、我が国に流通してゐた貨幣は、その種類が甚だ多く、鋳造貨幣に金貨・銀貨をはじめとして、銅・真鍮・鉄等の諸銭があり、紙幣に金札・銀札・米札・銭札・永札・傘札・紐絲札・轆轤札等があり、幕府の発行したものと諸藩の発行したのとを合算すると、一千六百九十四種の多きに達してゐた。

幣制が政治の基礎となることは、古今東西を通じて変らない。これらの貨幣を整理して、新らしき幣制を確立することは、明治新政府の基礎を固めるに、極めて重要な急務であつた。明治元年(慶応四年)四月、政府は、先づ太政官札を発行し、明治二年三月、参与大隈八太郎(重信)の建議により、新に金貨・銀貨・銅貨を鋳造することに決した。しかるに、徳川幕府は滅びても、なほ旧貨幣は依然として通用したのみならず、太政官鋳造の貨幣を嫌悪し、諸藩の偽造貨幣を喜ぶといふやうな傾向さへもあつた。

この贋金の処分について、宸襟を悩ませたまうた明治天皇には、畏くも、明治二年九月二日、ここに謹載した詔を賜はり、その対策を御諮詢あらせられたのであつた


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月29日日曜日

供御を節して救恤に充て給へる詔

(明治二年八月二十五日)


チン登祚トウソ以降イカウ海内カイダイ多難タナン億兆オクテウイマ綏寧スヰネイセス。加之シカノミナラズ今歳コトシ淫雨インウノウガイシ、タミマサセイトグトコロナカラントス。チンフカク怵惕ジユツテキス。依而ヨツテミヅカ節倹セツケンスルトコロアツテ、モツ救恤キウジユツアテントス。主者シユシヤ施行シカウセヨ。

登祚トウソ 「登極」と同じ。御即位のこと。「南史」謝霊運伝に曰ふ。「大祖登祚。」

綏寧スヰネイ 「綏安」と同じ。「やすらか」「やすんずる」といふ意味の語。司馬光の詩に曰ふ。「疲俗待綏寧。」

淫雨インウ 「霖雨」と同じ。なが雨。「礼記」の月令に曰ふ。「天、沈陰多ク、淫雨早ク降ル。」

怵惕ジユツテキ 「おそれて心の安らかならぬ」こと。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「皆ナ怵惕惻隠之心有リ。」

救恤キウジユツ 「すくひあはれむ」といふ意味の文字である。「あはれな者を救ひ助ける」ことをいふ。「救済」「救助」と同じ。


〔史実〕
明治元年・二年は、各地に水害が多く、農民が大いなる苦痛を蒙り、農村の疲弊が甚しかつた。これをきこしめされた明治天皇には、明治二年八月二十五日、ここに謹載した詔を賜はり、恐れ多くも、御みづから諸般の節約を行はせられて、窮民の救恤を仰せ出されたのであつた。

恐懼感激した政府は、同日左のとほりに布告した。
詔書被仰出オホセイダサレトホリ、兵馬之後、庶民未タ安堵ニ至ラサル折柄、当年諸道不作、物価日増ヒマシニ騰貴、無告之窮民ハ勿論、一同之難渋差迫リ、殊更東京ハ近来衰微之ミギリ、人口ハ従前之トホリ莫大ニテ、遊民モツトモ多ク、漸次産業ニ基クヘキ御施法モ、未タ行届カセラレサル中、今日ノ姿ニ相成アヒナリ、且又京都ニ於テハ、即今御留守ト相成アヒナリ、自然職業ヲ失ヒ、困窮ニ立至リ候者モ不少スクナカラズ、全ク時勢之変遷、無拠ヨンドコロナキ次第トハマヲシナカラ、必至難渋、彼是カレコレ以テフカク被為悩シンキンヲ宸襟ナヤマセラレ、格別之御節倹被遊アソバサレ、既ニ餔饌ホセン供給ヲモ御減少被為在アラセラレ、窮民御扶助被遊アソバサレ候、就而ツイテ於諸官シヨクワンニオイテモ、官禄之内ヲ以テ、救恤ニ被充アテラレヤウ願出候段、神妙之儀ニ被聞食キコシメラレ候、右ハ御不本意ニ被為在アラセラレ候得共サフラヘドモ、願之趣、至誠貫通セサルモ御残念ニ被思食オボシメラレ、当年之所、夫々減少返上之儀、御許容相成アヒナリ、両京救荒ニ可宛行アテユクベキ旨御沙汰候事。
タダシ救荒ハ、一時之変ニ処スル事ニテ、総而ソウジテ遊手徒食之者無之コレナキ様仕法タテモツトモ可為急務キフムトナスベキ事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月28日土曜日

鍋島直正に蝦夷開拓を命じ給へる勅

(明治二年六月四日)


蝦夷エゾ開拓カイタクハ、皇威クワウヰ隆替リユウタイクワンスルトコロ一日イチジツユルガセニスベカラス。ナンヂ直正ナホマサフカ国家コクカオモキニナヒ、モツコレニンセンコトヲフ。ソノ憂国イウコク済民サイミン至情シジヤウチン嘉納カナフヘス。ヒトリオソル、ナンヂ高年カウネンニハカ殊方シユハウオモムクコトヲ。シカレトモチンコレナンヂス。ハジメ北顧ホクコウレヒナカラン。ヨツ督務トクムメイス。他日タジツ皇威クワウヰ北疆ホクキヤウノブル、ナンヂ方寸ハウスンアヒダニアルノミ。ナンヂ直正ナホマサ懋哉ツトメヨヤ

皇威クワウヰ隆替リユウタイ 「天皇の御威光が盛になると衰へると」といふこと。「隆替」は、「盛衰」と同じ。

憂国イウコク済民サイミン 「国事を憂ひ、民の苦しみを助けすくふ」こと。「済民」は、その文字のとほり「民をすくふ」ことである。「書経」に曰ふ。「ネガハクハワレタスケテ、以テ兆民ヲスクフヲ。」

嘉納カナフヘス この上もなく喜んで承諾する。「嘉納」は、その文字のとほり、「よみしてうけいれる」ことである。言をうけいれる場合にも、物をうけいれる場合にも、この語が用ゐられる。「後漢書」朱暉伝に曰ふ。「便宜ヲ上リ、密事ヲ陳ベ、嘉納ヲ深見ス。」

殊方シユハウ 「異境」と同じ。異なる土地。人情や風俗や気候の異なる遠方の国をいふ。班固の賦に曰ふ。「殊方異類、至于三万里。」

北顧ホクコウレヒ 北の方をかへりみる心配。ここにある「北顧」は、北海道に関する御考慮である。

督務トクム 「その事業を監督する任務」といふ意味の文字であるが、ここに仰せられてあるのは、蝦夷開拓の職名。

北疆ホクキヤウ 「北辺」「北境」と同じ。北方のさかひ。

方寸ハウスンアヒダ 「胸のうち」といふに同じ。「方寸」は、一寸四方の面積といふ意味から、転じて「心」を意味する語となつてゐる。「列子」の仲尼篇に曰ふ。「吾子之心ヲ見ル矣、方寸之地ハ虛矣、幾ド聖人也。」

懋哉ツトメヨヤ 「勉めよや」と同じ。


〔史実〕
今の北海道は、もと蝦夷島えぞがしまと称し、松前氏の領地に属してゐた。徳川幕府は、久しい間、殆ど蝦夷を顧みなかつたが、幕末に至り、北辺の警報がしきりに至るに及び、漸くこれに注意し、幕府の直轄地として、その施設にやや力を注いだが、間もなく王政復古となつたので、未だ事業の見るべきものもなかつた。

明治の新政府は、つとに蝦夷地の開拓に著眼し、明治元年(慶応四年)四月、箱館裁判所を置き、閏四月、更に改めて箱館府を置いた。しかるに、同年十月、幕府の艦隊を率ゐて脱走した幕臣榎本武揚が、蝦夷地に来りて五稜廓に拠り、全島を占領したので、朝議これを討伐することに決し、翌年(明治二年)三月、黒田清隆等が薩・長諸藩の兵を率ゐて出発し、五月十八日にこれを降服せしめた。

かくて、蝦夷島の平定を見るに至り、再び開拓の議が起つた。五月二十一日、明治天皇から上局会議に御下問あらせられた三件の中に、「蝦夷開拓の件」があり、その中に、「函館平定ノ上ハ、速ニ開拓教導ノ方法ヲ施設シ」と仰せられてあることは、既に謹載したところである。

たまたまこの時に、前肥州侯鍋島直正は、自ら進んで蝦夷地開拓の任に当らんことを奏請した。明治天皇には、深くその志をみせられて、六月四日、その請を許し、督務を命じたまうたのが、ここに謹載した詔である。「独恐ル汝高年遽ニ殊方ニ赴クコトヲ」と、老年に及んで、大任に就かうとする重臣に、宸慮あらせられてあるのは、まことに聖恩のかたじけなさを偲び奉らしめる。

同年七月七日、官制大改革の結果、蝦夷開拓督務鍋島直正は、七月十三日に開拓長官となつた。更に八月十五日、蝦夷地を北海道と改称、渡島・後志・石狩・天塩・北見・胆振・日高・十勝・釧路・根室・千島の十一箇国に分割、その翌日、開拓長官鍋島直正は、大納言に敍せられた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月27日金曜日

皇道興隆等に関する御下問

(明治二年五月二十一日)


   皇道興隆の件

我皇国ワガクワウコク天神テンジン天祖テンソキヨクタテモトヰヒラタマヒシヨリ、列聖レツセイ相承アヒウケ天工テンコウカハリ、天職テンシヨクヲサメ、祭政サイセイ維一ユヰイツ上下シヤウカ同心ドウシン治教チケウカミアキラカニシテ、風俗フウゾクシモウルハシク、皇道クワウダウ昭昭セウセウ万国バンコク卓越タクヱツス。シカルニ中世チユウセイ以降イカウ人心ジンシン渝薄ユハク外教グワイケウコレニジヨウシ、皇道クワウダウ陵夷リヨウイツヒ近時キンジハナハダシキニイタル。天運テンウン循環ジユンクワン今日コンニチ維新ヰシントキオヨヘリ。シカレトモ紀綱キカウイマ恢張クワイチヤウセス、治教チケウイマ浹洽セフカフナラス。コレ皇道クワウダウ昭昭セウセウナラサルニトコロト、フカ御苦慮ゴクリヨ被為遊アソバサレ今度コンド祭政サイセイ一致イツチ天祖テンソ以来イライ固有コイウ皇道クワウダウ復興フクコウ被為在アラセラレ億兆オクテウ蒼生サウセイ報本ハウホン反始ハンシオモンシ、アヘ外誘グワイイウ蠱惑コワクセラレス、方嚮ハウカウ一定イツテイ治教チケウ浹洽セフカフ候様サフラフヤウ被為遊度アソバサレタク思食オボシメシサフラフ其施為ソノシヰハウオノオノ意見イケン無忌憚キタンナク可申出マヲシイヅベク候事サフラフコト

   知藩事被任の件

版籍ハンセキ返上ヘンジヤウ追追オヒオヒ衆議シユウギ被聞食キコシメサレ候処サフラフトコロマツタ政令セイレイ一途イツトイヅルノホカ無之コレナクヨツ府藩県フハンケン三治サンチセイモツテ、海内カイダイ統一トウイツ可被遊アソバサルベキ御旨趣ゴシシユツキアラタメ知藩事チハンジ被任ニンゼラレサフラフ思召オボシメシサフラフアヒダ所存シヨゾン無忌憚キタンナク可申出マヲシイヅベクサフラフコト

   蝦夷開拓の件

蝦夷地エゾチハ、皇国クワウコク北門ホクモンタダチ山丹サンタン満洲マンシウセツシ、経界ケイカイホボサダマルトイヘトモ、北部ホクブイタツテハ、中外チユウグワイ雑居ザツキヨイタシサフラフトコロ是迄コレマデ官吏クワンリ土人ドジン使役シエキスル、ハナハダ苛酷カコクキハメ、外国人グワイコクジンスコブ愛恤アイジユツホドコサフラフヨリ、土人ドジン往往ワウワウ我邦人ワガハウジン怨離ヱンリシ、カレ尊信ソンシンスルニイタル。一旦イツタン民苦ミンクスクフヲトシ、土人ドジン煽動センドウスルモノ有之コレアルトキハ、ソノワザハヒタチマ函館ハコダテ松前マツマヘ延及エンキフスルハ必然ヒツゼンニテ、ワザハヒ未然ミゼンフセクハ、方今ハウコン要務エウムサフラフアヒダ函館ハコダテ平定ヘイテイウヘハ、スミヤカ開拓カイタク教導ケウダウトウ方法ハウハフ施設シセツシ、人民ジンミン繁殖ハンシヨクヰキトナサシメラルヘキツキ利害リガイ得失トクシツオノオノ意見イケン無忌憚キタンナク可申出マヲシイヅベクサフラフコト

天神テンジン天祖テンソ 皇室の遠い御先祖にまします神々や天皇を仰せられたものと拝する。「天神」は、「あまつかみ」であり、「天祖」は、「あまつみおや」である。「天祖」は、「皇祖」と同じく、天照大神のことを申上げ奉る語となつてゐる。しかし、「天神天祖」とあるから、「天神」は、天照大神をはじめ奉る天にまします多くの神々、「天祖」は、神武天皇その他の天皇の御意かと拝せられる。

キヨクタテ 皇位の基をお定めなされたこと。「極」は、「きはみ」即ち「はて」といふ意味から、種々の意味に転用せられてゐて、用例が非常に広い。「皇極」「埤極」の如く、最も大いなる正しき道即ち大中至正の公道を意味する語ともなり、「易経」繫辞伝にいふ「三極之道」(天・地・人の三才)の如く、最上の原理を意味する語ともなり、「北極星」「南極星」の如く、星の名ともなつてゐる。和漢ともに、はやくから皇位の意味に用ゐられ、崇神天皇の詔には、「皇祖みおやもろもろの天皇等すめらみことたち宸極あまつひつぎ光臨しろしめすことは、あに一身ひとはしらみためならむや。」とあり、唐の呉兢の「貞観政要」には、「登極ヨリ以来、大事三数件。」とある。「論語」の為政篇に、「タトヘバ北辰ノ其ノ所ニ居テ、衆星ノ之ニムカフガ如シ。」とあるやうに、北極星(北辰)が衆星の中心に在るといふところから、これが天子の象を意味する語となつたのであらう。「極を立て」は、「道徳の大本を立てる」といふ意味に用ゐられることもある。「書経」の洪範に曰ふ。「皇ハ其ノ有極ヲ建ツ。」しかし、ここに「極」とあるのは、前述の如く、皇位の御意に拝せられる。

モトヰヒラ 国の基をはじめてお開きなされること。「肇国」と同じ。

天工テンコウカハ 神々の御事業を神に代つて成し遂げたまふこと。「天工」は、「人工」に対する語である。「天造」または「神造」と同じ。造物者のつくり上げたもの。自然に成れるもの。陸倕の新漏刻銘に、「神道無跡、天工罕代。」とあり、趙孟頫の放煙火詩に、「人工巧藝奪天工。」とある。

天職テンシヨクヲサ 「天から賜はつたつとめをはたす」といふ意味の語。尊い天皇の御地位にあらせられて、国家を統治したまふ御事の意味に拝する。

祭政サイセイ維一ユヰイツ 「祭政一致」と同じ。神を祭ることと政治の道とが一致してゐること。

皇道クワウダウ昭昭セウセウ 「皇国の大道が最も明らかである」といふこと。「昭昭」は、最も明らかなる貌をいふ語である。「韓詩外伝」に、「昭昭乎若日月之光明。」とある。

万国バンコク卓越タクヱツ 「世界中のどの国よりもすぐれてゐる」といふこと。「卓越」は、一つのものが他のもの以上にすぐれてゐることを意味する語である。「晋書」に曰ふ。「州郡ニ貢薦之挙アリ、猶ホ未ダ出羣卓越之人ヲ獲ズ。」

中世チユウセイ以降イカウ 中世このかた。「中世」は、政権が武門に帰してから七八百年の間をいふ。

人心ジンシン渝薄ユハク 「人の心がかはつて軽薄になる」こと。

外教グワイケウコレニジヨウ 「外国の宗教が軽薄になつた人の心につけ込んで入り来る」こと。「外教」といふ場合の「教」は、多く宗教をいふ。古来、外教といへば、キリスト教を指すことが多い。

陵夷リヨウイ 「だんだん衰へる」こと。「陵」は「丘」である。丘が次第に平かになつてゐることに喩へ、盛であつたものが次第に衰へることを「陵夷」といふ。「漢書」成帝紀に曰ふ。「帝王之道、日ニ以テ陵夷ス。」

天運テンウン循環ジユンクワン 「自然に時節がめぐつて来る」こと。「循環」は、「めぐるたまき」である。「たまき」が端のないやうに、いく度も窮りなく反復するものを喩へて、この「循環」の語を用ゐてゐる。「史記」の高祖紀賛に曰ふ。「三王之道ハ、循環スルガゴトク、終リテ復タ始ム。」

浹洽セフカフナラス 「十分に行きわたらない」といふこと、「浹」は「うるほす」であり、「洽」は「あまねし」である。水がものをうるほすやうに、あまねく行きわたることを、「浹洽」といふ。「漢書」礼楽志に、「是ニ於テ教化浹洽シ、民モツテ和睦ス。」とある。

億兆オクテウ蒼生サウセイ 「多くの民」といふに同じ。「蒼生」は、古語の「あをひとぐさ」である。「百姓」と同じく、万民をいふ。多くの民を蒼々として衆き草木に喩へた語である。「書経」の益稷に、「海隅ニ至ルマデ蒼キモノ生ズ。」とあり、「晋書」には、「安石デズンバ、天下蒼生ヲ如何セン。」とある。「億兆」は極めて多い数の名称である。無限の数を意味する語として用ゐられ、またこれだけでも、万民を意味する語となつてゐる。

報本ハウホン反始ハンシ 本に報いはじめかへる。先人の創業を偲んで、その恩に報いることの意味。「礼記」に曰ふ。「社ニハ粢盛シセイヲ供ス、本ニ報イ始メニ反ル所以ナリ。」

蠱惑コワク 「まどふ」こと、または「たぶらかされる」こと。「蠱」は、虫の名であるが、虫害を受ける器といふ意味に転用せられ、更に害毒を意味する語となり、その外にも種々の用例を生じてゐる。

版籍ハンセキ返上ヘンジヤウ 私有してゐた土地とその土地に住する人民を、朝廷にお返しすること。「版籍」の「版」は版図、「籍」は戸籍である。土地と人民とを併称する語として用ゐられてゐる。「唐書」揚炎伝に曰ふ。「賦ハ斂ヲ加ヘズシテ入ヲ増シ、版籍造ラズ、而シテ其ノ虚実ヲ得、吏誠ナラズシテ姦取ル所無シ。」

山丹サンタン満洲マンシウ 共に地名。

中外チユウグワイ雑居ザツキヨ 「内地人と外国人とがまじつて住んでゐる」こと。「中外」は、「内外」と同じ。国内と外国とを綜括していふ語。ここは、次に「雑居」とあるから、内地人と外国人の意味に拝せられる。

苛酷カコク 「きびしくむごい」といふ語義。厳酷・残酷と同じ。「後漢書」王常伝に曰ふ。「政令苛酷、百姓之心ヲ失フ。」

怨離ヱンリ うらみはなれる。「うらみを抱いて人心が離れて行く」こと。

煽動センドウ 人をおだてて事を起さしめること。

必然ヒツゼン 必ずさうあるべきことをいふ。

ワザハヒ未然ミゼンフセ 禍が未だ起らない中に防ぐ。

開拓カイタク 未墾の土地を開いて耕地とすること。転じて、新らしき文化を創造する意味にも用ゐられる。


〔大意〕
この御下問は、皇道興隆の件・知藩事被任の件・蝦夷開拓の件の三件に分れてゐる。大要を次に謹約する。

〔皇道興隆の件〕我が皇国は、皇祖が皇位を定め国の基をひらきたまうてから、御歴代の天皇が、その大御心を承けつがせられて、この国を治めたまひ、祭政一致、上下同心、皇道昭々、世界中の各国に卓越してゐる。然るに、中世このかた、人心が軽薄になつたところへつけ込んで、外来の宗教が入り来り、皇道がだんだんおとろへ、近時、最も甚しくなつたが、時節がめぐつて来て、今日の維新となつた。しかし、まだ国の政治が充分に行はれてゐないのを、深く御心配あそばされ、今度、皇祖以来伝はつてゐる皇道を復興あそばされて、万民が報本反始の義を重んじて、外教にまどはされぬやうにする方針を定めたまふおぼしめしであらせられるから、その方法について、忌憚なき意見を申し出ること。

〔知藩事被任の件〕版籍(土地・人民)返上の儀を御聞き入れになり、政令が一途に出るやうに、府・藩・県三治の制によつて海内を統一あそばされる御旨趣で、改めて知藩事を御任命のおぼしめしであるから、忌憚なき所存を申し出ること。

〔蝦夷地開拓の件〕蝦夷地は、我が国の北門に当り、外国と地続きになつてゐる。堺もほぼ定まつてゐるが、北部には、内地人と外国人が雑居し、これまで我が官吏が甚だ苛酷に土人を使役してゐたのに反し、外国人は、頗る愛恤につとめた。それがために、土人は、邦人を怨んで離れ、外国人を尊信するやうになつた。若し土人を煽動する者があつたら、その禍が忽ち函館や松前まで及んで来ることが明らかである。禍の起らない前にこれを防ぐは、今日最も大切なことであるから、函館平定の上は、速に開拓教導等の方法を施し、人民の繁栄をはかりたまふおぼしめしである。それらの利害得失についても、忌憚なき意見を申し出ること。


〔史実〕
明治天皇には、明治二年五月二十一日、上局会議を開かせたまひ、行政官・六官・学校・待詔局・府県の五等官以上及び親王・公卿・麝香じやかうの間祇候ましこう諸侯に、皇道興隆・知藩事新置・蝦夷地開拓の三条を御下問あらせられた。ここに謹載したのが、その御下問書である。これは、本文を拝誦すれば、おのづから明らかであるが、政府が勅旨を伝達した形式になつてゐる。当時は、かうした形式の御下問書が、外にもまだ少くなかつた。

版籍の返上といふことは、明治維新の大業の完遂に最も重要な問題であつた。徳川幕府が政権を奉還しても、天下の諸侯が、従前のとほりに、土地・人民を私有してゐては、統一的な新政治が行はれないからである。しかし、事甚だ重大であり、容易に実現すべき性質の問題ではなかつた。

明治元年(慶応四年)四月、徳川慶喜が恭順した後、幕府の領土を収めて、悉く朝廷の直轄地となし、新に慶喜の継嗣となつた家達を駿府(静岡)に封ぜられたが、同年閏四月、官制を改革し、旧来の朝廷の直轄地と新に収めた幕府の旧領土とを分ちて府・県とし、府に知府事・県に知事を置いて、これを治めしめた。かくして、従来、幕府の支配を受けてゐた諸侯は、朝廷に直属してその命を奉ずるに至つたが、なほ依然として土地・人民を私有してゐた。従つて、全国統一の政治を施行することが出来ず、諸藩の政治は、従前の如く、これを藩主に一任した。当時、全国には、二百七十三の藩が存在してゐた。前述の府・県とこの二百七十三藩の行政を、地方三治と称した。

速に全国統一の政治を施行しなければ、一度成れる維新の大業も、忽ち蹉跌のおそれあることを看破した総裁局顧問木戸孝允は、明治元年二月、先づ岩倉具視・三条実美に建言し、次いで自ら山口に帰り、長州藩老侯毛利敬親に説いて、版籍返上の決意を促した。また大久保利通も同じく薩州藩主を説いた。かくして、薩・長二藩主の意が決し、更に土・肥二藩主がこれに応じ、明治二年正月二十三日、薩州侯島津忠義・長州侯毛利敬親・肥州侯鍋島直正・土州侯山内豊範の連名を以て、版籍奉還の請願を上奏した。王政復古の元勲たる四藩が建議した以上、他の諸藩も躊躇することは出来ず、忽ちこれに傚つて、版籍の奉還を奏請する者が、二百有餘藩の多きに及んだ。

明治天皇には、二月二十四日、優詔して諸藩の忠誠をみせられ、五月二十一日開会の上局会議に、前に謹載したやうに、勅問したまうたのである。かくして、版籍返上の廟議がほぼ決定し、六月十七日、各藩の奏請を御聴許あり、未だ奏請せざる者には、特に諭して奉還せしめられ、前田慶寧よしやす・島津忠義以下二百六十人を知藩事に任命したまうた。知藩事は、藩内の社祠戸口名籍を知とり、士民を字養し教化を布き、風俗を敦くし、租税を収め、賦役を督し、賞刑を判ち、僧尼の名籍を知とり、兼て藩兵を管する事を掌るといふのが、当時の官制の大要であつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月26日木曜日

輔相議定参与三職登庸の詔

(明治二年五月十三日)


チンオモフニ、治乱チラン安危アンキモトハ、任用ニンヨウ其人ソノヒトウル不得エザルトニアリ。ユヱイマツツシン列祖レツソレイツゲテ、公選コウセンハフマウケ、サラ輔相ホシヤウ議定ギヂヤウ参与サンヨ登庸トウヨウス。神霊シンレイ降鑑カウガンアヤマチナカランコトヲス。汝衆ジヨシユウ、ソレ斯意コノイホウセヨ。

治乱チラン安危アンキモト 国が治まつて安らかになるか、乱れて危くなるか、その何れかに決する本といふこと。

列祖レツソ 御歴代の天皇。

公選コウセン 多くの人を集めて、その中から、適当な方法により、豫め定まれる任務を担当する適任者を選ばしめることをいふ。

輔相ホシヤウ議定ギヂヤウ参与サンヨ 何れもみな当時の職名。「史実」の中に説く。

登庸トウヨウ 「登用」と同じ。適任者をあげてこれを用ふること。「書経」の堯典に曰ふ。「ダレヒテ時ニシタガハンモノヲ登庸アゲモチヰン。」

神霊シンレイ降鑑カウガン 「神のみたまも御覧ください」といふ神に対する誓の御言葉である。「天地の神も照覧あれ」といふに同じ。文字のとほりにいへば、「神霊」は、「神のみたま」である。しかし、「大載礼」には、「陽之精気ヲ神ト曰ヒ、陰之精気ヲ霊ト曰フ。」といふ解釈がしてある。また「列子」の湯問篇には、「神霊ノ生ズル所、其ノ物異形。」とあり、霊妙なる造化の神を意味する語として用ゐられ、「史記」の五帝紀には、「生ニシテ神霊、弱イニシテ能ク言フ。」とあり、すぐれたる才能の意味に用ゐられてゐる。「降鑑」は、「降鑒」とも書く。天界から下界を監視するといふ意味の文字である。「詩経」王風の伝に、「上ヨリ降鑒スルヲ、則チ上天ト称ス。」とある。また神が人に加護を垂れたまふ意味にも用ゐられる。神武天皇紀元四年二月の詔には、「我が皇祖みおやみたまや、あめより降鑒くだりひかりて、光助てらしたすけたまへり。」と仰せられてある。


〔大意〕
朕が考へて見るのに、国が安らかによく治まると、乱れて危くなるとの本は、それぞれの地位に適当な人を用ゐると用ゐないとにある。故に、今つつしんで御歴代の天皇の御霊に告げて、公選の法を設け、更に輔相・議定・参与を挙げて用ゐるのである。神々に誓つて間違ひのないやうにと心がけてゐる。汝等多くの者も、このこころに従つて行へ。


〔史実〕
明治二年五月十三日、明治天皇には、太政官に臨御あらせられて、三等官以上をして、諸職を公選投票せしめたまうた。ここに謹載したのが、その詔である。

同日、太政官は、次のやうに令した。
去歳サルトシ閏月政体御造立相成アヒナリ候処、時勢之変遷ニ随ヒ適宜ノ政体大ニ御確定可有之コレアルベク候得共サフラヘドモ、千古未曾有御改革之儀ニツキ、一時ニ被施行シカウサレ候テハ却テ其宜ヲ失ヒ候儀モ可有之コレアルベク、依テ即今至急御改正無之コレナク候テハ不相済アヒスマザル廉々カドカド別紙之御改刪被仰付オホセツケラレ候事。
「別紙」には、左の如く定められてあつた。
上下議局被相開アヒヒラカレ候ニツキ、議政官被廃ハイサレ、左之トホリ被改置アラタメオカレ候事 
 上 局  議  長  副議長   議員
 行政官  輔相一人  議定四人  参与六人  辨事
     ○
輔相  議定  六官知事  内廷職知事
 右四職公卿諸侯ノ中ヨリ撰挙スヘシ
  但三等官以上スベテ会同入札ノ法ヲ用ユ
参与  副知事
 右二職貴賤ニ拘ハラス撰挙スヘシ
  但同断
     ○
輔相一人 議定四人 参与六人
 右今日入札撰挙被仰付オホセツケラレ候事
六官知事六人 内廷職知事一人 六官副知事六人
 右明十四日入札撰挙被仰付オホセツケラレ候事
     ○
 公 撰 次 第
時刻各以序次着座 但正服之事
次辨官事読詔書
次辨官事置入札箱於案上 但史官着座其側
次各記可挙之人名而納箱
次 出御
次参与等出箱於御座前而披之検其数 史官記之
次 入御
次輔相宣下
次議定参与入札了 辨官事於輔相座前披之検其数 史官記之
公撰の結果、三条実美は輔相に、岩倉具視・徳大寺実則・鍋島直正は議定に、東久世通禧・木戸孝允・大久保利通・後藤元曄・副島種臣・板垣正形は参与に、それぞれ当撰し、その他の諸官にも、従来要路に立つてゐた人々が多く当撰した。
〔追記〕指原安三編「明治政史」第二篇に曰ふ。「維新以来大乱の後規律立たず、諸務叢雑朝令暮改のそしりあり。大久保利通以為おもへらくこれ在職者の責なり。授職須らく公撰に由るへし、公撰つ大臣より始めよと、朝議之を可とし始めて投票法を用ゆ。しかれとも行政官吏を投票するは、此時を始めとし此時を終りとす。当時投票不可の議論復た盛なるに因ると云ふ。」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月25日水曜日

百官群臣に国是を諮詢し給へる詔

(明治二年四月二十日)


チンサキナンヂ百官ヒヤククワン群臣グンシン五事ゴジカカケ、天地テンチ神明シンメイタダシ、綱紀カウキ皇張クワウチヤウシ、億兆オクテウ綏安スヰアンスルヲチカフ。シカルニ兵馬ヘイバ倉卒サウソツイマ其績ソノセキイタサス。チン夙夜シユクヤカミモツ神明シンメイオソレ、シモモツ億兆オクテウツ。イマスナハ親臨シンリンナンヂ百官ヒヤククワン群臣グンシン朝会テウクワイシ、オホイ施設シセツスルノ方法ハウハフ諮詢シジユンス。コノ神州シンシウ安危アンキケツ今日コンニチリ。マコトヨロシ腹心フクシンヒラキ、肺肝ハイカンアラハシ、可否カヒ献替ケンタイスヘシ。チンマサ励精レイセイ竭力チカラヲツクシオホイ経始ケイシスルトコロアラントス。ナンヂ百官ヒヤククワン群臣グンシン、ソレ勗哉ツトメヨヤ

五事ゴジ 五箇条の御誓文の御事。

綱紀カウキ皇張クワウチヤウ 諸般の政治を最も盛にする。「綱紀」は、「紀綱」と同じ。「皇張」の「皇」は、「大」「盛」の意味。

億兆オクテウ綏安スヰアンスル 万民を安心させる。「億兆」は、前にしばしば説明したとほり、多くの民をいふ。「綏安」は、「安らかにする」こと即ち「安心させる」「生活を安定させる」等を意味する語である。

兵馬ヘイバ倉卒サウソツ 「戦争のために忙しい」といふこと。「兵馬」は、軍人と軍馬の併称であるが、戦争の意味にも用ゐられる。「倉卒」は、「にはかに」(俄)「あわてる」といふ意味から、「多忙」の意味にも転用せられる語である。李陵の「答蘇武書」に曰ふ。「前書倉卒、未ダ所懐ヲ尽サズ。」

其績ソノセキイタサス 「思ふとほりの結果になつてゐない」こと、よい成績を挙げることが出来ないといふ意味。

夙夜シユクヤ 朝早くから夜に至るまで。

親臨シンリン みづからのぞむ。御みづから御出席あらせられること。

朝会テウクワイ 朝廷に会する。御前に諸臣を御集めなされること。

諮詢シジユン 上から下へ問ひたまふこと。

神州シンシウ安危アンキケツ 「我が国が安らかであるか危いかといふことがきまるところ」といふこと。我が国家の死活の運命の定まるところを意味する。「神州」は、「神の国」を意味する語。日本の異称。

腹心フクシンヒラ 「正直に本心をうちあける」こと、まごころから出る意見を述べることの意味。「史記」の淮陰侯伝に曰ふ。「臣願ハクハ腹心ヲ披キ、肝胆ヲイタシ、愚計ヲイタシ、足下ノ用ヰル能ハザルヲ恐ルル也。」

肺肝ハイカンアラハ 前の「腹心ヲ披キ」と同じ意味の語である。対句として用ゐ、文意を強めてあるもの、「肺肝」は、「肺臓と肝臓」であるが、「まごころ」の意味に転用せられ、「大学」の中にも、「其ノ肺肝ヲ見ルガ如ク然リ」とある。

可否カヒ献替ケンタイスヘシ 「よいかわるいかを正直に奏上せよ」といふこと。「献替」は、善をすすめ、悪をすてるといふ意味の語。「献」は「たてまつる」であり、「替」は「廃する」である。支那の古典にも、天子を輔佐することに多く用ゐられてゐる。袁宏の「三国名臣序賛」に曰ふ。「道ヲ以テ世ヲタスケ、出デテハ能ク功ヲ勤メ、入リテハ能ク献替シ、社稷ヲヤスンズルヲ謀ル。」

励精レイセイ竭力チカラヲツクシ 「力の及ぶ限り精を出す」といふこと。「竭力」は、「力の及ぶ限り」即ちこれ以上のことは出来ないといふところまで力を出すことである。

経始ケイシ 「はかりはじめる」または「営みはじめる」といふ字義。経綸の実現に著手の意味。

勗哉ツトメヨヤ 「勗」は「勉」に近し。「せいを出せ」と人をすすめ励ます時に、多くこの「勗」の文字が用ゐられる。「書経」の牧誓に、「勖哉夫子」とある。「勖」は「勗」の正字である。


〔大意〕
朕は、さきに、汝等多くの臣と、五事を挙げて、天地の神々に申上げ、国の政治を大いによくして、万民を安心させることを誓つた。しかるに、俄に戦争が起つて、その忙しさに、まだ誓つたとほりに行つてゐない。朕は、毎日毎夜、上は神々に畏れ、下は万民に慙ぢてゐる。そこで、今、みづから臨んで、汝等多くの臣を朝廷に会し、大いに実際上の計画についての法をたづねるのである。この日本の国の安危の定まるところは、今日にある。どうか、まごころをもつて、よいことをすすめ、わるいことを除くやうに申し述べよ。朕は、これから力の及ぶ限り、精を出して、大いに思ふことを実行しはじめるであらう。汝等多くの臣も、つとめはげめよ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治天皇が、明治二年四月二十日、二等官以上を召させられ、親しく万機施設の方法を諮詢したまうた詔である。広く天下の善言を徴せられて、国是の基礎を確定しようとつとめたまうた大御心が、この詔の中にも、まことによく拝せられる。

明治の新政府は、尊き聖旨を奉じて、先に公議所を開設し、四等官以上一人、東京諸学校を代表する公議人各一人、十八藩から選出した公議人各一人を、公議に参加せしめることに決したが、三月十二日、更に待詔局たいせうきよくを東京城内に置き、草莽の徒に至るまで、その意見を陳述することを得るやうにした。その布告に曰ふ。
大政更始以来、旧弊一洗言路洞開上下貫徹スコシ壅塞ヨウソク無之コレナク、天下有志ノ者、竭丹誠タンセイヲツクシ為国家コクカノタメ無忌憚キタンナク建言イタシ候ニツキ追々オヒオヒ御採用相成アヒナリ候得共サフラヘドモナホ実効之不立タタザル廉廉カドカド有之コレアリ、畢竟御旨趣貫徹不致イタサズ、有志之者選挙ニ相洩アヒモレト深ク御煩念被為在アラセラレ候ニツキ此度コノタビ於東京城トウキヤウジヤウニオイテ待詔局被為開ヒラカセラレ候間、有志之者草莽卑賤ニ至迄イタルマデ御為筋オタメスヂ之儀早々建言可致イタスベクトクト議論相遂アヒトゲ其所長ヲ以テ夫々ソレゾレ御用可被仰付オホセツケラルルベキ御趣意ニ候間、向後潜伏隠遁鬱々其志ヲ不達者タツセザルモノ有之コレアリ候テハ、至誠尽忠之素志ニ相悖アヒモトリ候間、尚上下一致偏ニ尽力可致イタスベキ被仰出オホセイダサレ候事。
三月七日、京都を御出発、再び東幸の途に上りたまうた車駕は、同月二十八日、東京城に御著。その翌月(四月)のはじめから、大いに制度の改革、人事の異動等を行はせられ、同二十日に、前詔の如く仰せ出されたのであつた。翌々日(二十二日)に至り、更に公卿・諸侯及び三等官を御前に召させられ、それらの者にも、国是を諮詢したまひ、四等・五等官及び中下大夫は、輔相がこれを伝宣し、六等官以下は、その長官がこれを伝宣することとしたまうた。そこで、二十五日に、行政官は、次のやうに布告した。
皇国基礎御確定ノ会議被仰出オホセイダサレ候ニツキ為国家コクカノタメ存付ゾンジツキ有之コレアル族ハ、不顧卑賤ヒセンヲカヘリミズ、待詔局ヘ罷出マカリイデ無忌憚キタンナク可致建言ケンゲンイタスベキ事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月24日火曜日

公議所の開設に際して賜はりたる詔

(明治二年二月二十五日)


チンマサ東臨トウリン公卿コウケイ群牧グンボク会合クワイガフシ、ヒロ衆議シユウギ諮詢シジユンシ、国家コクカ治安チアン大基タイキタテントス。ソモソモ制度セイド律令リツレイハ、政治セイヂモト億兆オクテウヨルトコロ、モツカルガルシクサダムヘカラス。イマ公議所コウギシヨ法則ハフソクホボスデサダマルトソウス。ヨロシクスミヤカ開局カイキヨクシ、局中キヨクチユウ礼法レイハフタフトヒ、協和ケフワムネトシ、ココロ公平コウヘイソンシ、精確セイカクシ、モツパ皇祖クワウソ遺典ヰテンモトヅキ、人情ニンジヤウ時勢ジセイヨロシキテキシ、先後センゴ緩急クワンキフブンツマビラカニシ、順次ジユンジ細議サイギシ、モツブンセヨ。チンシタシクコレ裁決サイケツセン。

東臨トウリン 「東幸」と同じ。東京行幸の御事。

公卿コウケイ群牧グンボク 「公卿」は、朝廷に仕へ奉る高位高官の人々。「くげ」とも訓む。「群牧」は、諸侯即ち諸藩主のこと。廃藩前までは、江戸時代から続いた諸藩が存在してゐた。

衆議シユウギ諮詢シジユン 「多くの者に相談をして、その意見をきく」といふこと。「諮詢」は、「上から下にはかり問ふ」ことを意味する語である。「諮問」と同じ。

国家コクカ治安チアン大基タイキ 国を安らかに治めるもと。「大基」は「大本」と同じ。

協和ケフワムネトシ 「和合を第一とする」といふに同じ。「協和」は、相互に和して協力すること。「書経」の堯典に、「万邦ヲ協和ス。」とある。

精確セイカクニシ 「精確に議し」と同じ。細かいところにまでも注意して間違ひのないやうに相談をすることである。

皇祖クワウソ遺典ヰテン 皇祖の遺しおかれたおきて。

人情ニンジヤウ時勢ジセイヨロシキテキ 人情と時勢によくかなつたやうにすること。「人情」は、その文字のとほり、「人のなさけ」「人の愛情」を意味する語であるが、転じて、多くの人間に共通の気分や、世の中の情実といふ意味に用ゐられてゐる。「時勢」は、「時のなりゆき」即ちその時その時によつて変る社会の大勢である。「戦国策」に曰ふ。「権藉ハ、万物之率ナリ、而シテ時勢ハ、百事之長ナリ。」

先後センゴ緩急クワンキフブンツマビラカニシ 先後と緩急をくはしく区別するといふこと。事の性質をよく考へて、先になすべきものは先に、後になすべきものは後になし、また急ぎのものは急ぎ、さうでないものはゆつくりとするといふやうに、実行上の方法を定めるといふ意味。「緩急」は、その文字のとほりに、「ゆるやかなることといそがしいこと」といふ意味の語であるが、「緩」が添字となり、「危急」と同じ意味に用ゐられることもある。明治二十三年「教育に関する勅語」の中に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と仰せられてあるのは、その意味の「緩急」である。

裁決サイケツ 「とりさばいてきめる」といふ字義。判断して決定するといふ意味。「決裁」「裁断」等と同じ。


〔大意〕
朕は、近く東京に行幸して、朝臣や諸侯をあつめ、多くの者に相談してその意見を問ひ、国を治めることの大本を定めようと思ふ。制度や律令は、政治の本であり、万民がそれによつて安心するところのものであるから、軽々しくきめてはならない。今、公議所の規則が大体もはや定まつたといふ。それでは、早くその公議所を開いて、礼法を重んじ、和合を第一とし、公平な心をもつて、細かい点までも間違ひないやうに相談し、何事によらず、皇祖の遺しおかれた掟に従つて、人情や時勢によくかなふやうに、事の先後と緩急とを明らかにして、順々にくはしく協議した上で、奏上せよ。朕は、みづからそれを判断して決定するであらう。


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治二年二月二十五日、公議所の開設に際して、議事の御親裁を仰せ出された詔である。

「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と仰せ出された「五箇条の御誓文」の聖旨を奉じて、明治の新政府は、公議所を開設し、天下の人材を集めて、その経綸を吐露せしめる道を講じた。明治二年二月八日、新政府は、公議所の開議期日を、毎月二・七の日と定め、各庁の四等官以上一人が参会し、且、東京諸学校から各一人、仙台・米沢以下の十八藩から各一人づつの公議人を出さしめることを決した。凡そ時務を論ずる者は、公議所に於て建言せしめるといふ制であつた。

明治元年十月、東幸あらせられた明治天皇には、十二月、京都に還御、翌年(明治二年)三月、再び東幸、東京を以て永く帝都の地としたまうた。公議所の開設に際して、この詔を賜はつたのは、再度東幸の直前であらせられたから、「朕将ニ東臨」と仰せられてある。

同日、政府は、議事取調局に次の如く命じた。
今般御東幸之上、東京城ニ於テ、議事所ヲ設ケ、公卿諸侯在官二等以上、毎次会議ヲ興シ候ヤウ被仰出オホセイダサレ候ニツキ、右議事所規則等、早早取調可致イタスベキ旨、御沙汰候事。
また同日行政官よりの達に曰ふ。
今般御東幸被為在アラセラレ候上、天下ノ衆議公論ヲ以テ、国是大基礎御確定可被為在アラセラルベキ思食オボシメシツキ、東京在勤ノ諸官五等以上ノ者見込ミコミノ儀、不憚忌諱、書取カキトリヲ以テ三月十五日迄ニ建言可有アルベキ之旨、御沙汰候事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月23日月曜日

政始に百官将士に賜はりたる詔

(明治二年一月四日)


チンオモンミルニ、在昔ムカシ神皇ジンノウモトヰハジメシヨリ、列聖レツセイ相継アヒツキ、モツチンオヨフ。チン否徳ヒトク夙夜シユクヤ兢業キヨウゲフ先皇センノウシヨオトサンコトヲ之懼コレオソル。曩者サキニ兇賊キヨウゾクメイカウシ、億兆オクテウ塗炭トタンクルシム。サイハヒナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシチカラリ、スミヤカ戡定カンテイコウソウシ、万姓バンセイヤスンスルニイタル。今茲コトシトシ在己巳キシサン三元ゲンケイ啓端タンニアリ上下シヤウカ乂寧ガイネイ遠邇ヱンジ来賀ライガス。チンナンヨロコビコレシカン。オモフニ天道テンダウ靡常ツネナク一治イツチ一乱イチラン内安ウチヤスケレハカナラズソトウレヒアリ。戒慎カイシンセサルベケンヤ。チンマスマス祖業ソゲフ恢弘クワイコウシ、ヒイ中外チユウグワイカウムラシメ、モツナガ先皇センノウ威徳ヰトク宣揚センヤウセンコトヲ庶幾シヨキス。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシ勉励ベンレイ不懈オコタラズオノオノ其職ソノシヨクツクシ、アヘ忌憚キタンナクチン闕漏ケツロウ匡救キヤウキウセヨ。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシソレ勉旃コレヲツトメヨ

オモンミルニ 「思ひみるに」である。「惟」は「思」と同じ。深く思ふといふ場合に「惟」の文字を用ゐる。

神皇ジンノウ 天照大神と神武天皇とを仰せられてあるものと拝察する。

モトヰハジ 皇国の基をはじめて開きたまうたこと。

列聖レツセイ 御歴代の天皇。

夙夜シユクヤ兢業キヨウゲフ 朝夕おそれいましめる。「夙夜」は、「朝早く起き夜おそく寝る」といふ意味の文字である。「終日」といふ意味に多く用ゐられる。「兢業」は、「兢々」と同じく、おそれ戒める有様をいふ語である。

先皇センノウシヨ 先の天皇の遺したまうた御事業。「先皇」は、先代の天皇であるが、必ずしも先代と限らず、御先祖の天皇といふ意味に用ゐられる場合もある。

兇賊キヨウゾクメイカウ 「悪人どもが大命に反抗した」といふこと。「兇賊」は「凶賊」と同じ。不逞なことを企てる乱暴な悪人をいふ。「梗」は「抗」と同じ。「反抗」の意味。

億兆オクテウ塗炭トタンクルシム 「万民が非常に苦しんだ」といふこと。

戡定カンテイコウ 「敵を討ち滅ぼして乱を平定した手がら」といふこと。「戡定」は、「戦に勝つて乱を定める」といふ意味の文字である。「書経」の康王之誥に「戡定厥功(ノ功ヲ定ム)。」とある。

万姓バンセイヤスンスル 「万民が安心する」といふこと。「万姓」は「百姓」と同じ。多くの民をいふ。「堵ニ安スル」は、「安堵」即ち「安心」である。

己巳キシ つちのとみの年。「己」は十干の第六位、「巳」は十二支の第六位。明治二年は、己巳の年に当つてゐた。

三元啓端サンゲンケイタン 「正月元日早々」といふこと。「三元」は、正月元日の称。年・月・日の三つの始めといふ意味。「元」は「はじめ」である。「玉燭宝典」に曰ふ。「正月ヲ瑞月ト為シ、其ノ一日ヲ上日ト為シ、マタ三元ト曰フ、歳之元、時之元、月之元ナリ。」この「三元」といふ語は、また「上元」(一月十五日)・「中元」(七月十五日)・「下元」(十月十五日)の総称にも用ゐられ、天・地・人の三才を称することもある。「啓端」は、その文字のとほり、「ひらけはじめ」である。

上下シヤウカ乂寧ガイネイ 「上に在る者も下の者もみな安らかである」といふこと。「天下太平」の意味。「乂寧」は、世の中が安らかによく治まつてゐることを意味する文字である。「元史」刑法志に曰ふ。「百年之間、天下乂寧。」

遠邇ヱンジ来賀ライガ 遠いところの者や近いところの者が祝ひを述べに来ること。「遠」は、外国のことであらう。明治元年に外交の新方針が定まり、諸外国公使に入京参朝を仰せ付けられたので、この年にもフランス、オランダその他の公使が朝賀に列したことと思はれる。

天道テンダウ靡常ツネナク 自然に行はれる世の移り変りは、豫め定まつてゐないといふこと。「天道」は、自然の道即ち自然の道理である。

祖業ソゲフ恢弘クワイコウ 「御先祖から承けついだ業を更に一そうひろめる」といふ意味の語。「天業恢弘」と同じ。

闕漏ケツロウ匡救キヤウキウセヨ 及ばないところを補ひ助けるやうにせよ。「闕漏」は、その文字のとほり、「かけてもれる」こと。「手落」の意味。諸葛亮の出師表に、「闕漏ヲ裨補ヒホス。」とある。

勉旃コレヲツトメヨ 「旃」(せん)は、「これ」と訓む。「せん」の音は、「」・「えん」二字の合音である。「勉旃」は、人を激励する語。高適の詩に曰ふ。「行矣各勉旃、吾当挹餘烈。」


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、昔、神皇がこの国をお肇めになつてから、御歴代の天皇がこれをつがせられて、さうして朕の身に及んだのである。朕は、徳のない者で、毎日、いましめつつしんで、先皇の御事業を保ち得ないやうなことがあつてはならぬとおそれてゐる。先に、悪人どもが大命にそむいて、万民が大いに苦しんだ。幸ひに汝ら多くの文武官の力によつて、速に乱を平げることが出来て、万民も安心するやうになつた。今年は、己巳の年であつて、正月元日早々、天下太平にして、遠近の者が祝賀に来た。朕にとつて、これほど喜ばしいことはない。考へて見るのに、自然の道理といふものは、人の思ふやうにならず、よく治まることもあれば、また乱れることもあり、国内が平安になれば、外国との間に憂ふべきことを生ずるものである。深くいましめつつしまなければならない。朕は、ますます祖先から承けついだ大業をひろめ、それを国の内外に及ぼし、さうして永く先代の天皇の御威徳を高めるやうにと願つてゐる。汝ら多くの文武官も勉励して怠らずに、その職務をつくし、少しも憚るところなく、朕の及ばないところを補ひたすけるやうにせよ。汝ら多くの文武官、これをつとめよ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、王政復古第二年の初頭に当る明治二年一月四日の政始まつりごとはじめに、文武百官に賜はり、戒慎と自重とを促したまうた詔である。「政始」は、また「政事始」ともいふ。新年にはじめて政治を行はせたまふ時の御儀式である。毎年一月四日と定められてある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月17日火曜日

松平容保等を寛典に処し給へる詔

(明治元年十二月七日)


賞罰シヤウバツ天下テンカ大典タイテンチン一人イチニンワタクシスヘキニアラス。ヨロシ天下テンカ衆議シユウギアツメ、至正シセイ公平コウヘイ毫釐ガウリンアヤマキニケツスヘシ。イマ松平マツダヒラ容保カタモリハジ伊達ダテ慶邦ヨシクニゴトキ、百官ヒヤククワン将士シヤウシヲシテセシムルニ、オノオノ小異同セウイドウアリトイヘドモツミヒトシク逆科ギヤククワニアリ、ヨロシク厳刑ゲンケイシヨスヘシ、就中ナカンヅク容保カタモリツミ天人共テンジントモイカトコロ死尚シナホ餘罪ヨザイアリトソウス。チンツラツコレアンスルニ、政教セイケウアマネク、名義メイギ人心ジンシンアキラカナレハ、モトヨリ乱臣ランシン賊子ゾクシナカルヘシ。イマチン不徳フトクニシテ、教化ケウクワミチイマタタス。加之シカノミナラズ七百年来シチヒヤクネンライ紀綱キカウ不振フシン名義メイギ乖乱クワイラン弊風ヘイフウヨツキタトコロヒサシ。ソモソモ容保カタモリゴトキハ、門閥モンバツチヤウシ、人爵ジンシヤク仮有カイウスルモノ今日コンニチ逆謀ギヤクボウ彼一人カレイチニントコロアラス、カナラ首謀シユボウシンアリ。チンヨツダンシテイハク其実ソノジツスヰシテ、其名ソノナジヨシ、其情ソノジヤウアハレンテ、ソノハフユルシ、容保カタモリ死一等シイツトウユルシテ、首謀シユボウモノチユウシ、モツ非常ヒジヤウ寛典クワンテンシヨセン。チンマタマサ自今ジコンミヅカ励精レイセイ図治チヲハカリ教化ケウクワ国内コクナイキ、徳威トクヰ海外カイグワイカガヤカサンコトホツス。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシコレタイセヨ。

天下テンカ衆議シユウギ 国中の多くの者の一致した意見。「輿論」といふ意味。

毫釐ガウリン 「ほんの少しばかり」といふこと。「釐」は尺度の単位、一の十分の一。また目方の単位、一ぷんの十分の一。また銭の単位、一せんの十分の一。「りん」ともいひ、略して「厘」とも書く。「毫」は一釐の十分の一。「毫釐」の文字は、極めて少量のもの、また極めて微細のものの意味に転用せられる。「史記」太史公自序に曰ふ。「之ヲ毫釐ニ失スレバ、タガフニ千里ヲ以テス。」

逆科ギヤククワ 叛逆の罪。

厳刑ゲンケイ きびしい刑罰。「極刑」と同じ。「死刑」の意味。

天人共テンジントモイカ 「天も怒り人も怒る」といふこと。何者もこれを許さない悪の意味。

死尚シナホ餘罪ヨザイアリ 「死刑に処してもなほ罪が消えてしまはない」といふこと。死刑以上の罪といふ意味。

名義メイギ 「大義名分」と同じ。最も重大なる人間の道。君臣の道父子の道の如し。

乱臣ランシン賊子ゾクシ 国を乱す臣や家を傷つける子。君臣父子の道に外れた人非人。君を弑する臣や父を害する子を罵りていふ語になつてゐる。「孟子」滕文公篇に曰ふ。「孔子春秋ヲツクリテ、乱臣賊子オソル。」

七百年来シチヒヤクネンライ 政権が武門に移つてから、明治維新の当時までのことを仰せられたものと拝する。

名義メイギ乖乱クワイラン 君臣父子の道が乱れて本義にもとつてゐること。

門閥モンバツチヤウ 「名門の家柄に成長する」といふこと。松平氏は、徳川氏祖の姓であり、徳川時代に最も社会的地位の高い家柄であつた。

人爵ジンシヤク仮有カイウスル 「最も高い官位を有する」といふこと。「人爵」は「天爵」に対する語である。人の定めた官位といふ意味。「孟子」の告子篇に、「公卿コウケイ大夫タイフ、此レ人爵ナリ。」とある。


〔大意〕
謹約。「賞罰は、最も公平にして、少しの間違ひもないやうにきめなければならない。松平容保・伊達慶邦等の罪を議せしめたところ、百官将士は、厳刑に処すべきものであるといふ。朕がよく考へて見るのに、多くの民が大義名分を辨へてゐれば、不忠者や不孝者はないわけである。朕が不徳で教化の道がまだ立たず、その上、七百年以来、政道が衰へて、君臣父子の道が乱れてゐて、かうした弊風の生ずるやうになつたのも、その起りは古いことである。容保の如きは、よい家柄に生れて、高位高官の地位に在る者、今回の叛逆も、一人でなしたものでなく、必ず首謀の臣があらう。その事情をよく調べて、死一等を減じ、寛大な取計らひをするがよい。朕もこれから政をはげんで、国内の民を教化に浴せしめ、国威を諸外国に輝かさうと思ふ。」


〔史実〕
会津藩主松平容保を中心として、奥羽の二十餘藩が連盟し、薩・長を憎んで、官軍に反旗を翻へしたことは、「奥羽に下し給へる詔」の謹解中に述べておいた。有栖川宮熾仁親王を大総督に戴く官軍は、越後口と奥州口の両方面から進んだ。奥州口に向つた官軍は、白河・棚倉・二本松・三春の諸城を陥れて、明治元年(慶応四年)八月二十三日、遂に若松城に迫つた。越後に於ては、長岡藩が頑強に抵抗したが、増援隊の柏崎上陸により、官軍の勢力が大いに加はり、賊軍も長岡城を支へることが出来なくなつた。かくして、官軍の一隊は、庄内に進撃し、他の一隊は、会津・米沢に向つて、若松城に肉薄した。米沢藩は九月四日に、仙台藩は同十五日に、官軍の軍門に降つた。会津城は、包囲の裡に在ること三旬、老幼婦女に至るまで、剣戟を取つて奮戦したが、城内の糧食も弾薬も尽き、明治元年九月二十二日、遂に降を乞ふに至つた。次いで庄内藩も降り、奥羽・越後の地は、悉く平定した。

ここに謹載したのは、その年(明治元年)十二月七日、叛逆の臣松平容保等を寛典に処すべき旨を仰せ出された優詔である。過去に如何なる功労があつたにもせよ、大義名分を誤つた叛臣に対して、かくの如き深厚なる御仁心を注がせたまうた聖恩は、これを拝誦する者に深い感激を生ぜしめる。「朕不徳ニシテ教化ノ道未タ立ス」と仰せられてあるのは、洵に恐懼の至りである。

かくして、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮に処せられ、仙台侯伊達慶邦・米沢侯上杉斉憲等は、みな退老謹慎を命ぜられた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月16日月曜日

氷川神社御親祭の詔

(明治元年十月十七日)


神祇しんぎたふとひ、祭祀さいしおもんずるは、皇国くわうこく大典たいてん政教せいけう基本きほんなり。しかるに、中世ちゆうせい以降いかう政道せいだうやうやおとろへ、祀典してんあがらず、つひ綱紀かうき不振ふしん馴致じゆんちす。ちんふかこれがいす。方今はうこん更始かうしあきあらた東京とうきやうき、したしくのぞみてまつりごとる。まさ祀典してんおこし、綱紀かうきり、もつ祭政さいせい一致いつちみちふくせむとす。すなは武蔵国むさしのくに大宮駅おほみやえき氷川ひかは神社じんじやもつて、当国たうごく鎮守ちんじゆし、したしくみゆきしてこれまつる。いまより以後いごとしごとに奉幣使ほうへいしつかはし、もつ永例えいれいせ。

神祇しんぎ 天地の神々。「天神地祇」の略。古語では、「神祇」の文字を「あまつかみくにつかみ」と訓み、また「あまつやしろくにつやしろ」と訓んでゐる。

祭祀さいし 「祭」も「祀」も「まつり」と訓む。期日を定めず、供物を捧げてまつる場合には、「祭」の文字を用ゐ、期日の定まれるまつりには、「祀」の文字を用ゐる。しかし、今日では、さうした区別なく並用せられてゐる。「孝経」の疏に、「祭ハ際ナリ、人神相接シ、故ニ際ト曰フナリ。」とある。「書経」の洪範には、「八政、三ニ祀ト曰フ。」とある。「事物紀原」に曰ふ。「包犠鬼物ヲ使ヒ以テ羣祠ニ致シ、犠牲ヲ以テ百神ニ登薦スルハ、則チ祭祀之始ナリ。」

皇国くわうこく大典たいてん 我が国に於て最も重んぜられてゐる儀式。

政教せいけう基本きほん 政治や教育のもと。

中世ちゆうせい以降いかう 中世このかた。「中世」は、明治十五年「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の、「中世なかつよに至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ」の「中世」と同じく、大化の新政頃から平安朝の末期までを、大凡に仰せられたものと拝する。故に、「中世以降」は、それ以後のこと、即ち、政権が武門に移つてからのこと。同じく軍人勅諭にも、「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり。」と仰せられてある。

祀典してん 「祭典」と同じ。まつりの儀式である。「礼記」に曰ふ。「此ノ族ニ非ザレバ、祀典ニ在ラズ。」

綱紀かうき不振ふしん 治国の基礎となるおきてが十分に行はれないこと。

馴致じゆんち 「おのづから招いた」といふこと。「馴致」は、「次第にうつりかはる」といふ意味の文字である。「易経」の坤卦に曰ふ。「履霜リサウ堅冰ケンピヨウ、陰始メテ凝ルナリ。其ノ道ヲ馴致スレバ、堅冰ニ至ルナリ。」

更始かうし 旧きものを改めて新しく始めること。

祭政さいせい一致いつち 政事と神事の一致。我が国に於ては、古来、祭祀を通じて政治が行はれ、政治のことを「まつりごと」ともいつてゐる。我が國體の本義に基づく特殊の政道である。

鎮守ちんじゆ その土地を鎮め守ります神またはその社。「源平盛衰記」の一院女院厳島行幸事の中に曰ふ。「是れ当国第一の鎮守に御座す。」

永例えいれい いつまでも守るべき定め。「永式」と同じ。


〔大意〕
天地の神々をうやまひ、そのまつりを重んずるは、我が国の大切な儀式で、政治教育のもとである。しかるに、中世このかた政治の道が衰へて、祭の儀式がおろそかになり、国のおきてもだんだんと行はれないやうになつた。朕は、これを深く慨いてゐる。今、すべてのことを改めようといふ時、新しく東京に都を定めて、親しく政をすることになつた。これから、先づ祭の儀式をおこし、国のおきてを引きしめ、祭と政とが一致してゐた昔の道にかへさうと思ふ。そこで、武蔵国大宮駅の氷川神社を、その国の鎮守とし、親ら行幸してこれを祭ることにする。今後は、毎年、奉幣使を遣はすやうにして、それを永くかはらぬ例とせよ。


〔史実〕
明治元年十月十七日、武蔵国氷川神社の御親祭を仰せ出されたのが、ここに謹載した詔である。氷川神社の創設は、その年代が甚だ古く、孝昭天皇の勅願によつて建立せられたものともいひ、日本武尊が御東征に際して勧請せられたものともいふ。由緒ある古社の一である。東京に遷幸後、直ちに御親祭を仰せ出されたのは、厚き敬神の大御心のあらはれと拝し奉る。詔の中には、「祭政一致の道を復せむとす。」と、固有の政道を明らかに宣示あらせられてある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月15日日曜日

東京行幸の詔

(明治元年十月十七日)


皇国くわうこく一体いつたい東西とうざい同視どうしちんいま東府とうふみゆきして、したしく内外ないぐわいまつりごとく。なんぢ百官ひやくくわん有司いうし同心どうしん戮力りくりよくもつ鴻業こうげふたすけよ。およこと得失とくしつ可否かひは、よろしく正議せいぎ直諫ちよくかんして、ちんこころ啓沃けいよくすべし。

皇国くわうこく一体いつたい 「皇国」は、天皇の統治したまふ国即ち我が大日本帝国の別名。「一体」は、一つの体の如く、統一したまふことを仰せられてあるものと拝する。

啓沃けいよく 心をひらいて君の御心にそそぐといふ意味の文字。「書経」に出づ。


〔史実〕
明治元年九月、明治天皇には、東幸を仰せ出され、賢所を奉じて御発輦、途中、石部駅前に於て、農事をみそなはし、庶民の辛苦を偲ばせたまひ、また始めて渺茫たる太平洋を叡覧あそばされ、十月十三日、東京に御著、江戸城を皇居として東京城と称せしめたまひ、十月十七日、ここに謹載した詔を賜はつたのである。「皇国一体、東西同視」と仰せられ、百官有司に正議直諫を求めたまうてある。この優渥なる聖旨は、封建制度に苦しんでゐた官民に、まことに大いなる衝撃を与へたであらう。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月14日土曜日

明治改元の詔

(明治元年九月八日)


太乙たいいつたいしてくらゐのぼり、景命けいめいけてもつげんあらたむ。まこと聖代せいだい典型てんけいにして、万世ばんせい標準へうじゆんなり。ちん否徳ひとくいへども、さいはひ祖宗そそうれいり、つつしみて鴻緒こうしよけ、万機ばんきまつりごとみづからす。すなはげんあらためて、海内かいだい億兆おくてうともに、更始かうし一新いつしんせむとほつす。慶応けいおう四年よねんあらためて、明治めいぢ元年ぐわんねんす。いまより以後いご旧制きうせい革易かくえきし、一世いつせい一元いちげんもつ永式えいしきす。主者しゆしや施行しかうせよ。

太乙たいいつたい 「皇祖皇宗の御遺訓を奉体して」といふ御意の御言葉であらうと拝察する。「太乙」は、星の名である。顧炎武の「日知録」に曰ふ。「太乙ハ、北辰ノ神名ナリ。下テ八卦之宮ヲ行キ、四毎ニ中央ニ還ル、漢ハ太乙祠ヲ甘泉泰畤ニ立ツ。宋ノ時ニ尤モ之ヲ崇祀シ、東太乙・西太乙・中太乙ノ各祠ヲ建テ、以テ太乙九宮ニ飛ビ、四十餘年毎ニ一徙イツシス。臨ム所ノ地ハ、兵役興ラズ、水旱不作ナリ。」また「二占要略」(上)に曰ふ。「太乙星ハ其本位北天ニアリテ八方ニ遊行シ、兵乱・禍災・生死ヲ掌ル霊妙不可思議ノ一星ナリ。」故に、最も尊き祖宗の御遺訓を、この霊妙なる星の名によつて仰せられてあるものかと拝察する。「太乙星」は、一名を「太一」とも書く。「太一」は、太初・太始を意味する文字であり、また天帝のゐます場所の名称であるから、それを「太乙」と混同し易い。

景命けいめい 「大いなる命をうけて」といふ意味の語である。御歴代を一貫してゐる恒例を仰せられたものと拝する。

げんあらた 年号をかへること。「元」は「年号」である。新らしき年号の第一年をいふこともある。

聖代せいだい典型てんけい よく治まつた御代の定まつたおきて。「聖代」は「聖世」と同じ。聖の御代である。天下太平の世をいふ。「典型」は、日常用語の「かた」「てほん」である。

万世ばんせい標準へうじゆん いつまでも変らない目じるし。韓愈の伯夷頌に曰ふ。「聖人スナハチ万世之標準ナリ。」

鴻緒こうしよ 皇位を承けつぎたまうたこと。「鴻緒」は、大いなる事業即ち国家統治の大業といふことから、転じて皇位を意味する語となつてゐる。「後漢書」順帝紀に曰ふ。「鴻緒ヲ奉遵シ、郊廟ノ主ト為リ、祖宗無窮之烈ヲ承続ス。」

更始かうし一新いつしん 旧きものを改めて新しくはじめること。

永式えいしき 永久に守るべきおきて。「恒例」と同じ意味の語である。


〔大意〕
祖宗の御遺訓を奉じて皇位に登り、御歴代を通ずる大命によつて年号を改める。まことにそれはよく治まれる御代のおきてであり、永久に変らない標準である。朕は、徳の薄い者であるが、幸ひに祖宗の御霊のお蔭をもつて、謹んで皇位をつぎ、みづからすべての政を行ふに当り、年号を改めて、国内の万民とともに、何事も一新してはじめようと思ふ。そこで、慶応四年を改めて、明治元年とする。これから旧い制度をかへて、一世一元とし、それを永久の例と定める。当局の者は、これを行ふやうに計らへ。


〔史実〕
明治天皇には、御即位の大礼を挙げさせたまうた翌年即ち慶応四年九月八日に、この詔を下し賜はり、慶応四年を明治元年と改元の旨、仰せ出された。第三十六代孝徳天皇の御代に、はじめて年号を大化と定めたまうてから、御歴代の天皇は、多くその例に従はせられたが、古来、瑞祥や災異によつて改元を仰せ出されたので、御一代の中に、幾度も年号が変り、一年の中に再三の変更を見るといふやうな例もあつた。明治天皇は、この詔に於て、一世一元の制を定めたまひ、後に「皇室典範」第十二条に、「践祚ノ後年号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と規定せられるに至つて、一世一元が永久の定例となつた。


〔追記〕
「明治」の文字は、「易経」の説卦伝に出てゐる。「聖人南面聴天下、嚮明而治。」これは、ただ参考として附記しておくだけに止める。典拠を他国の古典に求めて、その意味を詮索する必要はない。「明治」は、その文字のとほり、「明らかに治まる」御代を意味する国語として解することを妥当と思ふ。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月13日金曜日

御即位の宣命

(明治元年八月二十七日)


現神あきつみかみ大八洲国おほやしまぐにろしめす天皇すめら詔旨おほみことらまとりたまふ勅命おほみことを、親王みこたち諸臣おほきみたち百官人等もものつかさのひとたち天下あめのした公民おほみたからもろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

かけまくもかしこ平安宮たひらのみや御宇あめのしたしろしめ倭根子やまとねこ天皇すめらみことりたまふ天日嗣あまつひつぎ高御座たかみくらわざを、かけまくもかしこ近江あふみ大津宮おほつのみや御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと初賜はじめたま定賜さだめたまへるのりまにまつかまつれと仰賜おほせたま授賜さづけたまひ、かしこ受賜うけたまへる御代みよ御代みよ御定おんさだめのるがうへに、方今いま天下あめのした大政おほみまつりごといにしへかへたまひて、橿原宮かしはらのみや御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと御創業はじめたまへるわざいにしへもとづき、大御世おほみよ弥益益いやますます御代みよ個成賜かためなしたまはむ大御位おほみくらゐつかたまひて、すすむも不知しら退しりぞくも不知しらかしこさくとりたまふ大命おほみことを、もろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

しかるに、天下治あめのしたしろしめたまへるきみは、良弼よきたすけて、たひらけくやすらけく治賜をさめたまものりとなむきこしめす。ここ朕浅劣あれをぢなしいへども、親王みこたち諸臣おほきみたちあひあななひたすまつらむことよりて、仰賜おほせたま授賜さづけたまへる食国をすくに天下あめのしたまつりごとは、たひらけくやすらけく仕奉つかへまつるべしとおもほしめす。ここいよよ正直しやうぢきこころいだきて、天皇すめら朝廷みかどもろもろたす仕奉つかへまつれとりたまふ天皇すめら勅命おほみことを、もろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

〔註解〕
平安宮に御宇す倭根子天皇は孝明天皇、大津宮に御宇しし天皇は天智天皇、橿原宮に御宇しし天皇は神武天皇の御事と拝せられる。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)八月二十七日、明治天皇には、紫宸殿に於て、即位の大礼を挙げさせたまうた。その御儀式には、従来の流例を改めたまひ、専ら古制に則らせられた。内外多事の折とて、大嘗祭は、特に御延期仰せ出され、東京へ御遷都の後に挙行あらせられた。

ここに謹載したのは、その御即位の宣命である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)


2017年10月12日木曜日

奥羽に下し給へる詔

(明治元年八月七日)


朝綱テウカウヒトタヒユルミシヨリ、政権セイケンヒサシク武門ブモンス。イマヤ、チン祖宗ソソウ威霊ヰレイリ、アラタ皇統クワウトウキ、大政タイセイイニシヘフクス。コレ大義名分タイギメイブンソンスルトコロニシテ、天下テンカ人心ジンシン帰向キカウスルトコロナリ。サキ徳川トクガハ慶喜ヨシノブ政権セイケンカヘス、マタ自然シゼンイキホヒ、イハン近時キンジ宇内ウダイ形勢ケイセイヒラツキサカンナリ。サイアタツテ、政権セイケン一途イツト人心ジンシン一定イツテイスルニアラサレハ、ナニモツ國體コクタイシ、紀綱キカウフルハンヤ。ココオイテ、オホイ政法セイハフ一新イツシンシ、公卿コウケイ列藩レツパンオヨ四方シハウトモニ、ヒロ会議クワイギオコシ、万機バンキ公論コウロンケツスルハ、モトヨリ天下テンカコト一人イチニンワタクシスルトコロアラザレハナリ。シカルニ奥羽アウウ一隅イチグウイマ皇化クワウクワフクセス。ミダリ陸梁リクリヤウシ、ワザハヒ地方チハウク。チンハナハダコレヲウレフ。ソレ四海シカイウチイヅレチン赤子セキシニアラサル。率土ソツドヒンマタチン一家イツカナリ。チン庶民シヨミンオイテ、ナン四隅シグウベツヲナシ、アヘ外視グワイシスルコトアランヤ。タダチン政体セイタイサマタケ、チン生民セイミンガイス。ユヱヤムス、五畿ゴキ七道シチダウヘイクダシ、モツソノ不廷フテイタダス。オモフニ奥羽アウウ一隅イチグウシユウアニコトゴト乖乱クワイラン昏迷コンメイセンヤ。其間ソノアヒダカナラ大義タイギアキラカニシ、國體コクタイベンスルモノアラン。アルヒ其力ソノチカラオヨハス、アルヒイキホササフルアタハス、アルヒ情実ジヤウジツツウセス、アルヒ事体ジタイ齟齬ソゴシ、モツ今日コンニチイタル。カクゴトキモノ、ヨロシ此機コノキウシナハス、スミヤカソノ方向ハウカウサダメ、モツ素心ソシンアラハセハ、チンシタシクエラトコロアラン。縦令タトヒソノ党類タウルヰイヘドモ、其罪ソノツミ悔悟クワイゴシ、改心カイシン服帰フクキセハ、チンアニコレヲ隔視カクシセンヤ。カナラシヨスルニ至当シタウテンモツテセン。玉石ギヨクセキ相混アヒコンシ、薫蕕クンイウトモオナジウスルハ、シノハサルトコロナリ。ナンヂ衆庶シユウシヨヨロシク此意コノイ体認タイニンシ、一時イチジアヤマリニヨツテ、千載センザイハヂノコスコトナカレ。

朝綱テウカウ 「朝憲」「朝紀」と同じ。朝廷ののり即ち朝廷に於てお定めになつた種々の御法度を概括していふ語。

武門ブモン 「武家」と同じ。武士の家すぢをいふ。

祖宗ソソウ威霊ヰレイ 御先祖にまします天皇の御霊の御威光。「祖宗」は、「皇祖皇宗」と同じ。

大義名分タイギメイブン 最も大いなる人間の本分といふことで、君に対する臣民の道を称する語となつてゐる。「大義」は、義の大いなるもの。「左伝」の隠公四年に、「君子曰ク、石碏セキサクハ純臣ナリ、州吁シウクニクミテコウアヅカル。大義シンヲ滅ストハ、其レ是ヲ之謂フカ、ト。」「名分」は、その身分によつて定まれる人倫上の分限をいふ。臣は臣の道を守り、子は子の道を守るといふやうに、臣・子の身分によつて定まれる本分を、名分といふのである。「荘子」の天下篇に曰ふ。「易ハ以テ陰陽ヲヒ、春秋ハ以テ名分ヲフ。」

帰向キカウ みな同じやうな方向に向ふこと。向ふ所が一に帰するといふ意味。

宇内ウダイ形勢ケイセイ 世界のありさま。「宇内」は、「天下」と同じ。

國體コクタイ 古来、種々の意味に用ゐられてゐる。「国家の面目」といふ意味にも用ゐられ、「国家の威勢」といふ意味にも用ゐられ、「国家の特色」といふ意味に用ゐられ、また「国柄」といふ意味にも用ゐられた。今日では、国家の本質即ちその成立の精神や体制を総括した語となり、重大な意味を生じて来た。

紀綱キカウ 「綱紀」と同じ。国家の大小の政治。白虎通に曰ふ。「大ハ綱ト為シ、小ハ紀ト為ス。」

公卿コウケイ 「くぎやう」とも「くげ」とも訓む。朝廷に奉仕する高官。もと「三公九卿」から出た語である。太政大臣・左大臣・右大臣を公といひ、これに対して、大納言・中納言・三位以上を卿といひ、参議は、四位の者も特にこの卿の中に入れた。

四方シハウ 無位無官の人々。一般の士民。

陸梁リクリヤウ 「跳梁」と同じ。「ほしいままに跳る」といふ意味の語。大いに勢力を張つて猛威を振ふことの意味に多く用ゐられる。班固の西京賦に、「怪獣陸梁」といふ文字がある。

四海シカイウチ 四方の海の内といふことで、国内を意味する語となつてゐる。「論語」に、「四海之内、皆兄弟也。」とある。

赤子セキシ 天皇が万民を仰せられる御言葉。

率土ソツドヒン 「陸地のつづく限り」といふこと。「天下」または「国家」の意味。「詩経」小雅の「溥天フテンノ下、王土ニ非ザルハク、率土ノ濱、王臣ニ非ザルハ莫シ」から出た語。

五畿ゴキ七道シチダウ 山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五箇国と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道をいふ。

不廷フテイ 朝廷の命に従はざる者をいふ。「不庭」に通ずる。「不庭」は、王庭に来朝せざる者といふ意味の語である。「左伝」の隠公十一年に、「王命ヲ以テ不庭ヲ討ツ。」とある。

乖乱クワイラン昏迷コンメイ そむいて乱を起したり、正しい道理がわからずに迷つたりすること。

事体ジタイ齟齬ソゴ 事がらがくひちがふこと。「齟齬」は、上下の歯が悪くて嚙み合せることが出来ないことの意味から、物事のくひちがひといふ意味に転用せられてゐる語である。「太玄経」に、「其志齟齬」とある。

素心ソシン 「本心」と同じ。本来の心をいふ。李白の詩に曰ふ。「素心美酒ヲ愛シ。」また心の潔白を意味する語としての用例もある。顔延之の文に曰ふ。「ワカクシテタハムレヲ好マズ、長ジテ実ニ素心ナリ。」

玉石ギヨクセキ相混アヒコン 「玉と石とがまじつてゐる」といふことで、善悪の区別なきことや、賢愚の区別なきことに喩へられる語。「抱朴子」に曰ふ。「真偽顚倒、玉石混淆。」

薫蕕クンイウトモオナジウスル 善人も悪人も同じやうに取扱ふこと。「薫」は香草、「蕕」は臭草である。善人と悪人、君子と小人等を対照する時に、この「薫蕕」の文字が用ゐられる。

千載センザイ 「千年」と同じ。しかし、ただ千年といふ数字的の歳月を意味せず、非常に永き期間をいふ語となつてゐる。「三国名臣序賛」に「千載一遇、賢智之嘉会。」とある。


〔大意〕
朝廷の政綱が一度び衰へてから、政権が久しい間武家に委せられてあつた。今、朕が御先祖の御霊の御威光によつて、新に皇位をついで、大政が再び昔にかへつた。これは、大義名分の存するところであり、天下の人々の心が同じ方向に向つて来たからである。さきに徳川慶喜が政権をかへしたのもまた自然の勢であつた。殊に近ごろは、世界の形勢が、日に月に開けて進んで行く。かういふ時に当つて、政権が一途に出で、人の心が一定しなければ、どうしてこの國體を保ち、紀綱を振はせることが出来ようか。そこで、大いに政治の方法を一新し、公卿や諸藩や天下の一般士民とともに、広く会議を起し、すべての政を正しい意見によつてきめるのは、もとより天下のために必要なことで、一人の者が自分勝手にするところではない。しかるに、奥羽の隅の方には、まだ皇化にしたがはず、妄りに暴威を振ふ者があり、禍をその地方に及ぼしてゐる。朕はこれをまことに心配してゐる。凡そこの国の中に、だれ一人として朕の赤子でない者があらう。国土のつづく限り、みな朕の一家である。朕は、どうして多くの民の中の、遠い四方の隅々にゐる者だけを区別し、これを他国のやうな扱ひをすることが出来ようか。朕の政治を妨げ、朕の良民を害するから、それで、やむを得ず、五畿七道の兵をさしつかはして、反逆者の過を正すのである。思ふに、奥羽の隅にゐる者とても、悉く道理のわからない反逆者ばかりではあるまい。その間には、必ず君臣の大義を知り、國體といふことをよくわきまへてゐる者もあらう。その力が及ばなかつたり、自然の勢にかつことが出来なかつたり、ほんたうの事情がわからなかつたり、為す事がらがくひちがつたりして、今日のやうになつた者もあらう。さういふ者が、このをりを失はず、早く自分の進むべき方向を定め、さうして本心に立ちかへるならば、朕は、それについて考へるところがあらう。たとへ反逆者の仲間の者でも、その罪を悔い、心を改めて帰順すれば、朕は、これを別け隔てして見るやうなことをしない。必ず相当の恩典を与へるであらう。善人も悪人も一しよにしてしまふのは、忍びないことである。汝多くの民よ。どうかこの意をよく心得て、一時のまちがつた考へのために、ながく辱をのこすやうなことがないやうにせよ。


〔史実〕
鳥羽・伏見に於て、官軍に抵抗し、敗れた会津藩主松平容保かたもりは、大阪から江戸に逃れて国に帰つた。そこで、明治元年(慶応四年)三月二日、九条道孝が鳥羽鎮撫総督を拝命して、薩・長の兵若干を率ゐて、大阪から海路仙台に向つた。当時、関東の地が未だ平定せず、大兵を送り難き状態にあつたから、朝廷に恭順せる諸藩の兵を以て、朝命を奉ぜざる諸藩を討伐する方針を立て、道孝は、仙台藩の出兵を促した。しかるに、松平容保は、先非を悔いて謹慎し、仙台・米沢の二藩主に、降服謝罪の歎願を依頼した。仙台侯伊達慶邦よしくに、米沢侯上杉斉憲なりのりは、その願意を諒とし、総督道孝に討伐の中止を請うた。官軍の参謀の中に、頑として肯かず、あくまでも二藩に会津討伐を促す者があつたので、奥羽の人心が激昂し、「薩・長二藩は、王師に名を藉りて、私心を逞しうする者なり」とし、遂に諸藩が連盟して、総督に反抗するに至り、更に南部・秋田・津軽・二本松・棚橋等二十餘藩が悉くこれに応じて起ち、官軍は、施すべき策もなくなつた。その中に関東地方が平定したので、五月十九日、有栖川宮熾仁たるひと親王が会津征伐大総督に任ぜられ、官軍は、越後口と奥州口から、進発することになつた。その八月七日に、奥羽の士民を諭告したまうたのが、ここに謹載した詔である。

新政のはじめに、かうした内乱の生じたことを、深く遺憾におぼしめされた大御心から、この優渥なる詔を下し賜はつたものと拝察せらる。「夫四海ノ内、孰カ朕ノ赤子ニアラサル。率土ノ濱、亦朕ノ一家ナリ。」と仰せられ、「顧フニ奥羽一隅ノ衆、豈悉ク乖乱昏迷センヤ。其間必ス大義ヲ明ニシ、國體ヲ辨スル者アラン。或ハ其力及ハス、或ハ勢ヒ支フル能ハス、或ハ情実通セス、或ハ事体齟齬シ、以テ今日ニ至ル。」と仰せられ、更に、「玉石相混シ、薫蕕共ニ同スルハ、忍ハサル所ナリ」と仰せられてある。八紘一宇の御精神を以て君臨したまふ厚き御仁心が溢れてゐる。反逆の民にもなほこの寛大と温情とを以て悔悟を促したまうたのである。聖恩の優渥なること、まことに筆紙につくし難い。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)